男爵家の一覧
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叙爵内規は男爵の叙爵基準として「一新後華族二列セラレタル者 国家二勲功アル者」と定めており、以下のような人々が男爵位を与えられた。 一新後華族二列セラレタル者明治以降の華族の分家(89家) 明治以降に華族から分家した家が叙爵される場合は「一新後華族二列セラレタル者」の内規に基づき基本的に男爵位が与えられた。ただしごく一部は子爵になっており、また玉里島津家と徳川慶喜家については特例的に公爵に叙された。本家の方で華族の体面を汚さない程度の財産を用意してやれることが分家が華族に列せられる条件だったので裕福ではない旧公家華族や旧小大名華族には分家華族を作るのは難しかった。華族に叙されなかった場合の明治以降の華族の分家は平民となる(士族ではない。士族は江戸時代に武家等だった家に与えられる身分であるため、華族の分家であろうと明治以降に創設された家は平民になる)。つまり華族の次男以下は当初は華族の戸籍に入っている無爵華族であるが(爵位を持つのは戸主のみ)、分家して独立した戸主になる際、華族の体面を汚さない財産を確保できれば分家華族として男爵に叙され、確保できず爵位が認められなければ平民ということである。以下の家が分家華族として男爵位を与えられた家である。浅野養長家(浅野侯爵家分家)、有馬家(有馬伯爵家分家)、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}伊江家(いえ)(尚侯爵家分家)、一条家(土佐一条家)(一条公爵家分家)、伊藤家(伊藤公爵家分家)、岩倉具経家(岩倉公爵家分家。後に子爵)、岩倉具徳家(岩倉公爵家分家)、岩倉道倶家(岩倉公爵家分家。1946年襲爵せず)、正親町家(おおぎまち)(正親町伯爵家分家。1922年継承者欠く)、大村家(大村伯爵家分家)、北小路家(北小路(大江氏)子爵家分家。1901年返上)、北畠家(久我侯爵家分家)、吉川家(吉川子爵家分家)、久我家(久我侯爵家分家)、九条良致家(九条公爵家分家。1940年襲爵せず)、九条良政家(九条公爵家分家)、黒田家(黒田侯爵家分家)、小早川家(毛利公爵家分家)、酒井忠積家(姫路酒井伯爵家分家。1920年返上)、酒井忠惇家(姫路酒井伯爵家分家)、佐竹義脩家(岩崎佐竹子爵家分家。1929年返上)、真田家(真田伯爵家分家)、沢家(沢伯爵家分家)、三条家(三条公爵家分家。1924年本家相続で廃家)、四条家(四条侯爵家分家)、島津健之助家(佐土原島津伯爵家分家)、島津忠欽家(玉里島津公爵家分家)、島津忠弘家(島津公爵家分家)、島津忠備家(島津公爵家分家)、尚寅家(尚侯爵家分家)、尚順家(尚侯爵家分家)、鷹司家(鷹司公爵家分家)、伊達宗敦家(宇和島伊達侯爵家及び仙台伊達伯爵家分家)、伊達宗倫家(宇和島伊達侯爵家分家)、玉松家(山本子爵家分家)、津軽家(津軽伯爵家分家)、鶴殿家(九条公爵家分家)、徳川厚家(徳川公爵家分家)、徳川誠家(徳川慶喜公爵家分家)、徳川義恕家(尾張徳川侯爵家分家)、徳大寺家(徳大寺公爵家分家)、長岡家(細川侯爵家分家。後に子爵)、今帰仁家(なきじん)(尚侯爵家分家)、中御門家(中御門侯爵家分家)、鍋島家(鍋島侯爵家分家)、二条家(二条公爵家分家)、若王子家(にゃくおうじ)(山科伯爵家分家)、東久世家(東久世伯爵家分家)、東三条家(三条公爵家分家)、坊城家(坊城伯爵家分家)、細川家(細川侯爵家分家・1914年本家相続のため廃家)、前田利武家(前田侯爵家分家)、松崎家(堤子爵家分家)、松平家(津山松平子爵家分家)、松前家(松前子爵家分家)、万里小路家(までのこうじ)(万里小路伯爵家分家)、毛利家(毛利公爵家分家)、山縣家(山縣公爵家分家)、山内豊尹家(山内侯爵家分家。後に子爵)、鷲尾家(鷲尾伯爵家分家) 奈良華族 - 旧公家の分家で興福寺の僧侶になったが、維新後に勅令で還俗して華族に列していた家は俗称でこう呼ばれた。彼らも明治以降の華族の分家として男爵位を与えられた。旧公家華族自体貧しい家が多かったが、その分家である奈良華族はさらに貧しい家が多く、明治45年に制定された男爵華族救恤資金(年間300円の援助)の対象は主に奈良華族だった。粟田口家(あわたぐち)(葉室伯爵家分家)、今園家(芝山子爵家分家)、太秦家(うずまさ)(桜井子爵家分家)、梶野家(石井子爵家分家)、河辺家(油小路伯爵家分家)、北大路家(阿野子爵家分家)、北河原家(室町伯爵家分家)、小松家(石井子爵家分家)、相楽家(さがら)(富小路子爵家分家。