PLATOとは? わかりやすく解説

Plato

名前 プラトー; プラトオン; プラトーンプラトン; プレイトー

PLATO

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 04:18 UTC 版)

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蒸留のシミュレーションを実行中のPLATOの画面

PLATO (Programmed Logic for Automated Teaching Operations)[1][2] は、ILLIAC I を使って1960年ごろ始まった世界初の汎用コンピュータ支援教育 (CAI) システムで、1970年代末には十数のメインフレームを使った世界各地のネットワークで数千の端末を接続したシステムへと成長した。イリノイ大学で構築され40年間機能し、同大学の学生の教科学習、周辺の学校や大学の教材などに使われてきた。いくつかの後継システムが今も運営中である。

コントロール・データ・コーポレーション (CDC) がシステムに必要なマシンの構築を担当した。CDC社長ウィリアム・ノリスは、PLATOをコンピュータ業界の一勢力とすることを計画していた。PLATOシステムが最終的に機能停止したのは2006年のことで、その数カ月前にウィリアム・ノリスが亡くなっている。フォーラム、電子掲示板、オンライン試験、電子メール、チャットルーム、描画言語、インスタントメッセージング、遠隔スクリーン共有、マルチプレイヤーゲームなど、様々なオンラインでの概念がPLATOで確立されていった。

背景

1944年の復員兵援護法(GI法)で第二次世界大戦で戦った退役軍人が大学教育を無料で受けられるようになるまで、アメリカで大学教育を受けられるのはごく一部の人間だけだった。1950年代前半には急激に入学者数が増大し、大学運営側にとってそういった大勢の新入生に確実に教育を受けさせることは重大な懸念事項となった。そこで、工場がコンピュータを使ったオートメーションで生産性を向上させられるなら、教育においても同じことができるのはないかという発想が生まれた。

1957年にソビエト連邦が人工衛星スプートニク1号を打ち上げたことにより起きた、いわゆるSputnik Crisis(スプートニク・ショック)により、アメリカ政府は科学技術教育に大きな予算を付けたため、1950年代末には多くの斬新な科学技術教育における試みが進められた。1958年、アメリカ空軍科学研究局は、コンピュータを活用した教育に関する会議をペンシルベニア大学で開催し、各界(例えばIBM)から研究成果が報告された。

起源

1959年ごろ、イリノイ大学の物理学者チャルマーズ・シャーウィンは工学部長ウィリアム・エヴェレットにコンピュータを使った学習システムを提案。工学部長は別の物理学者ダニエル・アルパートに技術者、管理職、数学者、心理学者らを招集させ、その問題についての会合を開いた。数週間に渡った話し合いでも1つのシステム設計を推奨するという結論には至らなかったが、アルパートは研究室の助手ドナルド・ビッツァー英語版がこの問題についてずっと検討してきており、実証システムを構築できると示唆した。

ビッツァーはPLATOの父とされており、高品質のコンピュータ支援教育を提供するにはよいグラフィックス表示が重要だと考えていた(毎秒10文字のテレタイプ端末が一般的だった時代のことである)。1960年、最初のシステム PLATO I が ILLIAC I 上で動作開始した。システムにはディスプレイ用のテレビ受像機とシステムのファンクションメニューを操作する特殊キーボードが含まれている。1961年、2名のユーザーが同時に利用できる PLATO II が稼働している。

プロジェクトの有用性が認められ、PLATOシステムは1963年から1969年にかけて再設計され、PLATO III が完成した。これはプログラミング言語TUTOR英語版を使って誰でもレッスンモジュールを設計できるという機能を備えていた。TUTORは1967年、生物学の大学院生ポール・テンザーが考案した。ウィリアム・ノリスが寄贈した CDC 1604英語版 上で作られ、PLATO III は同時に20のレッスンを実行でき、大学周辺の何箇所かに専用端末を配置してシステムに接続することができた。

NSFの関与

PLATO III までは陸海空の軍の基金からの少ない出資でまかなわれていたが、PLATO III が運営開始すると誰もが規模拡大に意味があると確信するようになった。1967年、アメリカ国立科学財団 (NSF) はそれなりの出資を約束し、ビッツァーは大学内に Computer-based Education Research Laboratory (CERL) を創設することになった。

1972年、新システム PLATO IV が運営可能となった。PLATO IV の端末は重要な技術革新である。ビッツァーが発明したオレンジ色のプラズマディスプレイを採用し、メモリー性とビットマップグラフィックスを両立させている。このプラズマディスプレイはベクター描画が高速で、1260ボーで1秒間に60本の線か180文字を描画できる。ビットマップとしては512×512ピクセルで、文字や線の描画はハードウェアの論理回路で行う。ビットマップグラフィックスで自前の文字も表示できる。プログラム制御でマイクロフィルムをスクリーンに投影できる。PLATO IV 端末には16×16の赤外線タッチパネル機能があり、画面に表示された選択肢に学生が指でタッチして答えることができる。

PLATO IV 端末の標準キーボード (1976年ごろ)

端末に周辺機器を接続することもできる。例えば、Gooch Synthetic Woodwind は4声のシンセサイザーで、PLATOのコースウェアに音響を加えることができる。後の PLATO V 端末では16声の Gooch Cybernetic Synthesizer に発展した。これにより初期のマルチメディアを実現している。これらのシンセサイザーのための音楽記述言語が開発され、コンパイラ、楽譜エディタ、音楽ファイル用ファイルシステム、リアルタイム演奏プログラム、デバッグや作曲のためのツールなどが開発された。対話型作曲プログラムもいくつか書かれている。

別の周辺機器として、音声合成装置Votrax英語版が開発され、TUTOR言語にはそれを使ってテキストを読み上げさせる "say" というコマンドが追加された(言語を指定するコマンドは "saylang")。

このシステムの目標は音楽教師が教材を作るためのツールを提供することで、音楽の聴き取りドリル、キーボード演奏の自動判別、エンベロープや音色を聞き分ける耳のトレーニング、音響学的な対話型の例示または実験、即時のフィードバックを伴う作曲や理論の演習などが考えられる[3]

PLATO V 端末(1981年)。RankTrekというアプリケーションを実行中。端末の持つマイクロプロセッサとメインフレームが協調動作する。プラズマディスプレイがオレンジ色の蛍光を放っている。ディスプレイの周囲に赤外線センサがあり、タッチパネルとしても機能する。

マイクロプロセッサが登場すると、新たなPLATO端末は PLATO IV 端末より安価でずっと柔軟性の高いものにできるようになった。イリノイ大学では PLATO V 端末と呼ばれたが、システム自体は PLATO IV のままだった。端末は Intel 8080 を搭載してローカルにプログラムを実行できるようになった。現代のJavaアプレットActiveXコントロールに近い。小さいソフトウェアモジュールを端末にダウンロードすることで、PLATOのコースウェアで複雑なアニメーション表示など従来では不可能だった表現が可能になった。

1972年初め、パロアルト研究所の研究者らがイリノイ大学のPLATOシステムを見学した。このときグラフィックス・アプリケーション・ジェネレータの Show Display、ユーザー定義文字を作成する Charset EditorTerm TalkMonitor Mode といったコミュニケーションプログラムなどが披露された。

1975年にはCDCが寄贈した CDC Cyber 73英語版 を使い、従来からの場所以外に、小中学校、高校、単科大学、総合大学、軍の研究所など150箇所で使われるようになった。PLATO IV はテキスト、グラフィックス、アニメーションなどでコースウェアを構成でき、共有メモリ機能によって複数ユーザー間でデータをやりとりできる。共有メモリ機能によってチャットのようなプログラムや、マルチユーザー型のフライトシミュレータなども開発された。

PLATO IV の運用開始にあわせて、ビッツァーはプロジェクトの成功を宣言し、汎用的なコンピュータ支援教育が万人に向けて可能になったと主張した。しかし、端末は非常に高価で(約1万2千ドル)、PLATOをさらに普及させるにはコスト低減のためのスケールダウンが必要と思われた。

