インド・ヨーロッパ語族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/15 08:14 UTC 版)
インド・ヨーロッパ語族 | |
---|---|
原郷 | ポントス・カスピ海ステップ(クルガン仮説) |
話される地域 | 植民地時代以前: ユーラシア大陸および北アフリカ 現代:世界的 |
ISO 639-2 / 5 | ine |
英語・スペイン語・ロシア語などヨーロッパに由来する多くの言語[注 1]と、ペルシア語やヒンディー語などの西アジアから中央アジア、南アジアに由来する言語を含む。一部のヨーロッパの言語が世界的に拡散することで、現代においては世界的に用いられている。
印欧語族(いんおうごぞく)と略称される。
特徴
語彙や文法にまたがった幅広い共通性が18世紀末以降の研究によって見出され、19世紀前半に語族を構成する言語が死語を除いて確定された。すべての印欧語は共通の祖先にあたる言語を持っていると考えられ、インド・ヨーロッパ祖語ないし印欧祖語と呼ぶ。文字が記録されていない時代の言語であるものの、研究が積み重ねられることで実像が提示されつつあり、ポントス・カスピ海ステップに出自を持つヤムナヤ文化の担い手が紀元前4000年ごろには話していた屈折語であったとするクルガン仮説とその修正版が中心的な説になっている。
分類方法や呼称には差異があるが、現代に用いられている言語はアルバニア語、アルメニア語、イタリック語派、インド・イラン語派、ケルト語派、ゲルマン語派、バルト・スラヴ語派、ヘレニック語派の8つの語派にさらに分類される。20世紀初頭の研究によって、紀元前にアナトリア半島で用いられた言語と、8世紀頃までタリム盆地北縁地域で用いられていた言語がそれぞれ印欧語に含まれることが示され、それぞれアナトリア語派とトカラ語派と名付けられた。
文献が登場する以前の先史時代にはインドからヨーロッパにかけた地域に大きく拡散していた。植民地時代以降に英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語などのヨーロッパの言語が全世界的に広められ、アメリカ大陸やオーストラリア大陸での支配的な言語となったほか、アフリカやアジアの複数の地域でも大きな位置を占めた。印欧語族は現代において母語話者が最も多い語族であり、2010年代以降の統計によれば約30億人が第一言語として用いている[5]。2000年以降の調査で、母語話者の多い言語には2億人以上のものに英語、ヒンディー語、スペイン語、ポルトガル語、1億人以上のものにロシア語、ベンガル語がある[6]。
研究史
語族概念の発見と研究の発展
言語間に系統的な関係があるという考えやそれに基づいた比較研究は印欧語族が他の語族に先んじたものであり、印欧語族の研究史と比較言語学の研究史はその始まりにおいて重なっている[7][8]。そのため印欧語族の研究で見出された概念は他の語族、あるいは広く言語学の研究に応用されることになった。
ジョーンズと揺籃期の研究者たち
ヨーロッパとインドで使われる言語の関係を指摘する者は以前にもいたものの、研究が進む契機となったのは18世紀末にイギリス人のウィリアム・ジョーンズによってなされた指摘であった。ジョーンズは植民地インドの判事として現地法を研究しており、1784年にベンガル・アジア協会を組織した。サンスクリットを学び始めたジョーンズは、その語根や文法の構造が、ヨーロッパの諸語、とりわけラテン語とギリシア語に類似していることに気付き、共通の祖先にあたる言語が想定されるという考えを発表した[9][10]。この指摘に研究が触発されたことから歴史的な重要性が認められるが、発表の本筋とは離れた小さな扱いであった。また、旧約聖書が描くような単一の人類の原祖を想定したジョーンズの関心は民族史や文化史にあり、それぞれの言語に深い関心を持ちつつも印欧語を俯瞰した研究を深めようとはしなかった[9][11]。