1943年継承者欠く)、鷺原家(甘露寺伯爵家分家。1888年返上)、鹿園家(三条公爵家分家)、芝小路家(芝山子爵家分家)、芝亭家(裏辻子爵家分家)、杉渓家(すぎたに)(山科伯爵家分家)、竹園家(甘露寺伯爵家分家。1899年返上)、中尾家(勧修寺伯爵家分家)、中川家(甘露寺伯爵家分家。1887年返上)、西五辻家(にしいつつじ)(五辻子爵家分家)、藤枝家(飛鳥井伯爵家分家)、藤大路家(堀河子爵家分家)、穂穙家(ほづみ)(坊城伯爵家分家)、松林家(上冷泉伯爵家分家)、松園家(二条公爵家分家)、南家(広橋伯爵家分家)、南岩倉家(岩倉公爵家分家)、水谷川家(みやがわ)(近衛公爵家分家) 旧地下家だった華族(2家) - 基本的に地下家は士族になっていたが、押小路家と壬生家(みぶ)は地下家の中でも家格が高く、他の地下の官人たちを統括し(それぞれ「大外記、官務」と呼ばれた)、官位も三位まで登る「准公卿」的存在だったため特別に華族に列していた。しかし旧公卿の華族たちとは区別され「一新後華族二列セラレタル者」として男爵に叙された。押小路家と壬生家の華族取り立てを見て自分たちにも資格があると華族取り立て運動を行った旧地下家の士族(藤島家や細川家など)もあったが、結局押小路家と壬生家以外には華族の地位は認められなかった(旧地下家で勲功によって華族になった家はある)。 旧交代寄合だった旧大名華族(6家) - 江戸時代に交代寄合だった家のうち以下の6家は、1868年(慶応4年・明治元年)6月20日から11月20日の間に戊辰戦争で官軍に協力した功績で加増されたり、「高直し」で石高が万石以上になったことを政府に申告して認めてもらったことなどにより大名として立藩して華族に列していた。しかし彼らは江戸時代から大名だった家とは区別されて「一新後華族二列セラレタル者」として男爵位を与えられた。数字は江戸時代の交代寄合としての家禄と立藩した後の藩名と家禄である。池田家(6000石→播磨福本藩1万573石。1894年返上)、生駒家(8000石→出羽矢島藩1万5200石)、平野家(5000石→大和田原本藩1万1石)、本堂家(8000石→常陸志筑藩1万110石)、山崎家(5000石→備中成羽藩1万2746石)、山名家(6700石→但馬村岡藩1万1000石) 陪臣だった旧大名華族(7家) - 江戸時代を通じて御附家老たちは独立諸侯として認められない立場に不満を持ち続け、その独立意識は旺盛で主家をないがしろにする行動が多かった。幕末の王政復古は彼らにとって独立諸侯となる千載一遇のチャンスであり、また権力基盤が不安定だった新政府にとっても彼らを味方に付ける意味は大きく、利害が一致して慶応4年1月24日に彼らは政府により独立諸侯と認められた(維新立藩。なお、本多副元家(福井藩御附家老)は維新立藩されず、遅れて明治12年に華族。)。吉川家は御附家老ではないが、王政復古に際して勲功があったので慶応4年3月13日に独立諸侯と認められた。ただしこれら旧陪臣系諸侯は旧交代寄合系諸侯と同様、江戸時代から諸侯だった家とは区別されて「一新後華族二列セラレタル者」として男爵位を与えられた(吉川家と成瀬家については維新の功績により1891年に子爵に陞爵)。安藤家(紀伊田辺藩。紀州藩御附家老)、吉川家(周防岩国藩。長州藩一門。1891年子爵)、竹腰家(たけのこし)(美濃今尾藩。尾張藩御附家老)、中山家(常陸松岡藩。水戸藩御附家老)、成瀬家(尾張犬山藩。尾張藩御付家老。1891年子爵)、本多副元家(福井藩御附家老)、水野家(紀伊新宮藩。紀州藩御附家老) 国家二勲功アル者旧大藩の藩主一門および家老家(67家)。これらの家は「一新後華族二列セラレタル者」に該当しないため、「維新の功」「戊辰戦争・西南戦争の功」「北海道開拓の功」などを理由にして、「国家ニ勲功アル者」として男爵位を与えられた。彼らの叙爵は概ね日清戦争後から日露戦争前の間に行われた。以下の家がある。浅野忠純家(広島藩一門)、浅野守夫家(広島藩一門)、荒尾之茂家(鳥取藩家老)、荒尾嘉就家(鳥取藩家老)、有吉家(熊本藩家老)、伊賀家(土佐藩家老)、伊木家(岡山藩家老)、池田長準家(岡山藩一門)、池田博愛家(岡山藩一門)、池田政和家(岡山藩一門)、諫早家(いさはや)(佐賀藩家老)、石河家(いしこ)(尾張藩家老)、稲田家(徳島藩家老)、今枝家(加賀藩家老)、上田家(広島藩家老)、奥村家(加賀藩家老)、奥村家(加賀藩家老)、小原家(大垣藩家老)、賀島家(徳島藩家老・1942年襲爵せず)、片倉家(仙台藩家老)、木俣家(彦根藩家老)、国司家(長州藩家老)、黒田家(福岡藩一門)、米田家(こめだ)(熊本藩家老。