CDCの時代

PLATO IV は製品化できるまでの品質レベルに達し、ウィリアム・ノリスはこれを製品化することにますます関心を寄せるようになった。ビジネスの観点から、ノリスはCDCをハードウェア製造企業からサービス企業へと進化させたいと考えており、コンピュータ支援教育は将来有望な市場と思われた。また、ノリスは1960年代末の社会不安の原因は社会的不平等にあると考えていて、それを何とかしたいと考えていた。PLATOは高等教育を受けられない若者に大学並みの教育を受ける機会を与えられる可能性があった。

ノリスは1960年代末にCERLに機材を提供してシステム開発を支援した。1971年、CDC内にPLATOのコースウェアを開発する部門を創設し、CDC内の従業員教育や技術マニュアルの多くをPLATOシステムのコースウェアとした。1974年、CDCのミネアポリス本社でもPLATOの運用を開始し、CDC Cyber の新機種をプロジェクトに寄贈するのと引き換えにシステムの商用化権を手に入れた。

IST-II端末で CDC Plato ネットワークを使っているところ(1979-80年ごろ)

CDCはこの契約を発表し、1985年までに同社の売り上げの半分がPLATOサービスによるものになると主張した。1970年代を通じてCDCは、商用ツールおよび失業者の新規業種向けの再訓練用ツールとしてPLATOを積極的に売り込んでいった。ノリスはPLATOの可能性をあきらめきれず、農夫のための作物情報システムやスラムの若者のための様々なコースなど、主流ではないコースの開発にも投資した。

1980年代初め、CDCは新聞・雑誌やラジオなどでPLATOの大々的な広告宣伝を開始する。プロジェクトは6億ドルとなり、CDC社内ではこの方針に反対する声も上がった。The Minneapolis Tribune 紙はその広告の文言に疑問を持ち、調査を開始した。調査の結果、そのシステムはよりよい教育システムであると証明されたわけではないが、少なくとも利用者は楽しんでいるということがわかった。外部調査機関による公式の評価でも、似たような結論となっている。すなわち、利用者は皆楽しんでいるが、教育効果という意味では平均的な人間の教師と基本的に変わらないという結果だった。

もちろん、コンピュータ支援教育が人間の教師と同等の効果を発揮したということは大きな成果であり、CBTの先駆者らが目標としていたことである。コストさえかければ、コンピュータで全生徒に対応することができ、ストライキも起こさない。しかしCDCは開発費用を少しでも回収するため、同社のデータセンターへのアクセスに1時間50ドルという料金を課した。そのため、人間の教師を雇うよりも高くつくという状況になってしまい、PLATOの実用化は失敗に終わった。それでも、システムを購入する大企業や政府機関も若干存在した。

PLATOをより大衆化する試みとして、1980年に Micro-PLATO が登場した。これは機能を限定したTUTORシステムをCDCの端末 "Viking-721" で動作させるもので、他にもいくつかのホームコンピュータへの移植版も登場した。TI-99/4AAtari 8ビット・コンピュータ、Zenith Z-100 などに移植され、さらに後にはラジオシャックTRS-80IBM PC にも移植された。Micro-PLATO はスタンドアロンでも使えるし、CDCのデータセンターに接続してマルチユーザープログラムを利用することもできる。このためCDCは1時間5ドルの Homelink サービスを開始した。

ノリスはPLATOにこだわり続け、1984年になっても、ほんの数年でPLATOがCDCの主要収入源となると主張していた。ノリスが1986年にCEOを引退すると、徐々にPLATOサービスは縮小されていった。後にノリスはPLATOが失敗した原因は Micro-PLATO にあると主張した。TI-99/4A を最初のプラットフォームに選んだが、TIは間もなくホームコンピュータ市場から撤退し、アタリのシステムも似たような結果となった。ノリスはPLATOシステムの価値はオンライン性にあるとし、その部分が欠落していた Micro-PLATO は時間の無駄だったとしている。

ビッツァーはCDCの過ちについてもっと率直に、同社の企業文化が問題だったと主張している。ビッツァーによれば、コースウェア開発コストはコース実施時間1時間あたり平均30万ドルで、CERLは似たようなコースウェアにもそれだけのコストを支払っていたと指摘している。したがって、CDCがコストを回収しようとすれば高い価格設定にせざるを得ず、価格が高ければ多くの人は寄り付かない。ビッツァーは、CDC社内にコースウェア開発部門を設置し、その部門が利益を上げることを指示したことが高い価格設定になった原因だと指摘した。

南アフリカでのPLATO

CDCがPLATOの販売促進を行っていたころ、海外でもPLATOを使用する動きが出始めた。南アフリカ共和国は1980年代初期の最大のPLATOユーザーの1つである。南アフリカの電力会社Eskom英語版ヨハネスブルグ北西の近郊にCDCの大型機を所持していた。発電および送電に関する管理タスクなどに使われていたが、PLATOソフトウェアも動作させていた。1980年代初期、南アフリカ最大のPLATOシステムを設置したのは西ケープ大学英語版で、有色人種の教育用に一時期は数百の PLATO IV 端末をヨハネスブルグとデータ回線で接続していた。他にもいくつかの研究教育機関でPLATOを採用している。例えば、ニューカッスル近郊のマダデニにあるマダデニ・カレッジなどがある。

マダデニ・カレッジは特に特殊な例である。学生は1,000名ほどで、全員黒人であり、99.5%がズールー人である。クワズールー自治領内の教師10人を配置した大学のひとつで、その中でも最大規模である。大学とは言っても当時は教室に電気もひかれておらず、大学全体で手回し式の電話が1台あるだけだった。その中に16台の端末を配置し絨毯が敷かれエアコンが設置された部屋というのは、明らかに異質だった。当時、PLATOの端末を通してだけ外界とコミュニケーションが可能だった。

学生の多くは田舎から来ており、PLATO端末は彼らがはじめて見る電化製品だった。彼らがPLATOを使いこなせるかという懸念もあったが、実際に使わせてみると何の問題もなかった。1時間以内に多くの学生がシステムに慣れ、数学と科学について学んだ。特にキーボードのタイピング学習が人気を呼んだという。一部の学生はTUTORの使い方まで学び、さらにごく一部の学生はズールー語のコースウェアを書くところまでいった。

南アフリカでは企業内のトレーニングにもPLATOが使われた。先述したEskomは発電所のオペレータの教育にPLATOを利用し成果をあげている。南アフリカ航空 (SAA) は客室乗務員の教育にPLATOによるシミュレーションを採用した。他にも多数の企業がPLATOを社内教育に採用した。

CDCの南アフリカ支社はPLATO上で中学校の全課程のコースウェアの開発を推進したが、完成間近になって南アフリカから撤退することになった。これは、アメリカ合衆国でアパルトヘイトを行っている南アフリカへの反感が強まったためでもあり、またCDCがマイクロコンピュータの急速な発展に乗り遅れたためでもある。

オンライン・コミュニティ

PLATOはコンピュータ支援教育向けに設計されたが、コミュニケーション支援機能によって生まれたオンライン・コミュニティが最大の遺産だとされている。デイビッド・R・ウーリーが1973年に開発した PLATO Notes は世界初の電子掲示板であり、後の Lotus Notes に影響を与えた。1976年までに様々なオンライン・コミュニケーションのツールが開発されている。Personal Notes(電子メール)、Talkomatic(チャットルーム)、Term-Talk(インスタントメッセージ)、monitor mode(遠隔スクリーン共有)などが開発され、顔文字もPLATO上で生まれた[4]

PLATO端末のプラズマディスプレイは、I/O帯域幅が小さかったが(毎秒180文字または毎秒60本の線の描画)、ゲームに適していた。1つのゲームに60ビットの共有変数を1500個割り当てることができ(当初)、それを使ってオンラインゲームを実装可能だった。教育用のシステムで利用者の多くが若者だったため、ゲームへの関心は高かった。

