死刑執行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/11 08:27 UTC 版)
「ドラム缶女性焼殺事件」の記事における「死刑執行まで」の解説
2008年7月以降、参議院議員・福島瑞穂が確定死刑囚らを対象に実施したアンケートに対し、死刑囚2名は以下のように回答していた。 死刑囚N(2008年9月11日付) 名古屋拘置所は現時点では死刑囚に対し、かなり良い処遇をしていることから感謝している。しかし「死刑執行命令書に最終的な許可を出すのは法務大臣だが、その対象者を決めるのは局長たち、即ち検察官ではないのか?なぜその検察官たちの名前を公表しないのか?」という疑問がある。 死刑制度について突き詰めて考えれば、ほとんどの人は「廃止すべきだ」と考えると思う。世論は死刑存置論が趨勢だが、それほど深く死刑問題について考えているとは思えないし、議論を拙速に終わらせているようにしか思えないので、1度は「国会で1日中死刑問題について議論してほしい」と思う。 いったんは再審請求をしたが、被害者・遺族のことを考えて思い悩んだ結果、再審請求を取り下げた。現在は「死刑執行まで自分に何かできることがあれば…」と思いながら生活している。2008年7月7日、死刑囚Nは弁護人にも相談することなく再審請求を自ら取り下げた。なお、これについては上告審の途中から私選弁護人を務め、死刑確定後も再審請求の代理人を務めていた弁護士・大熊裕起が「取り下げは無効だ」と主張して名古屋地裁に異議申し立てを行ったが棄却され、名古屋高裁への即時抗告棄却を経て2008年12月、最高裁への特別抗告も棄却された。 (2008年の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律改正により)法務局長通達で「死刑囚の投稿を禁止する」という規定が出されたようで、その通達のせいで外部への情報発信がほぼ不可能になった。文書を書くことしかできない死刑囚にとって、一般社会に何かを訴えたり遺したりするには本を出版する以外に方法がないので、福島さんの手で何とかしてほしい。 死刑囚K 「自分の考えなりに死刑を受け入れており、アンケートに答えることはできない」としてこのアンケートには回答せず、後述のように2009年1月12日付で福島宛の手紙を送った。 なお死刑囚Kは2008年7月24日付で名古屋地裁へ再審請求を起こし、同年11月29日までの期限通りに意見書を提出したが、同年12月18日付で棄却決定がなされた。 死刑囚Kは死刑執行直前の2009年1月12日、福島宛に以下のような手紙を送っていた。 裁判では警察と首謀者が取引したことにより、自分とNが主犯格、共犯者ほか4人が従犯とされたが、事件の真実は「Nが実の父親である暴力団相談役とその若衆から命令を受けて手形回収・殺人に至った」というものだ。しかしNの父親が警察に金銭を授受し、「Kを主犯として死刑にする一方、息子のNは死刑にしない」と取り決め、裁判にかけられたため、警察・検察からは自分にとって不都合な調書しか作られなかった。 結局、自分の弁護人の努力の結果でNも主犯として死刑となった。被害者2人を生きたまま焼き殺すという最悪な犯罪を犯した以上、死刑判決そのものについては納得しているが、判決の事実認定は一切納得していない。 再審請求の際、共犯Nが自分の弁護人宛に「事件の真実は自分の実父(暴力団幹部)・若衆から命令を受けたもので、Kは主犯ではないが、出頭前に警察・父の暴力団と取引した結果主犯扱いされた」「保険金搾取のために本件とは別に3件の殺人を犯しており、それが組の資金源になっていた点を警察に告発してほしい」と伝えており、それを再審請求の証拠とした。 その事件の黒幕はまだ社会で生活しており、資金源のためにこれからも殺人を繰り返すだろう。今なら逮捕して白日の下に晒せるのに、警察も司法も動こうとしない。「自分の命はそんなに軽いのか?」と思うし、死刑になるのなら真実の下に死刑になりたいので、他の殺人で殺された人々のためにも真実を明らかにしてほしい。 2007年12月(鳩山邦夫法務大臣による死刑執行)以来、死刑執行の際には法務省から実名・罪状が当日中に発表されるようになったが、自分にも子供がいるし、残された子供たちの将来にとって重荷になりかねないので発表はやめてほしい。自分自身は死刑を受け入れており、「早く死刑になることが、事件で重荷を背負わせてしまった自分の子ども達への唯一の償いだ。