公判の推移とは? わかりやすく解説

公判の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)

富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「公判の推移」の解説

富山事件では、北野待機していたとされる自宅小杉町)から殺害現場数河峠)まで、長野事件では同じく待機場所(長野市内のホテル)から殺害現場修那羅峠)までの「足」が最大争点となったが、検察はそれを立証できず、Mが富山事件への関与否定したこともあって、「北野殺害実行した」という主張立証することが困難な状況追い込まれていった1981年昭和56年4月1日付で、裁判長務めていた岩野岡山地裁家裁転出したため、第12回公判同年4月23日以降は、大山貞雄(前任地:岐阜地・家裁大垣支部長)が裁判長務めた一方被告人Mは1981年10月26日 - 27日ごろ、長野事件現場検証立ち会った際、被害者Bを供養する観音像接して以来精神的肉体的ともに急変見られるようになった。Mは1981年10月 - 11月にかけ、未決拘置されていた富山刑務所2度にわたり自殺図りいずれも未遂)、それ以降富山地裁富山刑務所対し、Mを厳重な監視によって保護することを要請したことから、Mの居室テレビカメラ設置された。また、第24回公判1982年2月23日)から第92回公判にかけ、Mが再三わたって体調不良訴え公判中断する出来事もあった。1982年11月には裁判長職権で、Mが公判に耐えられるかを判断するため、富山医科大学精神診断依頼その結果、「Mは軽い抑うつ状態で、ヒステリー起きる」「全体的な知能指数 (IQ) は138」と診断された。また、遠藤正臣(富山薬科大学教授)は、1983年2月17日付で富山地裁提出した鑑定書で、Mについて挿間性意識変化状態(急に頭が茫として倒れるが、短時間自然に回復する)の既往症や、ヒステリー人格障害存在などを挙げ、「ヒステリー反応そのもの性質から、出廷不能となることは十分考えられる」と指摘している。 また、北野の妻は夫の逮捕後も無実信じて支援続け1982年10月31日には富山地裁へ夫の保釈請求書提出したが、同年11月2日付で却下された。当時、彼女の母親ノイローゼで、彼女は「宏さんが側に居てくれなければ、私はどうにもならないんです」と訴えていたが、保釈認められなかったことから、北野離婚している。

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公判の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/14 05:26 UTC 版)

名護市女子中学生拉致殺害事件」の記事における「公判の推移」の解説

第2回公判1997年5月21日)では、拉致様子目撃した男性と、2人被害者A自転車捨て模様目撃した女性2人が、それぞれ証人尋問として出廷した第3回公判6月25日)で、検察官からの被告人質問受けたYは、「遊び半分で、『どっちが殺すかじゃんけんで決めようと言った」と証言した一方、続く第4回公判7月15日)でUは、「『じゃんけん』の話は一切なかった。YはAの首を手で絞める真似しながら自分殺害持ちかけたが、その時は真剣だった」と主張したまた、Uは第4回公判同年7月15日)で、弁護人からの被告人質問対し、「Aを拉致する直前、『子供だからやめようと言った」「朝になったら(Aを)帰そうと思っていたが、Yから『拉致現場目撃されている』と聞かされ殺害を決意した」「当初殺害意思はなかったが、Yに誘われて殺害加わった」「Yは犯行後女性運転していた車をヒッチハイクした後、自分に『(車を運転していた女性の)首を絞めて金を取ればよかった考えなかったか』と発言したり、安謝港(那覇市)で『1人殺すも2人殺すも同じだもう1回やるか』と持ち掛けたりしていた」などと主張一方、Yは第5回公判同年8月27日)で、それらのUの主張をすべて否定し、「Uは犯行前、『観光客を狙おう』と言うなど、殺害に至るまでの犯行自主的に加わっていた。自分がAを絞殺するためにロープ差し出した際も、Uは素直に受け取っていた」と主張した第6回公判同年9月11日)では弁護人がUを、第7回公判同年10月14日)では検察官Y・U被告人を、それぞれ再度尋問したが、2人従前通り、「殺害前にじゃんけん』をした」 (Y) 、「犯行直前まで殺意はなかったが、Yに迫られ殺害およんだ(U) といった主張繰り返した。なお、裁判長務めていた長嶺は、公判中の1997年10月31日付で定年退官それ以降公判では、秀文が裁判長務めた第9回公判同年12月19日)では、検察官証人として、被害者A両親出廷した。Aの父親は、両被告人対しお前たちは、私たち家族苦しめるっていう犯罪を今も続けているんだ。お前たち生きる資格はない」「早くあの世に)行って(娘に)謝ってこい」と陳述したほか、裁判官に対しても両被告人への死刑適用求めたまた、Aの母親も、夫(Aの父親)が事件後、「夢を見たい」と言い、夏でも娘が生前使っていた毛布寝ていることなどを証言した上で裁判所対し、「裁判被害者のためにあるものと信じます」「娘の苦しみをいやすような判決お願いします」と陳述した一方1998年平成10年1月20日第10回公判では、被告人Uの父親北海道在住)が情状証人として出廷し被害者遺族への謝罪言葉述べ息子対し「きちんと罪を償ってほしい」と語りかけた。Uの父は公判休憩時間中に検察官弁護人計らいで、被害者A父親対面し土下座して泣き叫びながら謝罪している。第11回公判同月29日)で、裁判官検察官弁護人による最後被告人質問が行われたが、両被告人主従関係や、殺害を決意した時期などに関する証言最後まで食い違ったままだった。