1970年代から1980年代にかけて、PLATO上で様々なマルチプレーヤーのオンラインゲームが作られた。「スタートレック」に基づいた Empire、フライトシミュレーションゲームの Airfight、戦車シミュレーションゲームの Pantherフリーセル(PLATOが発祥)、ロールプレイングゲームダンジョンズ&ドラゴンズ」から着想を得て生まれたいくつかのRPG(dndローグ)がある。MoriaDry GulchBugs-n-Drugs などはMUDの先駆けである。DOOMQuakeのような一人称視点のシューティングゲームも人気を呼んだ。Avatar はMUDとして特に人気となった。

こういったコミュニケーションツールやゲームはPLATOの多数のユーザーによるオンライン・コミュニティを形成する元になった。このコミュニティは20年以上も存続した[5]。PLATOでのゲームはあまりにも人気となったため、"The Enforcer" というプログラムを開発してゲームの実行を監視するようになった。コンテンツによるアクセス制限を設けるスタイルのさきがけである。

2006年9月、最後まで残っていた CDC Cyber を使ったPLATOシステムである連邦航空局のシステムが退役となった。PLATO系の現存するシステムとしては、NovaNet[6] と後述する Cyber1.org がある。

1976年時点で、本来の PLATO IV システムは950の端末からアクセスでき、3500時間のコースウェアを擁し、CDCとフロリダ州立大学でも追加のシステムが運用されていた[7]。最終的に12,000時間以上のコースウェアが開発されている。高校とカレッジの課程はほぼカバーしており、他に読書術、産児調節、ラマーズ法訓練、家計簿などを扱ったコースウェアもある。イリノイ大学医学部は大学1年生向けの科学系のコースウェアと自主試験システムを開発した[8][9]。1980年代にCDCが撤退すると、興味を持っていた教育者が IBM PC にその機能を移植し、さらにはwebベースのシステムを開発した。

その後の成果と他のバージョン

PLATOに関してCDCで最大の商業的成功となった事例として、全米証券業協会英語版 (NASD) のオンライン試験システムがある。1970年代にマイケル・スタイン、E・クラーク・ポーター、ジム・ゲスキエールがNASD重役のフランク・マコーリフと協力してオンデマンド型の商用試験サービスを開発した。試験ビジネスは徐々に成長し、1990年にはCDCから Drake Training and Technologies として独立することになる。その後同社はノベルと提携し、メインフレームからLANベースのクライアントサーバモデルへと移行し、世界規模で様々な資格認定団体のオンライン試験サービスを提供するビジネスを展開するようになっていった。現在はプロメトリックという社名である。また、プロメトリックを退職した人々が同様の企業ピアソンVUEを1994年に創業している。

他にも小規模な類似企業がいくつかPLATOシステムから派生していった。2012年現在で存続している企業として The Examiner Corporation がある。イリノイ大学出身のスタンレー・トロリップとCDC出身のゲイリー・ブラウンが1984年に The Examiner System のプロトタイプを開発し、同社の礎を築いた。

1970年代前半、ノースウェスタン大学ではPLATOを改良した MULTI-TUTOR システムを開発し、その一環としてジェームズ・スカイラーが HYPERTUTOR を開発した。これはいくつかのサイトでCDC製メインフレーム上で動作した[10]

1973年から1980年にかけて、イリノイ大学医学部のトーマス・T・チェンのグループがTUTORをミニコンピュータ Modcomp IV英語版 に移植した[11]。初のミニコンピュータへの移植であり、1976年にはほぼ動作するようになった[12]。1980年、チェンはこれを販売するために Global Information Systems Technology (GIST) を創業。後に Adayana Inc. に吸収された。Modcomp IV への移植に参加したヴィンセント・ウーはアタリ向けPLATOカートリッジを開発している。

1989年、CDCは "PLATO" の商標権とコースウェア販売部門の権利を The Roach Organization (TRO) に売却。TROは社名を PLATO Learning と変更し、2012年現在もPC上で動作するPLATOコースウェアの販売とサービスを提供している。

その後もCDCは基本システムを CYBIS (CYber-Based Instructional System) と改称して開発を継続し、既存の顧客へのサービスを継続。後にCYBIS事業を University Online に売却した。University Online は後に VCampus と改称した。

イリノイ大学もPLATOの開発を継続し、University Communications, Inc. (UCI) と共同で NovaNET という商用オンラインサービスを立ち上げた。CERLは1994年に閉鎖となり、PLATOのコードベースはUCIが管理保守することになった。UCIは後に NovaNET Learning と改称、同社は National Computer Systems (NCS) に買収された。間もなく、NCSはピアソン英語版が買収し、何度かの名称変更を経て、Pearson Digital Learning となった。

Cyber1

2004年8月、CDCの最終リリースに対応したPLATOが Cyber1 としてオンラインで復活した[13]フリーかつオープンソースのCDCマシンのエミュレータ Desktop Cyber 上で動作する。6カ月で口コミだけで500人のかつてのPLATOユーザーがこのシステムに登録している。Cyber1で使われているのはVCampusの許可を得たもので、CYBISの最終リリース版 (99A) である。オペレーティングシステムは CDC の資産を取得した Syntegra(現在はBTの一部)の許可を得て NOS の最終版 (2.8.7) を使用している。Cyber1では、これらのソフトウェアをエミュレータ上で動作させている。16,000以上のレッスンがあり、ゲームなどもかつてのものが動作する。

技術革新

  • プラズマディスプレイ - 1964年ごろ、ドナルド・ビッツァーが PLATO IV 向けに開発
  • タッチパネル - 1964年ごろ、ドナルド・ビッツァーが PLATO IV 向けに開発
  • Answer Judging Machinery - TUTORの25個のコマンドセットで、学生が複雑な概念を理解したかとうかを簡単に試験できる。
  • Show Display Mode - 1975年。TUTORソフトウェア向けのグラフィックス・アプリケーション・ジェネレータ。QuickDrawの描画言語エディタの前身。
  • Charset Editor - MacPaintのようにビットマップ画像を描画してダウンロード可能なフォントとして格納する。
  • Monitor Mode - 1974年。画面を共有する機能で、PLATOシステムを使った実習で使用。
  • Pad (数カ月後システムに Notesfiles として定義された) - 1973年。コンピュータ上の汎用掲示板。ニュースグループDECの DECnotes、Lotus Notes などの前身。
  • Talkomatic - 1974年。6人で会話できるチャットルーム(テキスト)。
  • Term-Talk - 1973年。インスタントメッセージの前身。
  • Gooch Synthetic Woodwind - 1972年ごろ。端末用音楽デバイス。サウンドカードMIDIの前身。
  • 顔文字 - 1973年

以下のようなゲームも開発された。

  • Airfight - 1974年、ブランド・フォルトナーが開発した3Dフライトシミュレータ。学生だったブルース・アートウィックがこれを見てフライトシミュレーションゲームを開発する会社 subLOGIC を創業し、同社の製品をマイクロソフトが買い取って、Microsoft Flight Simulator となった。
  • Empire - 1974年ごろ。プレーヤー30人の2Dシューティングゲーム。
  • Spasim - 1974年ごろ。プレーヤー32人の一人称視点の宇宙戦闘ゲーム(シューティング)。
  • Pedit5 - 1975年ごろ。初期のグラフィックスを使ったダンジョン探検ゲーム(RPG)。
  • dnd - 1975年。ダンジョン探検ゲーム(RPG)で、初めてボスキャラクターが登場。
  • Panther - 1975年ごろ、ジョン・ハフェリが開発。3D戦車シミュレーション。
  • Build-Up - 1975年、J・G・バラードの小説を元にブルース・ウォレスが開発。PLATOでは初の3D迷路ゲーム。
  • Think15 - 1977年ごろ。2D荒野探検シミュレーションゲーム。
  • Avatar - 1978年ごろ。2.5DグラフィックスのMUDゲーム。後のMMORPGの元になった。
  • フリーセル - 1979年、ポール・アルファイルが開発。
  • Mahjong solitaire - 1981年、ブローディ・ロッカードが開発。1986年に「上海」としてアクティビジョンが製品化。

脚注

参考文献

外部リンク


プラトン

(PLATO から転送)

