公判と死刑
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1955年6月20日、ルース・エリスはオールド・ベーリーの第1号法廷で、裁判官サー・セシル・ヘイヴァーズ(Cecil Havers)の前に現われた。 ルースは黒のスーツと白の絹のブラウスを着用、髪は脱色したばかりのブロンドで、セットしてあった。ルースの弁護士らは彼女に、控えめな装いに抑えるよう望んでいたが、彼女は「やるときはやる」という決心であった。裁判所内の多くの人々にとって、真鍮色のブロンドであることへの彼女の固執は、少なくとも部分的には、証言に際して彼女が与える悪印象の原因であった。 わたしが彼を撃ったときわたしは彼を殺す意図であったことは、明白です。 —ルース・エリス、1955年6月20日、オールド・ベーリー、証人席 これが、検察官クリスマス・ハンフリーズ(Christmas Humphreys)によって彼女に発せられた唯一の質問に対する彼女の返事であったが、彼は「あなたがデヴィッド・ブレークリーの身体に近距離からリヴォルヴァーを発砲したとき、あなたは何をする意図でしたか?」と訊ねた。セバーグ・ショー(Sebag Shaw)とピーター・ローリンソン(Peter Rawlinson)によって支持された弁護人メルフォード・スティーヴンソン(Melford Stevenson)であれば、公判の開始の前にこのあり得る質問について助言するのが標準的な法律的な慣習であるのだから、エリスにもそのようにしたであろう。 公判廷におけるハンフリーズの質問に対する彼女の答えは、有罪の評決を、したがって、それに続く強制的な死の判決を、保証した。 陪審が彼女に有罪の評決を下すのにかかったのは14分間であった。彼女は判決を受入れ、ホロウェーの死刑囚監房に連れて行かれた。 2010年、テレビ番組のインタヴューで、ヘイヴァーズ裁判長の孫で俳優のナイジェル・ヘイヴァースによれば、彼の祖父は内務大臣グウィリム・ロイド・ジョージ宛てに、彼はそれを「情痴犯罪」と見なすので死刑執行延期をすすめたが、それはにべもなく断られたが、それは一家によって保持されている。 犯行時の6発目の拳銃発射が、無関係な通行人に傷を負わせ、それが判決に影響を与えたということが、示唆されている。 死刑の前日、1955年7月12日の真昼、いやいやながらエリスは、愛人デズモンド・カッセンによって自分のために選ばれた事務弁護士ビックフォード(Bickford)を解任し、事務弁護士(その法律事務所は以前、殺人事件公判ではなく離婚手続きで彼女の代理をつとめていた)とその秘書レオン・シモンズ(Leon Simmons)に告白した。彼女は、射撃にかんするさらなる証拠を明らかにし、銃はカッセンによって提供されたこと、彼が彼女を殺人現場に乗せていったことを語った。 死刑囚監房での90分間のインタヴューに続いて、事務弁護士とシモンズは内務大臣のもとに行き、そこで彼らはルースによる暴露について下位公務員に話した。当局は、その情報(カッセンの間接的幇助の可能性)について追跡調査をする努力を払わなかったし、死刑執行延期はなかった。 独房からデヴィッド・ブレークリーの両親宛の最後の手紙で、ルースは「わたしはご子息を愛していましたし、ご子息をなおも愛しながら死にます」と書いた。 エディス・トンプソン(Edith Thompson)の1923年の死刑執行以来、女性死刑囚は詰め物をした、厚い、キャリコのニッカーズを着用しなければならなかったが、3週間エリスを護衛した女性刑務官ウォーダー・イヴリン・ギャラリー(Warder Evelyn Galilee)は、定刻の前に、彼女を手洗いに連れて行った。ギャラリーは言った。「悪いけれど、ルース、わたしはこれをやらねばならないの」それらは、正面と背面のテープを引っぱるようになっていた。エリスは「これでいい?」と、そして「こちらを引いてくださるかしら、イヴリン? わたしは残りを引きますから」と言った。死刑囚監房にふたたびはいるや、彼女は眼鏡をはずし、それをテーブルの上に置き、言った「もうこれは必要ないでしょうね」。 7月13日水曜日午前9時の30秒前、絞首刑執行人アルバート・ピアポイントとその助手ロイストン・リカード(Royston Rickard)は、死刑囚監房のなかにはいり、となりの執行室まで15フィート(4.6メートル)、ルースを護衛した。彼女の前日の体重は103ポンド(47キログラム)あった。8フィート4インチ(2.54メートル)の絞首台の踏落台が準備された。 ピアポイントは12秒間ちょうどで死刑を実行し、死体は1時間、吊り下げられたままであった。 事後、病理学者キース・シンプソン(Keith Simpson)博士による検死解剖報告が、公表された。 ステップニー(Stepney)の主教(Bishop)ジュースト・ド・ブランク(Joost de Blank)が、死の直前のエリスを訪ねると、彼女は彼に語った、「わたしが彼を撃った人物ではないことはまったく明らかです。わたしは自分がリヴォルヴァーを帯びているのが見えたとき、わたしは自分が別の人物であることを知りました」。これらの評言は、当時のロンドンの夕刊紙『ザ・スター(The Star)』でなされた。
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