死刑執行とその後
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1997年(平成9年)7月25日午後、法務省矯正局に刑事局の死刑執行に関する秘文書が会議され、同月28日には松浦功法務大臣が東京高等検察庁の濱邦久検事長に永山の死刑執行を命令し、東京拘置所(永山の収監先)にも矯正局から「8月1日に永山則夫ら、死刑囚2人の死刑を執行されたい」と連絡が入った。奇しくも、同日にはその永山への面会人(女性)が東京拘置所を訪れ、「身元引受人のことについて面会に来た。金銭を差し入れたい」という旨を伝えた。死刑執行を4日後に控えていたため、東京拘置所の幹部たちは彼女を永山と面会させることに否定的だったが、処遇部長は首席との議論の結果「引受人の話は認めるが、差入れは許可しない。時間は17時まで」との条件で面会を許可した。この時、永山本人は死刑執行が間近に迫っていることを感じ、ノートの執筆に当たっていたが、その際には「自分は(死刑執行の時に)徹底的に抵抗し、無残な遺体になるかもしれない」「東京拘置所は朝食に薬物を混入させ、摂取させることで身体のコントロールを効かなくするかもしれない。遺体は解剖して死因を突き止めてほしい」という言葉をストレートに書いたほか、同様の内容を暗号・パズルなどを用いて記載していた。また週刊文春の報道によると、「本省に忖度して執行しようという当時の所長の意を汲んだ幹部職員が『死刑執行できない事情無し』という法務省の望んだ答えそのまま、結論ありきの報告書を作成し提出した」とされる。 死刑囚・永山則夫はこの死刑執行指揮により、死刑確定から7年3か月後となる1997年8月1日、東京拘置所で死刑を執行された。同日8時25分、永山は独房から「面会だ」と呼ばれて出房させられたが、やがて廊下へ出てから多数の刑務官に取り囲まれたことで刑場に連行されることを悟り、激しく暴れた。しかし刑務官たちに制圧され、10時過ぎに首にロープを巻かれた状態で絞首刑を執行され、同日10時39分に死亡した(48歳没)。 永山の遺体は法律により、24時間は拘置所内の遺体安置室に置かれたが、翌日(8月2日)に拘置所の車でもう1人の死刑囚の遺体とともに四ツ木斎場へ運ばれて火葬された。これについて、坂本 (2010) は「事前の会議では『遺体は火葬し、遺骨で引き渡す』と決まっていた。拘置所は永山が激しく抵抗し、死刑を執行される前の時点で流血し、激しい暴行を受けたことで無残な姿になっていたため、その証拠を隠滅するために遺体を焼却された」と述べている。なぜならば、本来は死刑執行後、遺体を遺族や身元引受人に引き渡すのものであるが、拘置所は引受人である弁護士に遺体を見せず、東京都葛飾区の斎場にて火葬した4日に、遺骨を引き取りに来るよう通知したとされるためである。 差し戻し上告審で国選弁護人を務めた弁護士・遠藤誠は死刑執行を受け、4日午後に永山の遺骨を引き取った。葬儀は遺骨を引き取った遠藤が喪主を務め、同年8月14日に林泉寺(東京都文京区)で営まれた。遺骨は故郷の海であるオホーツク海に、元妻だった和美の手によって散布された(差戻し控訴審中に離婚成立)。死後、永山の「著作の印税を国内と世界の貧しい子どもたちに寄付してほしい」という遺言を受け、「永山子ども基金」が創設された。
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