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プラトン
Πλάτων
生誕 紀元前427年
死没 紀元前347年
時代 古代哲学
地域 西洋哲学
学派 プラトン学派
研究分野 修辞学芸術文学認識論倫理学正義政治教育家族
主な概念 イデア · 善のイデア · 哲人王 · 夜の会議
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プラトン(プラトーン、古代ギリシア語: Πλάτων古代ギリシア語ラテン翻字: Plátōn: Plato紀元前427年 - 紀元前347年)は、古代ギリシア哲学者である。ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師に当たる。

プラトンの思想は西洋哲学の主要な源流であり、哲学者ホワイトヘッドは「西洋哲学の歴史とはプラトンへの膨大な注釈である」という趣旨のことを述べた[注 1]。『ソクラテスの弁明』や『国家』等の著作で知られる。現存する著作の大半は対話篇という形式を取っており、一部の例外を除けば、プラトンの師であるソクラテスを主要な語り手とする[1]

青年期はアテナイを代表するレスラーとしても活躍し、イストミア大祭に出場した他、プラトンという名前そのものがレスリングの師から付けられた仇名であると言われている[2]

概説

プラトンは、師ソクラテスから問答法弁証法)と、(「無知の知」や「行き詰まり」(アポリア)を経ながら)正義・徳・善を理知的かつ執拗に追求していく哲学者(愛知者)としての主知主義的な姿勢を学び、国家公共に携わる政治家を目指していたが、三十人政権やその後の民主派政権の惨状を目の当たりにして、現実政治に関わるのを避け、ソクラテス死後の30代からは、対話篇を執筆しつつ、哲学の追求と政治との統合を模索していくようになる。この頃既に、哲学者による国家統治構想(哲人王思想)や、その同志獲得・養成の構想(後のアカデメイアの学園)は温められていた[3]

40歳頃の第一回シケリア旅行にて、ピュタゴラス学派と交流を持ったことで、数学幾何学と、輪廻転生する不滅の霊魂プシュケー)の概念[注 2]を重視するようになり、それらと対になった、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を醸成していく。

帰国後、アカデメイアに学園を開設し、初期末・中期対話篇を執筆。「魂の想起アナムネーシス)」「魂の三分説[4]」「哲人王」「善のイデア」といった概念を表明していく。また、パルメニデス等のエレア派にも関心を寄せ、中期後半から後期の対話篇では、エレア派の人物をしばしば登場させている。

後期になると、この世界そのものが神によってイデアの似姿として作られたものである[5]とか、諸天体は神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされている[6]といった壮大な宇宙論・神学的描写が出てくる一方、第一回シケリア旅行時にシュラクサイのディオンと知り合ったことを縁として、僭主ディオニュシオス2世が支配するシュラクサイの国制改革・内紛に関わるようになったことで、現実的な「次善の国制」を模索する姿勢も顕著になる。

生涯

少年・青年期

紀元前427年アテナイ最後の王コドロス英語版の血を引く一族の息子として、アテナイにて出生[注 3]

当時の名門家では文武両道を旨とし知的教育と並んで体育も奨励された。プラトンの本名は不明であるが、祖父の名にちなんで「アリストクレス」と命名されたのではないかと推測されている。ただし、現存する資料において確たる証拠はない[7]。体格が立派であったため、 レスリング(パンクラチオン)の師匠であるアルゴスのアリストンに「プラトン」と呼ばれ、以降そのあだ名が定着した[2]古希: πλατύς=広い) 。 ただしこれには異説もあり、文章表現の豊かさから名付けられたという説や、額が広かったから名付けられたという説を唱える著者もいる[2]。以降、彼はこの名前を使うため、後世の資料には、プラトンの表記のみが残っている[7]

彼のレスリングの業績について、アリストテレスの弟子(したがってプラトンの孫弟子)であるメッセネのディカイアルコスは、『哲学者伝』第一巻において、プラトンはイストミア大祭に「出場」したと述べている(「優勝」ではない)[2]。この記述は後世になるほど誇張され、アプレイウスはプラトンの出場リストにピューティア大祭を付け加えた他、古代末期の著者不明の書物ではオリュンピュア大祭(古代オリンピック)とネメア大祭で「優勝」したとまで述べているものさえある[8]。現代の研究者は一般にプラトンの古代オリンピックへの出場経験・優勝経験を疑問視しているが、紀元前408年のレスリング優勝者の名前が不明であること等から、優勝の可能性も完全なるゼロではないと指摘する研究者もいる[8]

若い頃はソクラテスの門人として哲学や対話術などを学びつつ、政治家を志していたが、三十人政権やその後の民主派政権における惨禍を目の当たりにし、現実政治に幻滅を覚え、国制・法律の考察は続けたものの、現実政治への直接的な関わりは避けるようになった[3]。特に、紀元前399年、プラトンが28歳頃、アテナイの詩人メレトスの起訴によって、ソクラテスが「神々に対する不敬と、青年たちに害毒を与えた罪」を理由に裁判にかけられ、投票によって死刑に決せられ、毒杯を仰いで刑死した[注 4]ことが、その重要な契機となった。

その後、第一回シケリア旅行に出かけるまでの30代のプラトンは、最初期の対話篇を執筆しつつ、後に「哲人王」思想として表明される政治と哲学を結びつける構想や、後にアカデメイアの学園として実現される同志獲得・養成の構想を、既にこの頃、密かに温めていたことが、『第七書簡』等で告白されている。

なお、アリストテレスによれば、プラトンは若い頃、ソクラテスよりもまず先に、対話篇『クラテュロス』にも題して登場させているクラテュロスに、ヘラクレイトスの自然哲学を学び、その「万物流転」思想(感覚的事物は絶えず流転しているので、そこに真の認識は成立し得ない)に、生涯に渡って影響を受け続けたという[9]

第一回シケリア旅行

この後、紀元前388年(-紀元前387年)、39歳頃、プラトンはアテナイを離れ、イタリアシケリア島(1回目のシケリア行)、エジプトを遍歴した。この時、イタリアでピュタゴラス派およびエレア派と交流をもったと考えられている。また、20歳過ぎの青年ディオンに初めて会ったのも、この時である[3]

ギリシア哲学者列伝』第3巻第1章18節-21節には、この際プラトンは、シュラクサイ僭主ディオニュシオス1世(下述するディオニュシオス2世の父)とも交際したが、口論となって僭主の機嫌を損ね、ラケダイモン(スパルタ)人へと売り飛ばされ、アイギナ島で死刑か奴隷売買の危機に遭ったが、キュレネ派のアンニケリスに救われたという説が紹介されているが、真相は定かではない。

学園開設

紀元前387年、40歳頃、プラトンはシケリア旅行からの帰国後まもなく、アテナイ郊外の北西、アカデメイアの地の近傍に学園を設立した。そこはアテナイ城外の森の中、公共の体育場が設けられた英雄アカデモス英語版の神域であり、プラトンはこの土地に小園をもっていた[注 5]。場所の名であるアカデメイアがそのまま学園の名として定着した。アカデメイアでは天文学生物学数学政治学哲学等が教えられた。そこでは対話が重んじられ、教師と生徒の問答によって教育が行われた。

紀元前367年、プラトン60歳頃には、アリストテレスが17歳の時にアカデメイアに入門し、以後、プラトンが亡くなるまでの20年間学業生活を送った。プラトン没後、その甥のスペウシッポスが跡を継いで学頭となり、アリストテレスはアカデメイアを去った。

第二回シケリア旅行

紀元前367年(-紀元前366年)、60歳頃、ディオン[注 6]らの懇願を受け、シケリア島のシュラクサイへ旅行した(2度目のシケリア行)。シュラクサイの若き僭主ディオニュシオス2世を指導して哲人政治[注 7]の実現を目指したが、プラトンが到着して4ヶ月後に、流言飛語によってディオンは追放されてしまい、不首尾に終わる[3]

第三回シケリア旅行

紀元前361年(-紀元前360年)、66歳頃、ディオニュシオス2世自身の強い希望を受け、3度目のシュラクサイ旅行を行うが、またしても政争に巻き込まれ、今度はプラトン自身が軟禁された。この時プラトンは、友人であるピュタゴラス派の政治家アルキュタスの助力を得て、辛くもアテナイに帰ることができた。

