公判の推移
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「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「公判の推移」の解説
富山事件では、北野が待機していたとされる自宅(小杉町)から殺害現場(数河峠)まで、長野事件では同じく待機場所(長野市内のホテル)から殺害現場(修那羅峠)までの「足」が最大の争点となったが、検察はそれを立証できず、Mが富山事件への関与を否定したこともあって、「北野が殺害を実行した」という主張を立証することが困難な状況に追い込まれていった。 1981年(昭和56年)4月1日付で、裁判長を務めていた岩野が岡山地裁・家裁へ転出したため、第12回公判(同年4月23日)以降は、大山貞雄(前任地:岐阜地・家裁大垣支部長)が裁判長を務めた。 一方、被告人Mは1981年10月26日 - 27日ごろ、長野事件の現場検証に立ち会った際、被害者Bを供養する姫観音像に接して以来、精神的・肉体的ともに急変が見られるようになった。Mは1981年10月 - 11月にかけ、未決拘置されていた富山刑務所で2度にわたり自殺を図り(いずれも未遂)、それ以降は富山地裁が富山刑務所に対し、Mを厳重な監視によって保護することを要請したことから、Mの居室にテレビカメラが設置された。また、第24回公判(1982年2月23日)から第92回公判にかけ、Mが再三にわたって体調不良を訴え、公判が中断する出来事もあった。1982年11月には裁判長が職権で、Mが公判に耐えられるかを判断するため、富山医科大学に精神診断を依頼。その結果、「Mは軽い抑うつ状態で、ヒステリーが起きる」「全体的な知能指数 (IQ) は138」と診断された。また、遠藤正臣(富山薬科大学教授)は、1983年2月17日付で富山地裁に提出した鑑定書で、Mについて挿間性の意識変化状態(急に頭が茫として倒れるが、短時間で自然に回復する)の既往症や、ヒステリー性人格障害の存在などを挙げ、「ヒステリー反応そのものの性質から、出廷が不能となることは十分考えられる」と指摘している。 また、北野の妻は夫の逮捕後も無実を信じて支援を続け、1982年10月31日には富山地裁へ夫の保釈請求書を提出したが、同年11月2日付で却下された。当時、彼女の母親はノイローゼで、彼女は「宏さんが側に居てくれなければ、私はどうにもならないんです」と訴えていたが、保釈が認められなかったことから、北野と離婚している。
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公判の推移
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「名護市女子中学生拉致殺害事件」の記事における「公判の推移」の解説
第2回公判(1997年5月21日)では、拉致の様子を目撃した男性と、2人が被害者Aの自転車を捨てる模様を目撃した女性の2人が、それぞれ証人尋問として出廷した。第3回公判(6月25日)で、検察官からの被告人質問を受けたYは、「遊び半分で、『どっちが殺すかじゃんけんで決めよう』と言った」と証言した一方、続く第4回公判(7月15日)でUは、「『じゃんけん』の話は一切なかった。YはAの首を手で絞める真似をしながら、自分に殺害を持ちかけたが、その時は真剣だった」と主張した。 また、Uは第4回公判(同年7月15日)で、弁護人からの被告人質問に対し、「Aを拉致する直前、『子供だからやめよう』と言った」「朝になったら(Aを)帰そうと思っていたが、Yから『拉致現場を目撃されている』と聞かされ、殺害を決意した」「当初は殺害の意思はなかったが、Yに誘われて殺害に加わった」「Yは犯行後、女性が運転していた車をヒッチハイクした後、自分に『(車を運転していた女性の)首を絞めて金を取ればよかったと考えなかったか』と発言したり、安謝港(那覇市)で『1人殺すも2人殺すも同じだ。もう1回やるか』と持ち掛けたりしていた」などと主張。一方、Yは第5回公判(同年8月27日)で、それらのUの主張をすべて否定し、「Uは犯行前、『観光客を狙おう』と言うなど、殺害に至るまでの犯行に自主的に加わっていた。自分がAを絞殺するためにロープを差し出した際も、Uは素直に受け取っていた」と主張した。第6回公判(同年9月11日)では弁護人がUを、第7回公判(同年10月14日)では検察官がY・U両被告人を、それぞれ再度尋問したが、2人は従前通り、「殺害前に『じゃんけん』をした」 (Y) 、「犯行直前まで殺意はなかったが、Yに迫られて殺害におよんだ」 (U) といった主張を繰り返した。なお、裁判長を務めていた長嶺は、公判中の1997年10月31日付で定年退官。それ以降の公判では、林秀文が裁判長を務めた。 第9回公判(同年12月19日)では、検察官の証人として、被害者Aの両親が出廷した。Aの父親は、両被告人に対し「お前たちは、私たち家族を苦しめるっていう犯罪を今も続けているんだ。お前たちに生きる資格はない」「早く(あの世に)行って(娘に)謝ってこい」と陳述したほか、裁判官に対しても両被告人への死刑適用を求めた。また、Aの母親も、夫(Aの父親)が事件後、「夢を見たい」と言い、夏でも娘が生前使っていた毛布で寝ていることなどを証言した上で、裁判所に対し、「裁判は被害者のためにあるものと信じます」「娘の苦しみをいやすような判決をお願いします」と陳述した。 一方、1998年(平成10年)1月20日の第10回公判では、被告人Uの父親(北海道在住)が情状証人として出廷し、被害者や遺族への謝罪の言葉を述べ、息子に対し「きちんと罪を償ってほしい」と語りかけた。Uの父は公判の休憩時間中に、検察官と弁護人の計らいで、被害者Aの父親と対面し、土下座して泣き叫びながら謝罪している。第11回公判(同月29日)で、裁判官・検察官・弁護人による最後の被告人質問が行われたが、両被告人の主従関係や、殺害を決意した時期などに関する証言は最後まで食い違ったままだった。