いっそ子供たちが物心つかないうちに死刑になりたい」と考えていたが、現実にも「死刑囚の子ども」であることを理由とした学校でのいじめが発生している。 自分の長男は(当時)中学生、次男も小学3年生と幼いので、彼らが大人になるまでは死刑にはなりたくない。 昨年(2008年)暮れに実子から手紙が届き、社会における加害者家族・身内の苦しみを知った。 自分の死刑執行をビデオで記録し、検事・裁判官・司法関係者に「死刑とはどんなものか」を実際に見て考えてほしいし、どんな理由であれ、人を殺す苦しみを分かってほしい。 現在は弁護人とも連絡が取れなくなり、面会できるのは教会の修道女のみで、実姉からも年1回ハガキが届くだけだ。弁護人から再審請求棄却に対する即時抗告がなされていなければいつ死刑が執行されるかわからない。請願作業をしつつ日用品を自弁購入して生活しているが、他に収入はなく、今後は弁護人を雇うこともできないので「次の死刑執行は自分ではないか」と考えている。 (2008年の刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律改正について)自分のように金がなく、支援者もいない死刑囚については「領地品・差し入れ品の数規制」などが酷く、改悪としかいえない。 (法改正のせいで)ただでさえ少ない接見交通権を持つ親類・弁護士に迷惑がかかる上、自分のように金も支援者もない死刑囚はより一段と孤立し、ますます死刑執行順位が早くなる。 名古屋拘置所の所長が現在(2009年1月当時)に交代して以来、週1回の居室検査・膳板引き上げなどの検査が強化されるなど、死刑囚にとっては厳しい処遇になっている。 死刑囚Nは死刑執行直前の2009年1月13日、名古屋拘置所で弁護人・大熊と面会した。大熊は死刑囚Nが自ら再審請求を取り下げたこと、事件の内容・「死刑を受け入れる」と表明していたN自身の意思などから「Nの死刑執行が近い」と危惧して面会し、「再審請求をもう1度したいなら自分が引き受ける。恩赦出願も検討したらどうだ」と話したが、Nは「被害者や遺族のことを考えれば、自分は死刑を受け入れるべきだ。仮に大熊先生が再審請求をしても自分で取り下げる。恩赦も必要ない」として再度の再審請求・恩赦出願をいずれも拒否する意向を示した。 2009年1月29日、名古屋拘置所でN・K両死刑囚の死刑執行 死刑判決確定から約2年6か月後の2009年(平成21年)1月29日、法務省(法務大臣:森英介)の死刑執行命令により、名古屋拘置所でN・K両死刑囚の死刑が執行された(死刑囚Nは39歳没、死刑囚Kは44歳没)。 同日には長野・愛知4連続強盗殺人事件の死刑囚(東京拘置所)・福岡拘置所の死刑囚1人を含めた計4人の死刑が執行された。 死刑囚Nは生前、講談社の『フライデー』編集部と文通をしており、死刑執行後に発売された同誌2009年2月27日号に400字詰め原稿用紙17枚分の「遺書」の概要・死刑執行の翌2009年1月30日に執り行われた葬儀の際に撮影された死刑囚Nの遺体の顔写真が掲載された。 「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」(フォーラム90)は同日、「4人の死刑執行は暴挙というほかない」として法相・森に対する抗議声明を発表した。
※この「死刑執行まで」の解説は、「ドラム缶女性焼殺事件」の解説の一部です。
「死刑執行まで」を含む「ドラム缶女性焼殺事件」の記事については、「ドラム缶女性焼殺事件」の概要を参照ください。
死刑執行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 17:46 UTC 版)
「サッダーム・フセインの死刑執行」の記事における「死刑執行まで」の解説
「サッダーム・フセインの裁判(英語版)」を参照 2006年6月19日 検察側、1982年7月のイラク中部ドゥジャイルのシーア派住民大量虐殺における、人道に対する罪でフセインと側近7名に論告求刑。内、フセインやターハー・ヤースィーン・ラマダーン元副大統領ら4名に死刑を求刑。 同年11月5日 イラク高等法廷、前述のドゥジャイル村惨殺事件で、フセインと側近2人に死刑判決。ラマダーンは終身刑の判決。 同年12月26日 イラク高等法廷・控訴審で被告側の控訴が棄却。これにより30日以内の死刑が確定。ラマダーンの一審の終身刑判決を差し戻し。 同年12月28日 イラク政府のムワッファク・アッ=ルバーイー国家安全保障担当顧問は死刑が一両日中にも執行されると語る。 同年12月30日 米軍からイラク側に身柄を引き渡され、午前6時5分頃、絞首による死刑執行。