シュラクサイにおける哲人政治の夢は紀元前353年、プラトンが74歳頃、ディオンが54歳にして政争により暗殺されたことによって途絶えた。

最期

プラトンは晩年、著述とアカデメイアでの教育に力を注ぎ、紀元前347年紀元前348年とも)、80歳で没した。

遺体はアカデメイア内に埋葬された[10]2024年に解読されたパピルスヘルクラネウム・パピルスピロデモスの著作)には、その具体的な場所が記されている[11]。同パピルスには、最期の夜の様子や、奴隷として売られた状況についても記されている[11]

哲学

ラファエロ画「アテナイの学堂」 フレスコ画。なお、これはレオナルド・ダ・ヴィンチ自画像がモデルとされる。

イデア論

一般に、プラトンの哲学はイデア論を中心に展開されると言われる。

最初期の対話篇を執筆していた30代のプラトンは、「無知の知」「アポリア(行き詰まり)」を経ながら、問答を駆使し、正義・徳・善の「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続けるソクラテスの姿を描き、「徳は知識である」といった主知主義的な姿勢を提示するに留まっていたが、40歳頃の第一回シケリア旅行において、ピュタゴラス派と交流を持ったことにより、初期末の『メノン』の頃から、「思いなし」(思惑、臆見、doxa ドクサ)と「知識」(episteme エピステーメー)の区別、数学幾何学や「」との結びつきを明確に打ち出していくようになり、その延長線上で、感覚を超えた真実在としての「イデア」の概念が、中期対話篇から提示されていくようになった。

生成変化する物質界の背後には、永遠不変のイデアという理想的な範型があり、イデアこそが真の実在であり、この世界は不完全な仮象の世界にすぎない。不完全な人間の感覚ではイデアを捉えることができず、イデアの認識は、かつてそれを神々と共に観想していた記憶を留めている不滅の魂が、数学・幾何学や問答を通して、その記憶を「想起」(anamnêsis、アナムネーシス)することによって近接することができるものであり、そんな魂が真実在としてのイデアの似姿(エイコン)に、かつての記憶を刺激されることによって、イデアに対する志向、愛・恋(erôs、エロース)が喚起されるのだとした。

こうした発想は、『国家』『パイドロス』で典型的に描かれており、『国家』においては、「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」などによっても例えられてもいる。プラトンは、最高のイデアは「善のイデア」であり、存在と知識を超える最高原理であるとした。哲学者はを愛するが、その愛の対象は「あるもの」である。しかるに、ドクサ(思いなし、思い込み)を抱くにすぎない者の愛の対象は「あり、かつ、あらぬもの」である。このように論じてプラトンは、存在論知識を結びつけている。

パルメニデス』『テアイテトス』『ソピステス』『政治家』といった中期の終わりから後期にかけては、エレア派の影響も顕著になる。

ティマイオス』では、この世界・宇宙は、善なる製作者(デミウルゴス)たる神によって、永遠なるイデアを範型として模倣・制作したものであることが語られる。『法律』では、諸天体が神々の「最善の魂」の知性(ヌース)によって動かされていることを説明する。

問答法(弁証法・弁証術)

プラトンは、師ソクラテスから問答法弁証法、ディアレクティケー)を受け継いだ。『プロタゴラス』『ゴルギアス』『エウテュデモス』といった初期対話篇では、専らソフィスト達の弁論術(レートリケー)や論争術(エリスティケー)と対比され、妥当性追求のための手段とされるに留まっていたそれは、中期の頃から対象を自然本性にしたがって「多から一へ」と特定するための推論技術として洗練されていき[12]、数学・幾何学と並んで、「イデア」に近付くための不可欠な手段となる。

国家』においては、数学的諸学と共に、「哲人王」が修めるべき教育内容として言及される。

メノン』から中期にかけては「仮設(ヒュポテシス)法」、後期からは「分割(ディアイレシス)法」といった手法も登場する。

これらは後に、アリストテレスによって、「論理学」へと発展されることになる(『オルガノン』)。

数学・幾何学

プラトンは、第一回シケリア旅行でピュタゴラス派と交流をしたことで、『メノン』以降、数学幾何学を重視し、頻繁に取り上げるようになった。そしてこれらは、感覚を超えた真実在としての「イデア」概念を支える重要な根拠にもなった。

彼の学園アカデメイアにおいても、数学・幾何学が特に重視されたことはよく知られている。『国家』や『法律』においても、国制・法律を保全し、その目的である善を追求していく国家主導者としての「哲人王」や「夜の会議」構成員には必須の教育内容と述べられていて、数学を重視する姿勢は晩年まで一貫していた。

天文学・自然学・神学

中期・後期にかけての対話篇においては、「イデア」論をこの世界・宇宙全体に適用する形で、自然学的考察がはかられていった。

初期の『ゴルギアス』においても既に、ソクラテスとカリクレスの問答を通して、「自然」(ピュシス)と「社会法習」(ノモス)の(「善」を目的とするという点での)一体性に、言及されているが、中期の『パイドン』では、アナクサゴラス自然哲学を、「万物の根本原因」を「ヌース」(知性・理性)であると言っていながら、それをうまく説明できずに実際には各現象の部分的な構造説明に終始していると非難しつつ、プラトン等の求めているものがまさしくそうした世界全体・宇宙全体を覆う「万物の根本原因」であり、それに基づく「万物を貫く共通の善」であることが強調される。

パイドロス』では、3つ目に提示された物語において、天球を駆け、その外側のイデアを観想する神々と魂の姿が描かれ、後期の『政治家』では、エレアからの客人によって神々による天体の統治についての物語が、『ティマイオス』ではティマイオスによって、超越的な善なる創造神デミウルゴスによって、この宇宙が彼の似姿として生み出されたことが、語られる。

そして、最後の対話篇である『法律』では、第10巻を丸々使って、無神論に対する反駁や、諸天体は神々の「最善の魂」、その知性(ヌース)によって動かされていること、神々は人間を配慮していて宇宙全体の善を目指していること等の論証を行う。これは、プラトンにとっての「神学論」であると同時に、歴史上初の「自然神学」(哲学的神学)であるとされる[13]

このように、プラトンにとっては、自然・世界・宇宙と神々は、不可分一体的なものであり、そしてその背後には、善やイデアがひかえている。

こうした発想は、アリストテレスにも継承され、『形而上学』『自然学』『天体論』などとして発展された。

魂論

プラトンの思想を語る上では、「イデア」と並んで、「」(プシュケー)が欠かせない要素・観点となっている。そして、両者は密接不可分に関連している。

初期の『ソクラテスの弁明』『クリトン』『プロタゴラス』『ゴルギアス』等においても既に、「魂を善くすること」や、死後の「魂」の行き先としての冥府などについて言及されていたが、第一回シケリア旅行においてピュタゴラス派と交流を持った後の、『メノン』以降の作品では、本格的に「魂」(プシュケー)が「イデア」と並んで話の中心を占め、その性格・詳細が語られていくようになっていく。

メノン』においては、「(不死の)魂の想起」(アナムネーシス)がはじめて言及され、「学ぶことは、想起すること」という命題が提示される。中期の『パイドン』においては、「魂の不死」について、問答が行われる。

国家』においては、理知、気概、欲望から成る「魂の三分説」が説かれ、末尾では「エルの物語」が語られる。『パイドロス』においては、「魂」がかつて神々と共に天球を駆け、その外側の「イデア」を観想していた物語が語られる。

後期末の『法律』第10巻では、「魂」こそが運動の原因であり、諸天体は神々の「最善の魂」によって動かされていることなどが述べられる。

このようにプラトンの思想においては、「魂」の概念は「善」や「イデア」と対になり、その思想の根幹を支える役割を果たしている。

なお、アリストテレスも、『霊魂論』において、「魂」について考察しているが、こちらは感覚・思考機能を司るものとして、今日で言うところの脳科学神経科学的な趣きが強い考察となっている。