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公判の推移

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 15:49 UTC 版)

大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件」の記事における「公判の推移」の解説

1995年5月29日大阪地裁被告人KM刑事裁判初公判開かれ同年6月8日には同地裁で被告人KA初公判開かれたその後KAの(大阪事件の)審理木曽川・長良川事件初公判時点までに名古屋地裁併合され一方KMHM2人については1人1995年名古屋地裁移されたがその後審理中断し、もう1人は(1998年名古屋地裁併合されるまで)大阪地裁審理続いていた。 1995年6月26日には名古屋地裁KMKAHMの3被告人揃った木曽川・長良川事件初公判開かれたが、弁護人側が「現時点では被告人らとの打ち合わせ不十分だ」などと主張したこのため同日予定していた罪状認否検察官冒頭陳述次回公判8月21日)に持ち越された。第一審実質審理初公判 - 2000年12月11日までの5年半にわたり計105行われ被告人3人は事件事実関係については認めたが、被告人KM殺意否認したほか、被告人HM大阪事件について殺人罪成立否認したまた、被告人KMは「木曽川・長良川事件HM主犯」と主張した一方被告人HMは「KM最初に殴った」などと述べそれぞれ首謀者自分ではない」と主張した1995年8月21日開かれた第2回公判改め冒頭陳述罪状認否が行われたほか、被告人3人は木曽川・長良川事件起訴事実について各事件被害者3人への暴行など事実関係大筋認めた。しかし一方で殺意はすべて否認し強盗についてそれぞれ犯行犯意否定した被告人3人の弁護人も、殺意有無について争うとともに事件特殊性少年法趣旨から、精神鑑定などを含めた多角的な情状訴え方針明らかにした。 1995年9月6日開かれた第3回公判では木曽川事件審理が行われた。同日長良川事件被害者Cの遺族両親・姉)が初め傍聴した公判だったが、3被告人傍聴席一睨みして被告人席へ着席したり、関係者とされる若者傍聴している姿を見て彼らに視線送って笑いかけていたため、被害者Cの父親当時の3人の態度を「まるで主役気取りだ」と非難していた。また被告人KMらは公判開始当初こそ供述一致していたが、裁判途中で3人の主張対立し誰が主導的犯罪行ったかで主張食い違ってきた。1997年平成9年8月25日公判被告人KMは『5人までだったら殺しても)大丈夫だ』と発言していた」と証言した一方被告人KA検察官からの尋問対し「他の2人(KMHM被告人)がいないときに話す」と単独での審理希望し、それが認められたため次回公判1997年9月8日以降しばらくの間KAのみの単独審となった1998年平成10年5月13日名古屋地裁佐藤学裁判長)で第54回公判開かれ裁判官交代に伴う更新手続きが行われた。同日公判ではそれまで木曽川・長良川事件について共謀殺意否定していた被告人 (HM) が一転してそれらを認め供述をした。 次回公判1998年5月27日 / 第55回公判)では被告人KAも、それまで否定していた他の被告人との共謀殺意認めた一方で残る被告人KM2人異なりそれまで通り共謀殺意否認した名古屋地裁佐藤学裁判長)は1998年8月13日までに、それまで大阪地検によって起訴され大阪地裁開かれてきた大阪事件審理木曽川・長良川事件審理併合し、3事件一括して名古屋地裁審理することを決めた併合手続き次回公判1998年9月21日)で行われさらにその次の公判1998年10月5日)で更新手続き意見陳述が行われた。一方で「一番の兄貴分」とされた被告人KA公判途中から3事件すべてについて全面的に容疑認め恥ずかしいほど無知だった本当に申し訳なく思う。自分死刑になって仕方がない」と反省言葉繰り返していた。 2000年平成12年7月10日には木曽川事件長良川事件審理が行われ、被告人KA検察官からの尋問対し長良川事件の際に「少女Y子から『暴行止めさせて』と頼まれ、(KMKAへ)『俺がやめろと言ってる』と伝えるようY子指示した」と証言したが、その証言Y子KM証言とは異なっていた。同年7月24日公判では前回公判行われた検察官尋問続きが行われたが、前回KA主張した内容是非に関して議論されず、被告人KA検察官尋問対し長良川事件後に大阪帰ってから暴力団親分これまでのことを報告したが、親分からは大阪事件後に『警察マークされいるようだから表沙汰になるようなことをするな』と釘を刺されていた。自分たちがそれを無視して暴走したことを知った親分激怒しKM携帯電話電話して3日以内指を詰めて持ってこい』と命令していた」と証言した

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