ジョーンズの示唆を実証する研究はイギリスでは進まず[注 2]大陸に移ることとなった。この先駆的時代の研究にフリードリヒ・シュレーゲル、フランツ・ボップ、ラスムス・ラスク、フリードリヒの兄のアウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲル、W.v.フンボルト、ヤーコプ・グリムらによるものがある。フリードリヒ・シュレーゲルは1808年の著作『インド人の言語と英知』でサンスクリットとヨーロッパの言語の比較を試みた[13]。ボップとラスクの著作は、比較言語学の第一作を争うものとして知られている。アウグスト・ヴィルヘルム・シュレーゲルとフンボルトは、フリードリヒ・シュレーゲルの分類を発展させて屈折語・孤立語・膠着語・抱合語という言語の四類型を立てた。グリムはラスクの論を受け継いでゲルマン祖語に起きた音韻法則であるグリムの法則を見出した[14]。また黎明期の研究を総括したシュライヒャーによって、印欧祖語を再建する初めての試みが1861年に提出された[15][16]。重要な業績が残された一方で、音声学の視点を欠く不完全さがあったともされる[13][14]。
ジョーンズはサンスクリット、ラテン語、ギリシア語を中心としてゴート語、ケルト語、古代ペルシア語の資料を用いていた。シュレーゲルはアルメニア語とスラヴ語が語族に含まれることを示唆したが、確証はしなかった。語族の構成員を探る試みは主にボップによってなされ、1838年および1854年の講演ではケルト語とアルバニア語が帰属することを示した。彼の死後の1868年から1871年にかけて公刊された『比較文法』の第三版ではアルメニア語とスラヴ語が含まれることを示し、これによって死語となっていない語派の構成が確定した[17]。
言語のグループを指す用語としてトマス・ヤングによる「インド・ヨーロッパ語」が1813年に提出された[注 3]。現代において、ドイツ語圏においてのみユリウス・ハインリヒ・クラプロートが1823年に提唱したインド・ゲルマン語という名称が用いられ(ドイツ語: Indogermanische Sprachen)、その他の言語ではインド・ヨーロッパ語に相当する呼称が用いられる[18][17]。
学問体系の確立
ゲオルク・クルツィウスは分化していた言語学と文献学の協調を要請した。クルティウスの弟子の世代にあたり、問題意識を引き継いだライプツィヒ大学に拠点を置く一連の学者らは1870年代以降に音韻論の実証的な研究を発表し、青年文法学派と呼ばれた。青年文法学派の実証を重んじる主張は「音法則に例外なし」に代表され、代表者のカール・ブルークマンの説がクルツィウスに受け入れられなかっただけでなく、ヨハネス・シュミットやアダルバート・ベッツェンベルガー、ヘルマン・コーリッツらの批判を受け議論は紛糾した[19][20]。
ライプツィヒ大学に留学しており青年文法学派と交流があったフェルディナン・ド・ソシュールが1878年に提出した論文『印欧語族における母音の原始的体系に関する覚え書き』は、印欧語の母音組織と母音交替を統一的に説明する画期的な学説であった[21]。母音交替を説明するために、音声的に正体不明の「ソナント的機能音」を建てる理論的仮説だったが[22]、実証を重んじる青年文法学派の奉じる原理と衝突し受け入れられなかった。
結果的に1870年代前後を通じて、ジョーンズの指摘を受けた研究はドイツロマン主義の隆盛と相まってドイツで盛んとなった[23][24]。
死語の研究による語族の拡大
19世紀末以降の調査によって、タリム盆地で発見された複数の文書の中に正体不明のものがあり、1908年に解読されてトカラ語と名付けられた言語は、印欧語族に含まれることが示された。20世紀に入ると、小アジアで用いられ紀元前に死語となった未知の言語が碑文から研究され、ヒッタイト語と名付けられた。ヒッタイト語は、1915年以降に発表された研究で印欧語族に含まれるか、少なくとも類縁関係にあることが明らかになった[25]。イェジ・クリウォヴィチは、解読されたヒッタイト語の喉音がソシュールの言うソナント音に対応していることを指摘した上で理論を発展させ、これ以降の研究によって喉音理論が成立した[22]。
原郷問題
インド・ヨーロッパ語族や、あるいは話者のグループの原郷について現代にはクルガン仮説が中心的な説となっているが、これに至るまでに議論の歴史がある。言語学から探求された時代には、印欧諸語の語彙を突き合わせ印欧祖語の語彙を挙げ、その特徴から地域を特定しようとする方法が取られた。考古学の発達につれ、こうした手法に加え、集団の移動や、耕作・家畜・道具の発展を実証的に探求できるようになった。