倫理学

プラトンは、師ソクラテスから、「徳は知識である」という主知主義的な発想と、問答を通してそれを執拗に追求していく愛智者(哲学者)としての姿勢を学んだ。初期のプラトンは、そうした師ソクラテスが、正義・徳・善などの「単一の相」を目指して悪戦苦闘を続ける様を描いていたが、第一回シケリア旅行におけるピュタゴラス派との交流を経て、中期以降の対話篇では、その目指されるべきものが、「善のイデア」であるという方向性で、固まっていった。

国家』においては、国家の守護者たる「哲人王」が目指すべきものとして「善のイデア」が提示され、その説明のために「太陽の比喩」「線分の比喩」「洞窟の比喩」が示された。

後期末の『法律』においては、第10巻にて、神々は人間を配慮しており、その配慮は宇宙全体の善を目指しているのだということが論証され、第12巻においては、「哲人王」に代わる、国制・法律保全、及びその目的である「善」達成のための機構としての「夜の会議」の構成員もまた、「哲人王」と同じような教育と資質が求められることが述べられる。

こうしてプラトンは、人間が「自然」(ピュシス)も「社会法習」(ノモス)も貫く「善のイデア」を目指していくべきであるとする倫理観をまとめ上げた。

そしてこの倫理観は、『国家』『法律』において、「哲人王」「夜の会議」と関連付けて述べられていることが示しているように、プラトンの政治学・法学の基礎となっている。

アリストテレスもまた、『形而上学』から『倫理学』を、『倫理学』から『政治学』を導くという形で、そして、「最高の共同体」たる国家の目的は「最高善」であるとして、プラトンのこうした構図をそのまま継承・踏襲している。

政治学・法学

プラトンが、若い頃から一貫して政治・国制・法律に対する強い関心を持ち続け、晩年に至るまでその考察を続けていたこと、また、彼にとって政治と哲学は不可分な関係にあり、両者の統合を模索し続けていたことは、彼の一連の著作の内容や『第七書簡』のような書簡の文面からも明らかである。

アテナイにおける三十人政権や、その後の民主派政権の現実を目の当たりにして、現実政治に幻滅し、直接関わることは控えていたが、そんな30代で書いた初期の『ソクラテスの弁明』『クリトン』でも既に、国家・国制・法律のあるべき姿を描こうとする姿勢が顕著であり、『ゴルギアス』においては、真の「政治術」とは、「弁論術」(レートリケー)のような「迎合」ではなく、「国民の魂を善くする」ことであらねばならず、ソクラテスただ1人のみが、そうした問題に取り組んでいたのだということを、描き出している。

このように、プラトンは当初から政治と哲学の統合を模索しており、中期以降に示される「哲人王」思想や、後にアカデメイアの学園として実現される同志獲得・養成の構想を、この頃既に持っていたことが、『第七書簡』でも述べられている。そして、第一回シケリア旅行にて、シュラクサイのディオンという青年に出会い、彼に自分の思想・哲学を伝授したことをきっかけとして、後にシュラクサイという現実国家の改革(及び内紛)にも、実際に携わっていくことになる。


プラトンの著作の中で群を抜いて圧倒的に文量の多い二書、10巻を擁する中期の『国家』と、12巻を擁する後期末の『法律』、この二書はその題名からも分かるように、いずれも国家・国制・法律に関する書である。こうしたところからも、プラトンがいかにこの分野に強い志向・情熱を持っていたかが窺える。

この二書はいずれも、「議論上で、理想国家を一から構築していく試み」という体裁が採られている。

国家』では、「哲人王」思想が披露される他、

  • 「優秀者支配制」(アリストクラティア[注 8]) - 「理知」優位[14]
  • 「名誉支配制」(ティモクラティア[注 9]) - 「気概」優位[14]
  • 寡頭制」(オリガルキア[注 10])- (富への)「欲望」優位[15]
  • 民主制」(デモクラティア) - (自由への)「欲望」優位[16]
  • 僭主独裁制」(テュランニス)

という5つの国制の変遷・転態の様を描いたり、「妻女・子供の共有」や、俗に「詩人追放論」と表現されるような詩歌・演劇批判を行っている。


(なお、『国家』と『法律』の中間には、両者をつなぐ過渡的な対話篇として、後期の『政治家』がある。ここでは、現実の国制として、

  • 「王制」(バシレイア) - 法律に基づく単独者支配
  • 「僭主制」(テュランニス) - 法律に基づかない単独者支配
  • 「貴族制」(アリストクラティア[注 11]) - 法律に基づく少数者支配
  • 「寡頭制」(オリガルキア) - 法律に基づかない少数者支配
  • 「民主制」(デモクラティア) - 多数者支配(法律に基づくか否かでの区別無し)

が挙げられ、

  • 上記の諸国制とは異なる、知識・技術と善への志向を持った「哲人王」による理想政体実現の困難さ
  • 法律の不十分性と有用性
  • 上記の現実的国制の内、法律が順守された際には、「単独者支配」「少数者支配」「多数者支配」の順でマシな体制となり、逆に、法律が軽視された際には、「多数者支配」「少数者支配」「単独者支配」の順でマシな体制となる
法律遵奉時 法律軽視時
最良 単独者支配(王制) 多数者支配(民主制)
中間 少数者支配(貴族制) 少数者支配(寡頭制)
最悪 多数者支配(民主制) 単独者支配(僭主制)

などが述べられ、現実的な「次善の国制」が模索されていく。)


法律』では、その名の通り、専ら法律の観点から、より具体的・実践的・詳細な形で、各種の国家社会システムを不足なく配置するように、理想国家「マグネシア」の構築が進められる。第3巻においては、アテナイに代表される民主制と、ペルシアに代表される君主制という「両極」の国制が、いずれも衰退を招いたことを挙げ、スパルタクレタのように、両者を折衷した

が望ましいことが述べられる。第10巻においては、無神論批判と敬神の重要性が説かれる。最終第12巻では、国制・法律の保全と、それらの目的である「善」の護持・探求のために、『国家』における「哲人王」に代わり、複数人の哲人兼実務者から成る「夜の会議」が提示され、話が終わる。


なお、アリストテレスは、『政治学』の第2巻において、上記二書に言及し、その内容に批判を加えているが、他方で、「善」を国家の目的としたり、プラトンを踏襲した国制の比較検討をするなど、プラトンの影響も随所に伺わせている。

教育論

プラトンにとって、哲学・政治と密接に関わっている教育は、重大な関心事であり、実際40歳にしてアカデメイアに自身の学園を開設するに至った。

プラトンの教育論・教育観は、『国家』の2巻-3巻、6巻-7巻、及び『法律』の7巻に典型的に描かれているが、「徳は何であるか、教えうるのか」「徳の教師を自認するソフィスト達は何を教えているのか」等の関連論も含めれば、初期の頃からほぼ全篇に渡って教育論が展開されていると言っても過言ではない。

そして、総じて言えば、数学幾何学問答法弁証法)を中心とした、「善のイデア」を見極めていける・目指していけるようにする教育、それをプラトンは国の守護者、指導者、立法者であるべき哲学者たちに必要な教育だと考えており、アカデメイアでもそうした教育が行われていた。


また、『第七書簡』においては、ディオニュシオス2世が半可通な理解で哲学の知識に関する書物を著したことを批判しつつ、「師資相承」のごとき、いわゆる「知の飛び火」論が展開されている。哲学(愛知)の営みが目指している真実在(イデア)へは、

  1. 「名辞」(オノマ)
  2. 「定義」
  3. 「模造」
  4. 「知識」

の4つを経由しながら、接近していくことになるが、これらはどれも真実在(イデア)そのものとは異なる不完全なものであり、「言葉」や「物体」を用いて、対象が「何であるか」ではなく「どういうものであるか」を差し出すものでしかない。そして、それらはその脆弱さゆえに、論駁家によって容易に操縦されてしまうものでもある。

