死刑執行令状に署名しなかった判事
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:04 UTC 版)
「レジサイド (チャールズ1世)」の記事における「死刑執行令状に署名しなかった判事」の解説
以下では、チャールズ1世裁判に1日もしくは数日にわたり出席していながら死刑執行令状に署名しなかった判事を列挙する。 死刑執行令状に署名していない判事名前王政復古時の生死第34条による除外備考出典アレン フランシス・アレン死亡 裁判中、死刑が決定した1月27日を含む数回の審議に出席。1660年免責・大赦法第37節で例外とされたうち既に死亡していた24人のうちの一人。 アンドリュース サー・トマス・アンドリュース死亡 裁判中、死刑が決定した1月27日を含む3回の審議に出席。1660年免責・大赦法第37節で例外とされたうち既に死亡していた24人のうちの一人。 ハモンド トマス・ハモンド死亡 14回の審議に出席。1660年免責・大赦法で例外とされ、生前所有していた財産は没収された。 ハリントン サー・ジェームズ・ハリントン生存 第39条による赦免除外。大陸に亡命し、1680年に死去。本人の爵位は剥奪されたが、免責・大赦法制定時のミスにより、本人の死とともに次代が準男爵位を継ぐことになった。 ハーヴェー エドマンド・ハーヴェー生存 ○ 1660年10月に裁判にかけられ、終身刑に処された。1673年6月にコーンウォールのペンデニス城で死去。 ヘヴェニンガム ウィリアム・ヘヴェニンガム生存 ○ 反逆罪に問われたが、慈悲を乞う陳情書を出して受け入れられ、ウィンザー城に収監された。1678年に同地で死去。 ホラント コルネリウス・ホラント生存 ○ ネーデルラント、次いでスイスのローザンヌおよびヴヴェイへ亡命し、同地でおそらく1671年に死去。 ライル サー・ジョン・ライル生存 ○ スイスのローザンヌへ亡命したが、1664年8月にアイルランド人の王党派ジェームズ・フィッツ・エドモンド・コッター(偽名トマス・マクドネル)に銃殺あるいは刺殺された。 ラヴ ニコラス・ラヴ生存 ○ ハンブルクへ亡命。1682年にスイスのヴヴェイで死去。 ペニントン アイザック・ペニントン生存 ○ 終身刑に処され、1661年にロンドン塔で死去。 チャロナー ジェームズ・チャロナー生存 第39条による赦免除外。トマス・チャロナーの弟。兄と異なり死刑執行令状に署名せず。王政復古直前の1659年にジョージ・マンクに加担した咎で投獄されており、そのまま1660年7月に病死。. ダヴ ジョン・ダヴ生存 死刑が決定した場以外には審議に出席せず。王政復古時に深く改悛し、なりふり構わず服従の意思を議会に示したために罰を免れた。1664年もしくは1665年に死去。 フライ ジョン・フライ死亡 1649年1月26日、自身が三位一体を信じない宗教信条を持っていたことが問題視され、チャールズ1世の死刑決定の前日にして高等法院から締め出された。1657年に死去。1660年免責・大赦法で例外とされたうち既に死亡していた24人のうちの一人。 マイルドメイ サー・ヘンリー・マイルドメイ生存 第39条による赦免除外。騎士号を剥奪され終身刑を宣告された。タンジェへ送られる途中の1664年にアントウェルペンで死去。 モンソン ウィリアム・モンソン生存 第39条による赦免除外。爵位と財産を剥奪され、終身刑に処された。1673年、フリート牢獄で死去。 ピカリング ギルバート・ピカリング生存 裁判中、2回の審議にしか出席せず、死刑執行令状にも署名しなかった。このことと義弟サンドウィッチ伯エドワード・モンタギューの影響力も使って恩赦の対象内にとどまることができたが、生涯公職に就くことは許されなかった。 ワロップ ロバート・ワロップ生存 第39条による赦免除外。終身刑に処され、1667年にロンドン塔で死去。
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