※この「死刑執行まで」の解説は、「サッダーム・フセインの死刑執行」の解説の一部です。
「死刑執行まで」を含む「サッダーム・フセインの死刑執行」の記事については、「サッダーム・フセインの死刑執行」の概要を参照ください。
死刑執行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:29 UTC 版)
「練馬一家5人殺害事件」の記事における「死刑執行まで」の解説
加害者Aは第一審判決後、控訴中に東京拘置所で『死刑廃止の会』メンバーと面会・文通を重ねており、その1人である菊池さよ子と面会した際には「控訴審で、刑事弁護で有名な弁護士が(弁護人に)就任した」と発言していたが、控訴審の途中で面会を拒否するようになった。その後、死刑執行まで一切外界とは連絡を取っていなかった。その上で、菊池は「もしAとコンタクトが取れていれば、再審請求をするなど対策が取れていただろう」「事件そのものは許されない犯行だろうが、事件の背景には土地の売買で巨大な金が動く状況に翻弄され、追い詰められた1人の人間の悲劇がある。そのような背景を問わずに犯人を死刑にすることでは何も解決しない」と述べている。 死刑囚Aと同じ東京拘置所に死刑囚として収監されていた澤地和夫(2008年12月病死)は、自著『東京拘置所 死刑囚物語』 (2006) で、生前の死刑囚Aの人物像について「自分も同じく殺人犯で死刑囚だが、Aについてはその凄惨な犯行内容から『鬼畜のような人間だ』と想像していた。しかし実際に自分と同じ舎房の住人となった死刑囚Aと会ってみると、あのような凶悪・悲惨な事件の犯人とは思えないほど物静かで腰の低い人間だったため拍子抜けした。真意はわからないが、Aは死刑執行回避のため、礼儀正しく謙虚な態度をとることで拘置所職員に媚びを売っていたのだろう。そうでなければその人間性と残忍な犯行が結びつかない」「Aは結局、再審請求できないまま死刑を執行されたが、前述の支援者(菊池)が指摘した通り本事件は『通常の心理状況下でできるような犯行』ではなく、犯行当時の死刑囚Aは『一種の狂人』と言ってよい。しかし日本の裁判官は『事件の重大性』『社会への衝撃性』を重視した上で世論を満足させるような判決を導き重視するため、加害者の心理の深層・精神状況を軽視する傾向にある」と述べている。 2001年(平成13年)12月27日、法務省(法務大臣:森山眞弓)の死刑執行命令により収監先・東京拘置所で死刑囚A(66歳没)の死刑が執行された。死刑執行は2000年11月30日に保岡興治が発した執行命令を受け勝田清孝ら3人の死刑が執行されて以来約1年1か月ぶりで、第1次小泉内閣発足以来および21世紀では初の死刑執行だった。
※この「死刑執行まで」の解説は、「練馬一家5人殺害事件」の解説の一部です。
「死刑執行まで」を含む「練馬一家5人殺害事件」の記事については、「練馬一家5人殺害事件」の概要を参照ください。
死刑執行まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/31 02:16 UTC 版)
「広島タクシー運転手連続殺人事件」の記事における「死刑執行まで」の解説
死刑判決が正式に確定した直後の2000年2月25日、死刑囚Hは収監先・広島拘置所にて同日から「未決者処遇」より「死刑確定者処遇」に移行することなどを拘置所職員から告げられると、直立不動の姿勢から一礼して「今後とも、よろしくお願いします」などと述べた。その直後の2000年3月3日に「心情などの把握」などを目的に行われた拘置所長との所長面接において、死刑囚Hは以下のように述べた。その態度は終始冷静で、後に足立修一弁護士が起こした#国家賠償請求訴訟判決では「礼儀をわきまえて明るく振る舞っていたが、涙を流す場面もあった」と事実認定された。 「自殺などで(拘置所職員の皆さんに)迷惑をかけるようなことは絶対にしません。本音を言うと、本番(死刑執行の時)で今のような冷静な気持ちでいられるか心配です。『ぐでんぐでんになるのではないか』とも思いますがよろしくお願いします」 「(残された)娘のためにも下手なことはできません。きっぱりと逝くのが娘のためとも思っています。