したがって、哲学(愛知)の営みが目指している真実在(イデア)に関する知性は、教える者(師匠)と教えられる者(弟子)が生活を共にし、上記の4つを突き合わせ、好意に満ちた偏見も腹蔵もない吟味・反駁・問答が、一段一段、行きつ戻りつ行われる数多く話し合いによってはじめて、人間に許される限りの力をみなぎらせて輝き出すし、優れた素質のある人の魂から、同じく優れた素質のある人の魂へと、「飛び火によって点じられた燈火」のごとく生じさせることができるものであり、いやしくも真剣に真実在(イデア)を目指し、そうしたことをわきまえている哲学者(愛知者)であるならば、そうした特に真剣な関心事は、魂の中の最も美しい領域(知性)にそのまま置かれているし、それを知っていると称して、みだりに「言葉」という脆弱な器に、ましてや「書かれたもの」という取り換えも効かぬ状態に、それをあえて盛り込もうとはしない、というのがその論旨である。

これと同じ主旨の話は、『パイドロス』の末尾においても述べられている[17][注 12]

感性論・芸術論

プラトンは経験主義のような、人間感覚や経験を基盤に据えた思想を否定した。感覚は不完全であるため、正しい認識に至ることができないと考えたためである。

また、『国家』においては、芸術詩歌演劇)についても否定的な態度を表している[18]視覚で捉えることができるは不完全なものであり、完全な三角形や完全な円や球そのものは常住不変のイデアである。芸術はイデアの模倣にすぎない現実の事物をさらに模倣するもの、さらには事物の模倣にすぎないものに人の関心を向けさせるものである、として芸術に低い評価を下した。

著書

プラトンの著書として伝わるものには、対話篇と書簡がある。

編纂と真贋問題

プラトンの著作として伝承された文献の中には、真偽の疑わしいものや、多くの学者によって偽作とされているものも含まれている。

プラトンの著書の真贋はすでに紀元前のプトレマイオス朝アレクサンドリアの文献学者によって議論されている。アレクサンドリア出身で、ローマ帝国2代目皇帝ティベリウスの廷臣だったトラシュロスは、当時伝わっていたプラトンの著作群の中から真作と考えた36篇を抜き出し、ギリシア悲劇の四部作形式(悲劇三部作+サテュロス劇)にならい、以下のように、9編の4部作(テトラロギア)集にまとめた[19]

  1. エウテュプロン』『ソクラテスの弁明』『クリトン』『パイドン
  2. クラテュロス』『テアイテトス』『ソピステス』『政治家
  3. パルメニデス』『ピレボス』『饗宴』『パイドロス
  4. アルキビアデスI』『アルキビアデスII』『ヒッパルコス』『恋敵
  5. テアゲス』『カルミデス』『ラケス』『リュシス
  6. エウテュデモス』『プロタゴラス』『ゴルギアス』『メノン
  7. ヒッピアス (大)』『ヒッピアス (小)』『イオン』『メネクセノス
  8. クレイトポン』『国家』『ティマイオス』『クリティアス
  9. ミノス』『法律』『エピノミス』『書簡集

現在の「プラトン全集」は、慣行によりこのトラシュロスの全集に準拠しており、収録された作品をすべて含む。

現在、プラトンの真筆であると研究者の間で合意を得ている著作のうち、最も晩年のものは『法律』である。ここでは『国家』と同じく、政治とは何かということが語られ、理想的な教育についての論が再び展開されるが、哲人王の思想は登場しない。また、特筆すべきことに『法律』ではソクラテスではなく無名の「アテナイから来た人」が語り手を務める。多くの研究者は、この「アテナイからの人」をプラトン自身とみなし、この語り手の変化は、プラトンがソクラテスと自分との思想の違いを強く自覚するに至ったことを示唆しており、そのゆえにソクラテスを登場させなかったのだと考えている。

『法律』の続編として書かれたであろう『エピノミス』(『法律後篇』)では哲人王の思想が再び登場するが、『ティマイオス』の宇宙観と『エピノミス』の宇宙観が異なること、文体の乱れなどから、ほとんどの学者は『エピノミス』を弟子あるいは後代の偽作としている。ただし『エピノミス』は最晩年のプラトンがその思想を圧縮して書き残したものだと考えている学者も少数ながら存在する。

印刷と普及

古代にトラシュロス等によって編纂されたプラトンの著作は、写本によって継承されてきたが、一般に普及するようになったのは、ルネサンス期に入り、印刷術・印刷業が確立・発達した15-16世紀以降である。

当時、様々な印刷工房によって古典的著作が出版されたが、中でもスイスジュネーヴ)のアンリ・エティエンヌラテン語ヘンリクス・ステファヌス)の印刷工房によって、1578年に出版されたプラトン全集の完成度が高く、現在でも「ステファヌス版[注 13]として、標準的な底本となっている。これはページごとにギリシャ語原文とラテン語訳文の対訳が印刷されたものであり、各ページには、10行ごとにA, B, C... とアルファベットが付記されている。現在でも、プラトン著作の訳文には、「348A」「93C」といった数字とアルファベットが付記されることが多いが、これは「ステファヌス版」のページ数・行数を表している。

ただし、現在における翻訳出版においては、直接的には、イギリスの古典学者ジョン・バーネットの校本として、1900-1907年に「オクスフォード古典叢書英語版」の一部として出版された、通称「バーネット版」等が底本として用いられることが多い。

執筆時期

19世紀末のキャンベル英語版[20]ルトスワフスキ英語版が開拓した文体統計学の手法(文章に使われる語彙や母音の連続などを調べる手法)により、現代では大半の作品の執筆時期について学者間の見解は一致している。特に、プラトンはイソクラテスの影響を受けて中期より文体を変えていることが分かっている。また、上記のトラシュロスが『クリトン』の後においた『パイドン』(ソクラテスの死の直前、ピュタゴラス学派の二人とソクラテスが対話する)は、中期の作品に属することが分かっている。ただし、いくつかの作品についてはその内容から執筆年代についての論争がある。

初期-中期(30代-40代)

執筆推定年代については、まず、『ソクラテスの弁明』『クリトン』『ラケス』『リュシス』といった最初期の著作は、プラトンが30代後半の頃、すなわち紀元前388年-紀元前387年の第一回シケリア旅行に行くに、書かれたものであるという見解[21]で、概ね合意されている。

また、初期末の『メノン』、そして、『饗宴』『パイドン』といった中期の作品は、ピタゴラス学派の影響が色濃いこともあり、紀元前388年-紀元前387年の第一回シケリア旅行の、またその直後の紀元前387年アカデメイアの学園が開設されたに、すなわち40代になってから、数年の間に書かれたものであるという見解[22][23][24][25]も、概ね合意されている。

両者の境界線にあるのが、『ゴルギアス』であり、これが書かれたのは第一回シケリア旅行の前であるという見解[26]と、後であり『メノン』とほぼ同時期だという見解[27]に分かれる。

中期-後期(50代-60代)

続く『国家』『パイドロス』は、紀元前375年辺りの時期、すなわち50代で書いたと推定される[28][29]

中期末の『テアイテトス』は、紀元前368年-紀元前367年頃、プラトンが60歳頃、すなわち紀元前367年-紀元前366年の第二回シケリア旅行にて、シュラクサイの政争に巻き込まれる前後に書かれたものだと推定されている[30]

『テアイテトス』と内容的にも連続している後期対話篇『ソピステス』『政治家』などは、その後、プラトンが紀元前367年-紀元前366年の第二回シケリア旅行から帰って来て以降の、60代で書かれたと推定される[31]。『ティマイオス』『クリティアス』は、その次に書かれた。

最後期(70代)

後期末(最後)の対話篇である『法律』は、紀元前361年-紀元前360年の第三回シケリア旅行から帰国した後の、紀元前358年に書いたと推定される『第三書簡』や、紀元前352年に書いたとされる『第七書簡』『第八書簡』との内容的な関連性も見られるので[32]、紀元前350年代半ばから、死去する紀元前347年に至るまでの70代に書かれたと推定される[33]

『法律』と同じく、最後期に分類[34]される『ピレボス』も、同じく第三回シケリア旅行後の紀元前350年代、『法律』の直前ないし並行する形で執筆されたと推定される。