1914年に子爵)、佐竹義雄家(秋田藩一門)、佐竹義尚家(秋田藩一門。1946年返上)、佐竹義遵家(秋田藩一門)、佐竹義準家(秋田藩家老)、沢村家(熊本藩家老)、宍戸家(長州藩家老)、斯波家(加賀藩家老)、島津珍彦家(薩摩藩一門)、島津貴暢家(薩摩藩一門)、島津長丸家(薩摩藩一門)、島津隼彦家(薩摩藩一門・1945年襲爵せず)、島津久賢家(薩摩藩一門)、島津久明家(薩摩藩一門)、島津久家家(薩摩藩一門)、清水家(長州藩家老)、多久家(佐賀藩家老)、伊達邦成家(仙台藩一門)、伊達正人家(仙台藩一門)、種子島家(薩摩藩家老)、長家(ちょう)(加賀藩家老)、藤堂高成家(津藩一門)、土倉家(岡山藩家老)、鍋島茂昌家(佐賀藩一門)、鍋島直明家(佐賀藩一門)、南部家(盛岡藩家老)、深尾家(土佐藩家老)、福原家(長州藩家老)、日置家(へき)(岡山藩家老)、細川興増家(熊本藩一門)、細川忠穀家(熊本藩家老)、本多副元家(福井藩御附家老)、本多政以家(加賀藩家老)、前田孝家(加賀藩一門・1947年返上)、前田直行家(加賀藩一門)、益田家(長州藩家老)、松井家(熊本藩家老)、三浦家(紀州藩家老)、村井家(加賀藩家老)、毛利重輔家(長州藩一門)、毛利祥久家(長州藩一門)、山内豊積家(土佐藩一門)、横山家(加賀藩家老)、渡辺家(尾張藩家老) 忠臣華族(5家) 南朝の功臣の子孫にあたる菊池家(旧交代寄合)、五条家(旧柳川藩士)、名和家(旧柳川藩士)、南部家(旧南部藩士)、新田家(旧交代寄合)の5家が先祖の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位が与えられた。後醍醐天皇の忠臣の中でも武勲第一だった楠木正成(大楠公)を出した楠木家は嫡流子孫がはっきりしなかったため華族とはならなかった。 神職・僧侶華族(18家) 由緒ある神社の神職のうち古い家柄の社家と浄土真宗10派の総本山たる門跡寺院・准門跡寺院の住職を世襲している僧家が先祖の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位を与えられた(東西本願寺の両大谷家は伯爵)。門跡寺院は浄土真宗以外の宗派にも存在するが、浄土真宗のみが華族となったのは真宗だけ世襲でやっていたからである。華族とは世襲身分なので世襲住職であることは必須だった。阿蘇家(阿蘇神社神職)、荒木田家(伊勢神宮神職)、到津家(いとうづ)(宇佐神宮神職)、小野家(日御碕神社神職)、金子家(物部神社神職)、河辺博長家(伊勢神宮神職)、紀家(きい)(日前・国懸両神宮神職)、北島家(出雲大社神職)、木辺家(浄土真宗木辺派総本山錦織寺住職)、渋谷家(しぶたに)(浄土真宗渋谷派総本山仏光寺住職)、千家家(出雲大社神職)、千秋家(せんしゅう)(熱田神宮神職)、高千穂家(英彦山天台修験座主)、津守家(つもり)(住吉大社神職)、常盤井家(ときわい)(浄土真宗高田派総本山専修寺住職)、華園家(浄土真宗興正派総本山興正寺住職)、松木家(伊勢神宮神職)、宮成家(宇佐神宮神職) 実業界(18家) 著名な実業家には経済発展の功により「国家ニ勲功アル者」として男爵位が与えられることがあった。岩崎弥之助家(1896)、岩崎久弥家(1896)、大倉家(1915)、川崎家(1920叙爵・1946襲爵せず)、鴻池家(こうのいけ)(1911)、近藤家(1911)、渋沢家(正確には1900年の男爵叙爵は維新の功で1920年の子爵陞爵が経済発展の功)、住友家(1911)、園田家(1918)、団家(1928)、藤田家(1911)、古河家(1915)、三井高棟家(1896)、三井高弘家(1911)、三井高保家(1915)、森岡家(1898)、森村家(1915)、安川家(1920) その他の勲功者その他政治家・官僚・軍人・学者などに叙爵がみられる。とりわけ日清日露戦争後の軍人の戦功叙爵で男爵が急増している。政治家系の勲功華族は、華族令当初に遅れた場合も、男爵を飛ばして子爵などから叙爵されたケースも多い(桂太郎、陸奥宗光ら)。また特殊な事例として江戸時代に上総請西藩藩主だった林家は戊辰戦争で1万石から300石に減封となり大名の地位を失ったため、華族に列してなかったが、1893年に特旨により男爵に列している。
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