去年(1999年)の中頃までは“むすめ”の“む”の字を言われただけでも涙が出ていたが、今ではそんなことはありません。(娘は)『少し大人になったのかも』と思います。娘のことを考えると、気が狂いそうになったこともありましたが…。(娘は)小学校1年生になりますが、将来、父親を意識し出した時、誰かが『父はきっぱりと立派に旅立った』と言ってもらえるのではないかと思ってます」 「民間人との新たな人間関係は持ちたくありません。自分は頑固なところがあります」 「判決の時、キンタマが縮み上がりました」 前述の所長面接から1週間後の2000年3月10日、死刑囚Hの元国選弁護人だった弁護士2人が広島拘置所に赴き、死刑囚Hとの接見を申し入れた。これに対し広島拘置所長は「死刑判決が確定したため、弁護士2人と死刑囚Hは既に何の関係もなくなっているが、死刑囚Hが長期にわたり世話になった弁護士であれば心情安定につながり処遇上有益であろう」と判断し、死刑囚Hに接見の意思確認を行った上で同日9時22分から8分間、拘置所職員の立ち合いの下で特別面会として接見をさせた。この接見の際、死刑囚Hは弁護士2人に対し「これでお会いすることはご遠慮願います。お世話になりました」と述べており、その後は2006年12月14日に国賠訴訟の原告・足立修一(広島弁護士会所属の弁護士)が接見を拒否されるまでの間、死刑囚Hは弁護士との接見・信書の授受をしたことはなかった。なお2002年(平成14年)2月9日には別の弁護士が死刑囚Hに来信を行ったが、これは拘置所長により「親族以外のものからの来信」として不許可とされたため、その信書は死刑囚Hには届かなかった。 死刑囚Hは2005年(平成17年)8月18日に広島拘置所長宛てに「今後、書信およびパンフレットなどは、親族からのもの以外は全て受け取りを拒否する」との願箋を提出したほか、死刑執行2か月前の2006年(平成18年)10月16日には担当者に「心の悩み」として「居室が変更になってから何もやる気がしない。請願作業にも身が入らないし教誨も休みたい」などと申し述べた。死刑執行11日前の2006年12月14日、後述のように足立が「死刑囚Hに再審請求・恩赦出願を行う意思があるかどうかを確認するため」として収監先・広島拘置所に接見を申し入れたが拒否され(#国家賠償請求訴訟の節を参照)、その5日後の12月19日(死刑執行6日前)に広島拘置所処遇部上席統括矯正処遇官(第二担当)の刑務官(「第二統括」)が「死刑囚Hの心情を把握する目的」で面接を実施した際、死刑囚Hは以下のように述べた。 (10月16日に「何もやる気がしない」などと悩みを吐露したことについて)「現在はずいぶんよくなりましたが、自分でいったんは『頑張ります』と公言した以上、弱音は言いません」 (「2005年8月に『親族以外からの親書受け取りを拒否する』旨の願箋を提出した後、気持ちに変わりはないか?」との質問に対し)「その後も自分の気持ちに変化はありません。たとえ弁護士が面会に訪れても一切会いませんし、弁護士から手紙が来ても受け取りを辞退します。弁護士からの再審請求および恩赦に関することについての問い合わせも拒否します」 一方で足立は面会を拒否されたことを受け、死刑囚Hとの面会を実現するための足掛かりにしようと12月18日に死刑囚H宛へ恩赦請求の委任状・再審請求のための弁護人選任届の要旨および回答書・返信用封筒を同封した手紙を速達で送付した。この手紙は翌19日9時過ぎに広島拘置所へ着いたが、21日午前に足立が広島拘置所庶務課で「死刑囚Hは私の手紙を読んだか?」と確認したところ、庶務課長は「死刑囚Hは親族を含め手紙の受領を拒否している」と回答した。 足立との接見拒否から11日後の2006年12月25日に法務省(法務大臣:長勢甚遠)の発した死刑執行命令により収監先・広島拘置所で死刑囚H(44歳没)の死刑が執行された。同日には東京拘置所でも死刑囚2人・大阪拘置所でも1人と、死刑囚Hを含めて死刑囚計4人の死刑が執行された。死刑囚4人に対する同時執行は1997年8月1日に法務大臣(当時)・松浦功の死刑執行命令により永山則夫(永山則夫連続射殺事件)・夕張保険金殺人事件の死刑囚2名ら計4人の死刑が執行されて以来、9年4か月ぶりだった。
※この「死刑執行まで」の解説は、「広島タクシー運転手連続殺人事件」の解説の一部です。
「死刑執行まで」を含む「広島タクシー運転手連続殺人事件」の記事については、「広島タクシー運転手連続殺人事件」の概要を参照ください。
- 死刑執行までのページへのリンク