男爵家として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 01:26 UTC 版)
「河辺家 (大中臣氏)」の記事における「男爵家として」の解説
明治維新を迎え、制度改革によって神官世襲が廃止され、大宮司もその一つであった。その後、当主教長は明治5年(1872年)5月19日に華族に列せられ、明治11年(1878年)10月5日に隠居した。同日家督を継いだのは先代にして実の兄の、その妻である英子であった。 女戸主となった英子の跡を継いだのは、前述の通り博長だった。明治17年(1884年)5月23日、博長が家督を継承し、同年7月8日、華族令の施行と共に男爵に叙された。神宮に奉職するわけではなかったが神祇道の家としての名残はあり、博長は亀戸神社の社司を務め、子の三郎も賀茂御祖神社宮司や安房神社の責任役員を務めた。
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