公判分離
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)
「富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「公判分離」の解説
名古屋高裁金沢支部は、まず被告人Mへの被告人質問を行う意向を示したが、倉田はこれに反対し、異議申し立てを行った。これは、高裁支部が第一審の心証をそのまま引き継ぐことになり、今後の審理の展開が不利になることを危惧したためで、検察官もそれに賛同したが、北野弁護団は裁判所の決定を支持。Mへの被告人質問はそのまま行われることとなったが、倉田はこれに抗議の意を示すため、裁判官忌避を申し立てたものの、却下され、最終的に最高裁への特別抗告も却下された。 一方、Mと接見を重ねていた倉田は、Mの精神の不安定さを察し、M本人からも「医者に診てもらいたい」と要望されたため、第一審で実施された精神鑑定書を持参し、中谷陽二のもとを訪れた。中谷は、「鑑定書に記載されている脳波異常とヒステリー症状との関係は不明であるとしても、脳機能の何らかの障害を示唆するものとして無視できない所見」「現在および犯行時の精神状態について、精神医学的見地から再検討することが是非とも必要」という見解を示した。これを受け、倉田も精神医学的見地から争うことを考えたが、Mや彼女の支援者たちはその弁護方針に反発し、最終的に倉田は弁護人を解任されることとなった。 1990年(平成2年)1月23日に開かれた第3回公判から、検察官による被告人Mへの質問が実施されたが、同年8月18日付で、被告人Mは弁護団を結成していた弁護人4人(主任弁護人:倉田哲治)の解任届を提出した。その後、第13回公判(同月28日)までに新たな弁護人が選任されなかったため、刑事訴訟法の規定により、Mについては控訴審の審理ができなくなった。しかし、続く第14回公判(9月11日)・第15回公判(9月25日)でも弁護人不在の状況が続き、第16回公判(10月9日)で、高裁支部はそれ以上の審理の遅延を防ぐため、「次回公判(10月23日)からMと北野の審理を分離する」と決定した。 第17回公判(同年10月23日)および、第18回公判(同年11月13日)では、北野に対する検察官の質問が行われたが、北野は検察官に対し「不当な控訴により、自分は家族ともども苦しめられている」と訴えた以外、検察官の質問には一切答えなかった。第19回公判(1990年11月27日)では、検察官が申請していた証人(「1980年2月25日早朝、『北陸企画』前に白いライトバンが駐車してあった」と証言した新聞配達員の女性とその母親)が「10年前のことで、(事件当時の)記憶が不正確」として、出廷を拒否。同日、北野の弁護人は裁判官(濱田および井垣敏生・秋武憲一の両判事)に対する忌避申立書を提出したが、名古屋高裁刑事第2部(本吉邦夫裁判長)は申立を却下した。一方、検察官は「殺害・死体遺棄の実行者を特定し、2被告人の共謀の有無を判断するために必要」として、事件当時と同じ積雪時に現場検証を実施するよう申請。これを受け、名古屋高裁金沢支部は1991年2月13日に富山事件の現場で、6月4日 - 5日には長野事件の現場で、それぞれ現場検証を実施した。 一方、1990年10月26日には名古屋高裁金沢支部により、Mの国選弁護人が選任された。新たな弁護人は、小堀秀行・押野毅の両名で、彼らは就任後、金沢刑務所拘置区で面会したMに対し、「事実をすべて私たちに話してほしい」と説得を続けた。また、1991年(平成3年)4月には、Bの遺族から「Mには死をもって償ってもらうしかない」などと書かれた手紙を受け取り、その内容をMに伝えた上で、「事実を隠していては遺族への謝罪にはならない」と説得した。Mは当初、弁護人に対しては「真実を話す」と新供述を口にしつつも、法廷での証言は拒否していたが、2人から粘り強く説得された末に、第22回公判の当日(1991年6月25日)朝になって、2人に「法廷で本当のことを話します」と伝え、その言葉通り「新供述」を法廷で展開した。
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