一覧

初期

主にソクラテスの姿を描く。

中期

イデア論、魂の想起説、「哲人王」思想を展開。

後期

イデア論に関する発展的・吟味的内容を扱う。「自然」「宇宙」論へとより一層踏み込む。現実的な「次善の国制」も模索。「哲人王」に代わり「夜の会議」を提示。

邦訳

後世への影響

プラトンの西洋哲学に対する影響は弟子のアリストテレスと並んで絶大である[注 14]

プラトンの影響の一例としては、ネオプラトニズムと呼ばれる古代ローマ末期、ルネサンス期の思想家たちを挙げることができる。「一者」からの万物の流出を説くネオプラトニズムの思想は、成立期のキリスト教やルネサンス期哲学、さらにロマン主義などに影響を与えた(ただし、グノーシス主義アリストテレス哲学の影響が大きく、プラトン自身の思想とは様相が異なってしまっている)。

プラトンは『ティマイオス』の中の物語で、制作者「デミウルゴス」がイデア界に似せて現実界を造ったとした。この「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換えることにより、1世紀のユダヤ人思想家アレクサンドリアのフィロンユダヤ教とプラトンとを結びつけ、プラトンはギリシアのモーセであるといった。『ティマイオス』は西ヨーロッパ中世に唯一伝わったプラトンの著作であり、プラトンの思想はネオプラトニズムの思想を経由して中世のスコラ哲学に受け継がれる。

アトランティス伝説の由来は『ティマイオス』および『クリティアス』によっている。

カール・ポパーは、プラトンの『ポリティア』などに見られる設計主義的な社会改革理論が社会主義国家主義の起源となったとして、プラトン思想に潜む全体主義を批判した[35]

脚注

注釈

  1. ^ “ヨーロッパの哲学の伝統のもつ一般的性格を最も無難に説明するならば、プラトンに対する一連の脚註から構成されているもの、ということになる”[1](『過程と実在』)。ちなみに、ホワイトヘッドによるこのプラトン評は「あらゆる西洋哲学はプラトンのイデア論の変奏にすぎない」という文脈で誤って引用されることが多いが、実際には、「プラトンの対話篇にはイデア論を反駁する人物さえ登場していることに見られるように、プラトンの哲学的着想は哲学のあらゆるアイデアをそこに見出しうるほど豊かであった」という意味で評したのである。
  2. ^ 「肉体(ソーマ)は墓(セーマ)である」の教説はオルペウス教的と評される。ただし、E・R・ドッズは著作で、通説を再考しこれがオルペウス教の教義であった可能性は低いとみている(『ギリシァ人と非理性』みすず書房、p.182)。
  3. ^ プラトンの家系図については曽祖父クリスティアスの項を参照
  4. ^ この裁判を舞台設定としたのが『ソクラテスの弁明』である。
  5. ^ シュヴェーグラー『西洋哲学史』によれば、この地所はプラトンの父の遺産という。また、ディオゲネス・ラエルティオスによれば、プラトンが奴隷として売られた時にその身柄を買い戻したキュレネ人アンニケリスが、プラトンのためにアカデメイアの小園を買ったという。
  6. ^ ディオゲネス・ラエルティオスアリスティッポスの説として述べるところによれば、ディオンはプラトンの恋人(稚児)であった。プラトンは、他にもアステールという若者、パイドロス、アレクシス、アガトンと恋仲にあった。また、コロポン生まれの芸娘アルケアナッサを囲ってもいた。『ギリシア哲学者列伝 (上)』岩波文庫、271-273頁。
  7. ^ 対話篇『国家』に示される。
  8. ^ 一般的には「貴族制」を指すが、ここではプラトンは語義通り「優秀者」による支配の意味で用いている。
  9. ^ 一般的にはソロンの改革に見られるような、財産によって階級・権限を分けた「財産政治/制限民主制」を意味する言葉だが、ここではプラトンはクレタスパルタに見られるような「軍人優位の、勝利と名誉を愛し求める体制」の意味で用いている。『国家』547D-548C
  10. ^ ここではプラトンは、この言葉を「財産評価に基づく体制」「財産家・富裕層による支配体制」の意味で、すなわち一般的には先の「ティモクラティア」という言葉で言い表されている意味内容で用いているので紛らわしい。『国家』550D, 551A-B
  11. ^ 『国家』においては「優秀者支配制」の意味で用いられていたが、ここでは本来の意味である「貴族制」の意味で用いられている。
  12. ^ ジャック・デリダグラマトロジーについて』に代表されるように、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と考える者もいるが、上記『第七書簡』の記述からも分かるように、プラトンは「書き言葉」「話し言葉」を問わず、「言葉」全般を不完全なものとみなしてそこへの依存を批判しているのであり、『パイドロス』のこの箇所の記述を、「書き言葉批判」「音声中心主義」と解釈するのは明確な曲解・誤解である。
  13. ^ ステファヌス」(Stephanus)とは、フランス姓「エティエンヌ」(Étienne)のラテン語表現。
  14. ^ アリストテレスの思想の成立には、師プラトンが大きく関与したこと考えられている。ただし、その継承関係には議論があり、アリストテレスはプラトンの思想を積極的に乗り越え本質的に対立しているとするものと、プラトンの思想の本質的な部分を継承したとするものとに大きく分かれる。

出典

  1. ^ カール・ポパー「開かれた社会とその敵」(未來社)、佐々木毅「プラトンの呪縛」(講談社学術文庫)、「現代用語の基礎知識」(自由国民社、1981年)90p、「政治哲学序說」(南原繁、1973年)
  2. ^ a b c d ディオゲネス・ラエルティオスギリシア哲学者列伝』第3巻「プラトン」4節。(加来彰俊訳、岩波文庫(上)、1984年、pp. 251-253)
  3. ^ a b c d 第七書簡
  4. ^ 『国家』436A、580C-583A、『ティマイオス』69C
  5. ^ ティマイオス
  6. ^ 法律』第10巻
  7. ^ a b 斎藤忍随『人類の知的遺産7 プラトン』講談社、1983年
  8. ^ a b Miller, Stephen G. (2012), “Plato the Wrestler”, Plato’s Academy: A Survey of the Evidence, Athens, Greece, 12-16 December 2012 
  9. ^ 形而上学』第1巻987a32
  10. ^ 『ギリシア哲学者列伝』3巻41
  11. ^ a b 黒焦げの巻物を解読、プラトン埋葬場所の詳細判明か 最後の夜の様子も”. CNN.co.jp. 2024年5月4日閲覧。
  12. ^ パイドロス』266B
  13. ^ 『プラトン全集13』岩波書店p814
  14. ^ a b 『国家』550B
  15. ^ 『国家』553C, 562B
  16. ^ 『国家』562B
  17. ^ パイドロス』277D-279B
  18. ^ 国家』第10巻
  19. ^ ギリシア哲学者列伝』3巻56-62
  20. ^ G・E・L・オーエン著、篠崎栄訳「プラトン対話篇における『ティマイオス』の位置」、井上忠山本巍 編訳『ギリシア哲学の最前線 1』東京大学出版会、1986年、ISBN 9784130100199。105頁(訳者解題)
  21. ^ 『プラトン全集1』岩波書店 p367, 419
  22. ^ 『メノン』岩波文庫pp161-163
  23. ^ 『饗宴』岩波文庫p8
  24. ^ 『プラトン全集1』岩波書店 p419
  25. ^ 『パイドン』岩波文庫p196
  26. ^ 『ゴルギアス』岩波文庫 p299
  27. ^ 『メノン』岩波文庫pp162-163
  28. ^ 『国家』(下)岩波文庫p433
  29. ^ 『パイドロス』岩波文庫p191
  30. ^ 『テアイテトス』岩波文庫p295
  31. ^ 『プラトン全集3』岩波書店 p396, 435
  32. ^ 『プラトン全集13』岩波書店pp822-828
  33. ^ 『プラトン全集13』岩波書店p829
  34. ^ 『プラトン全集4』岩波書店p409
  35. ^ 納富信留『プラトン 理想国の現在』(慶応義塾大学出版会、2012年)

参考文献

関連項目

外部リンク


plato

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 16:37 UTC 版)

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