公判から死刑執行まで
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大久保は刑事裁判で、強姦致傷罪・強姦罪・殺人罪・死体遺棄罪に問われた。初公判は1971年10月25日、前橋地方裁判所で開かれた。初公判で行われた罪状認否に対し、被告人・大久保は「なにもいうことはありません」と返答し、起訴事実を全面的に認めたため、公判の焦点は犯行動機の解明に絞り込まれた。 大久保は「裁判でも自供は変えない」と断言したため、東京医科歯科大学教授の中田修によって精神鑑定が行われた。鑑定結果では「精神病ではないが発揚性、自己顕示性、無情性を主徴とする異常性格(精神病質)で、性的、色情的亢進を伴う」と判定された。 その一方、被告人・大久保は第2・3回公判で、事件と無関係な親族との争い・権力批判を展開した上、公判終盤になると「俺はどうせ死刑だ」と弁護人(私選弁護人)を解任したり、「裁判官の忌避申立」などの行為を繰り返した上、1973年1月8日の論告求刑公判直前には裁判官3人を職権乱用罪で告訴するなどしており、『中日新聞』(中日新聞社)は1973年2月22日夕刊記事にて大久保のそれらの行動を「弁護人の解任は専ら延命策。裁判官への忌避申立・告訴は思想犯並みの反権力闘争」と表現した。そのため判決公判時点では国選弁護人として、町田繁弁護士が大久保の弁護人を担当していた。町田は、大久保から被害者・遺族への謝罪の言葉を引き出そうとし続けたが、大久保は彼に対し、最後まで非協力的なままで、結果的に犯罪史上に類を見なかったこの凶悪事件は、動機が未解明のまま閉幕することとなった。 1973年(昭和48年)2月22日に判決公判が開かれ、前橋地裁刑事部(水野正男裁判長)は検察(前橋地方検察庁)側の求刑通り、被告人・大久保清に死刑判決を言い渡した。水野裁判長は10時の開廷直後に冒頭で死刑判決の主文を言い渡し、続く判決理由で以下のように被告人・大久保の犯行を断罪した。 他人の生命を犠牲にして省みないところに著しい反人間性が認められる上、被告人は自らの欲望の赴くままに若い女性の生命を次々に奪った。 本件を「権力に対する反抗」と表現するなど「自己の非を隠し、自らを美化しようとする虚飾に満ちた態度」を取って改悛の情を全く示していない。 現行の刑罰制度に死刑がある以上、これをもって被告人に臨むほかはない。 大久保は1973年3月7日に当時の収監先・前橋刑務所で知人と面会したが「控訴する気持ちはない」と語り、東京高等裁判所への控訴申立ができる最終期限となる翌日(1973年3月8日)夕方までに手続きを取らなかった。結果、大久保は控訴期限の1973年3月9日午前0時までに東京高裁へ控訴しなかったために第一審の死刑判決がそのまま確定した。 死刑囚となった大久保は、裁判官・弁護士らを告訴していたが、それらの事件がいずれも不起訴・起訴猶予処分となり、大久保の身柄を前橋刑務所に置き続ける必要がなくなったため、死刑確定後の1973年4月3日付で身柄を東京拘置所に移送された。同年10月、大久保は獄中から『訣別の章 死刑囚・大久保清獄中手記』(KKロングセラーズ。編集:大島英三郎)を刊行したが、その中では「自分は『自己を失いただ性欲の野獣となった』ように見られているが、そのことはどうでもよい。私が犯された罪がいかに重大か知る人はいない」という意味の被害者意識を示していたほか、出版後にKKロングセラーズを相手取り東京地方裁判所宛てに「題名は本来『訣別の詩』だったのに著者である自分に無断で『訣別の章』と変えられた。これは著作権侵害だ」などと訴状を郵送するなどしていた。 法務省(法務大臣:稻葉修)が発した死刑執行命令により、死刑囚・大久保清は1976年(昭和51年)1月22日に、収監先の東京拘置所で死刑を執行された(41歳没)。死刑確定から2年10か月後の執行は当時、一般死刑囚と比較しても速いスピード執行だった。
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