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公判の推移
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「大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」の記事における「公判の推移」の解説
1995年5月29日に大阪地裁で被告人KMの刑事裁判初公判が開かれ、同年6月8日には同地裁で被告人KAの初公判も開かれた。その後、KAの(大阪事件の)審理は木曽川・長良川事件の初公判時点までに名古屋地裁へ併合された一方、KM・HMの2人については1人は1995年に名古屋地裁に移されたがその後審理は中断し、もう1人は(1998年に名古屋地裁へ併合されるまで)大阪地裁で審理が続いていた。 1995年6月26日には名古屋地裁でKM・KA・HMの3被告人が揃った木曽川・長良川事件の初公判が開かれたが、弁護人側が「現時点では被告人らとの打ち合わせが不十分だ」などと主張した。このため、同日に予定していた罪状認否・検察官の冒頭陳述は次回公判(8月21日)に持ち越された。第一審の実質審理は初公判 - 2000年12月11日までの5年半にわたり計105回行われ、被告人3人は事件の事実関係については認めたが、被告人KMは殺意を否認したほか、被告人HMは大阪事件について殺人罪成立を否認した。また、被告人KMは「木曽川・長良川事件はHMが主犯」と主張した一方、被告人HMは「KMが最初に殴った」などと述べ、それぞれ「首謀者は自分ではない」と主張した。 1995年8月21日に開かれた第2回公判で改めて冒頭陳述・罪状認否が行われたほか、被告人3人は木曽川・長良川事件の起訴事実について各事件の被害者3人への暴行など事実関係を大筋で認めた。しかし一方で殺意はすべて否認し、強盗についてもそれぞれ犯行・犯意を否定した。被告人3人の弁護人も、殺意の有無について争うとともに、事件の特殊性・少年法の趣旨から、精神鑑定などを含めた多角的な情状を訴える方針を明らかにした。 1995年9月6日に開かれた第3回公判では木曽川事件の審理が行われた。同日は長良川事件・被害者Cの遺族(両親・姉)が初めて傍聴した公判だったが、3被告人は傍聴席を一睨みして被告人席へ着席したり、関係者とされる若者が傍聴している姿を見て彼らに視線を送って笑いかけていたため、被害者Cの父親は当時の3人の態度を「まるで主役気取りだ」と非難していた。また被告人KMらは公判開始当初こそ供述が一致していたが、裁判の途中で3人の主張が対立し、誰が主導的に犯罪を行ったかで主張が食い違ってきた。1997年(平成9年)8月25日の公判で被告人KMは『5人までだったら(殺しても)大丈夫だ』と発言していた」と証言した一方、被告人KAは検察官からの尋問に対し「他の2人(KM・HM両被告人)がいないときに話す」と単独での審理を希望し、それが認められたため次回公判(1997年9月8日)以降はしばらくの間、KAのみの単独審理となった。 1998年(平成10年)5月13日に名古屋地裁(佐藤学裁判長)で第54回公判が開かれ、裁判官の交代に伴う更新手続きが行われた。同日の公判ではそれまで木曽川・長良川事件について共謀・殺意を否定していた被告人 (HM) が一転してそれらを認める供述をした。 次回公判(1998年5月27日 / 第55回公判)では被告人KAも、それまで否定していた他の被告人との共謀・殺意を認めた。一方で残る被告人KMは2人と異なり、それまで通り共謀や殺意を否認した。 名古屋地裁(佐藤学裁判長)は1998年8月13日までに、それまで大阪地検によって起訴され大阪地裁で開かれてきた大阪事件の審理を木曽川・長良川事件の審理に併合し、3事件を一括して名古屋地裁で審理することを決めた。併合手続きは次回公判(1998年9月21日)で行われさらにその次の公判(1998年10月5日)で更新手続きの意見陳述が行われた。一方で「一番の兄貴分」とされた被告人KAは公判の途中から3事件すべてについて全面的に容疑を認め「恥ずかしいほど無知だった。本当に申し訳なく思う。自分は死刑になっても仕方がない」と反省の言葉を繰り返していた。 2000年(平成12年)7月10日には木曽川事件・長良川事件の審理が行われ、被告人KAは検察官からの尋問に対し長良川事件の際に「少女Y子から『暴行を止めさせて』と頼まれ、(KM・KAへ)『俺がやめろと言ってる』と伝えるようY子に指示した」と証言したが、その証言はY子・KMの証言とは異なっていた。同年7月24日の公判では前回公判で行われた検察官尋問の続きが行われたが、前回にKAが主張した内容の是非に関しては議論されず、被告人KAは検察官尋問に対し「長良川事件後に大阪へ帰ってから暴力団の親分へこれまでのことを報告したが、親分からは大阪事件後に『警察にマークされているようだから表沙汰になるようなことをするな』と釘を刺されていた。自分たちがそれを無視して暴走したことを知った親分は激怒し、KMの携帯電話に電話して『3日以内に指を詰めて持ってこい』と命令していた」と証言した。
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