富山事件とは? わかりやすく解説

富山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/17 13:21 UTC 版)


事件発生の背景と詳細

1972年6月17日深夜から18日未明にかけて、富山県富山市の中心部、城址大通りから国鉄富山駅前(現在のJR富山駅)にかけて、大規模な集団騒動が発生した 。この騒動には、当時「カミナリ族」と呼ばれていた若者たちに加えて、彼らの行動を冷やかす目的で集まった見物人や野次馬を含む、約3,000人もの大規模な群衆が参加していたとされる 。  

騒動は、当初のサーキット遊びから一転、参加者が暴徒化し、近隣の商店を襲って破壊行為に及んだほか、通りがかりの一般車両を破壊するといった行為にまで発展した 。これは、若者たちの集団行動が、単なる交通妨害や騒音といった迷惑行為の範疇を遥かに超え、市民の生命と財産を直接的に脅かす暴動へと質的に変貌したことを意味する。

警察当局の対応

この前代未聞の事態に対し、富山県警察は、当時としては異例の1,200人もの警察官を動員して鎮圧にあたった 。

この大量動員は、当局が事態を単なる集団走行の延長線上にある危険行為ではなく、明確な暴動・犯罪行為として認識していたことを強く示している。従来の若者関連事件と比較して、この規模の警察力投入は、事態の深刻度と社会的な脅威を象徴する出来事であった。

この大規模な鎮圧活動と市民への暴力行為が、マスメディアや警察当局に、より強力で否定的な新しい呼称の必要性を強く認識させる土壌となった。

項目 詳細
日付 1972年6月17日深夜〜18日早朝
場所 富山市中心部、城址大通り、国鉄駅前
参加者数 約3,000人(カミナリ族と見物人を含む)
警察動員数 約1,200人
発生事象 集団走行、サーキット遊び、暴徒化、商店や一般車両の破壊
結果 「暴走族」名称の定着、警察当局による全国的な取り締まり強化の通達

マスメディアによる呼称の確立

富山騒動は、その規模と暴力性から、全国的な大ニュースとして報じられた 。この報道の中で、マスメディアは従来の「カミナリ族」という呼称ではなく、行為そのものの危険性をより強調する「暴走族」という言葉を多用し始めた。この言葉は、瞬く間に一般にも浸透していったとされる 。この言葉の採用は、単に新しい名称が広まっただけでなく、若者たちの行動に対する社会の認識を根本的に変える作用をもたらした。

警察当局による公文書での使用

特筆すべきは、この事件を契機として、警察当局が公文書において「暴走族」という名称を使用し始めた点である 。これは、単なる俗称の定着に留まらず、国家機関がこの名称を正式なものとして追認したことを意味する。マスメディアと警察当局が共通の、より否定的な名称を採用したことは、単に言葉が広まった以上の意味を持っていた。  

富山騒動以前の「カミナリ族」は、騒音や速度を楽しむ「族」と見なされていたが、「暴走族」という言葉は、「暴走」という行為そのものに焦点を当て、社会的脅威としての側面を前面に押し出した。これにより、市民の認識は「単なる騒がしい若者」から「公共の安全を脅かす危険な存在」へと劇的に変化した。警察が公文書でこの名称を用いることは、取り締まりの強化 や後述の法改正といった強力な手段を講じるための正当性を社会的に確立する役割を果たした。新しい名称は、新しい脅威、そしてそれに対する新しい社会対応の必要性を意味したのである。

事件後の全国的な動向

富山騒動を契機に、1972年には警察庁が暴走族の取り締まりを強化する通達を全国に出した 。その後も、暴走族のグループ数や構成員数は増加の一途をたどり、全国各地のグループが「東北連合」や「関東連合」といった大規模な連合体を結成する動きも見られた 。彼らの活動は、社会の安全を脅かす存在として認識されるようになり、グループ間の抗争が激化した結果、1975年頃には武装するグループも出現した 。この一連の動きは、1978年の道路交通法改正へと繋がっていく 。


富山事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 11:59 UTC 版)

富山・長野連続女性誘拐殺人事件」の記事における「富山事件」の解説

Mは2月25日18時ごろ、睡眠薬ネルボン」4錠と腰紐持ちフェアレディZ助手席にAを乗せて北陸企画」を出た後、途中でAに睡眠薬飲ませて眠らせようとしたが、「錠剤飲めないと言われたため、疲労させて眠らせた20時30分ごろに古川町の「エコー」に立ち寄り21時ごろに店の電話ボックスから北野電話して神岡町内で待ち合わせ約束をした。23時ごろ、Mは待ち合わせ場所に到着し20分後にバンでやってきた北野合流古川町数河ドライブイン「すごう峠」付近駐車場で、北野熟睡していたAを腰紐絞殺した

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