言語学からの探求
原郷問題についてまとまった著作をはじめて発表したのはアドルフ・ピクテであった。風間によれば、当時は研究の黎明期にあってインド学が充実しておらず、ピクテはサンスクリットがあらゆる点で古い形を保っていると誤解していた。風間によればこうしたアジアを理想化する偏った見方はピクテに限らず先に触れたシュレーゲルなど十九世紀前半に著しく見られるといい、ピクテは原郷として古代のバクトリアにあたるアムダリア川中流域を想定して東方説(アジア説)の端緒となった[26]。
アジア説を批判してヨーロッパ説を導入した初期の代表的な人物に、サンスクリットを専門とするテーオドール・ベンファイがいる。ベンファイは、印欧諸語でライオン(あるいは大型肉食獣)を指す言葉がそれぞれ独立していて共通の語源を想定できないことを論拠にライオンの生息域を排したが、こじつけた感があり当時から注目を受けなかった[27]。現代においては、ヨーロッパがライオンの生息域であった可能性[28]と、印欧祖語の語彙にライオンが含まれているとする主張[注 4]の両方から批判を受ける形となり、成立しない議論と考えられている。
政治利用
インドやイランなどアジアの言語とヨーロッパの言語が共通の祖先を持つという概念は、特にその話者にとってセンセーショナルに捉えられうる。学問的な探求と明確に区別しがたい面がありながらも、ある種の思想に基づいた主張を喚起し、またしばしば政治的に利用される[30]。
その典型的な例に、アーリアン学説がある。アーリア人は『リグ・ヴェーダ』や『アヴェスター』の著者たちの自称に由来し、インド・イラン語派以外に用いられるものではなかった。しかしエキゾチックな魅力を持つ言葉として、本来の範囲を超える意味でヴィクトリア朝時代の社交界には既に広まっていた[30]。 『リグ・ヴェーダ』を翻訳したマックス・ミュラーは、インドに進入したサンスクリットの話者たちを、「高貴さ」を意味する彼らの自称から「アーリア人」と呼ぶべきと主張した。ミュラーの議論には根拠が乏しく後年になり撤回したが、文明の祖という幻想的なイメージを形作った。彼によって、言語学的な問いから、ヨーロッパ文明の起源についての問いに変質する先鞭がつけられたとされる[31]。ミュラーの影響を受けた典型例に挙げられるフランスの作家、アルテュール・ド・ゴビノーの『人種不平等論』(1853-1855年)は、人類を黒色・黄色・白色に大別し、白色人種に属するという「アーリア人」の文明性を謳った[31]。マディソン・グラントの『偉大な人種の消滅』(1916年)では、イギリス系かドイツ系のアメリカ人という意味で「アーリア人」を用い、ユダヤ人のほかにポーランド、チェコ、イタリア系の移民との混血を警告した[30]。こうした欧米の思想の潮流の中で、ゴビノーのアーリア人種至上主義がヒューストン・ステュアート・チェンバレンの『十九世紀の基礎』(1899年)や神秘思想家のヘレナ・P・ブラヴァツキーによって受け継がれた。チェンバレンの人種至上主義とブラヴァツキーの神智学には距離があったが、ドイツやオーストリアでそれぞれが受容されるにつれて結びついていき、「アリオゾフィ」と呼ばれるアーリア人種至上主義を神智学によって解釈する思想が生まれた。アリオゾフィはナチズムの源流の一つとなって「アーリア=ゲルマン人種」といったイデオロギーに結実することになった[31]。
1990年代以降、ヒンドゥー・ナショナリズムのサンスクリットを称揚する言説の中でインド起源説が唱えられている。長田によれば、マックス・ミューラー以降の「アーリヤ人侵入説」の問題点は、ジム・シェーファー、レイモンド・オールチン、アスコ・パルボラらによって学問的に批判されてきたほかに、ミューラーの直後からヒンドゥー改革者らによって宗教的な解釈に基づく批判も受けてきた。これらを受けて、デイヴィッド・フローリーとナヴァラトナ・ラージャーラーム以降のヒンドゥー・ナショナリストたちは、著作の中で反アーリヤ人侵入説と並んで「印欧祖語=サンスクリット語、インド由来」論を展開している。長田は発端となったラージャーラームの主張を分析し、学問的な批判に耐えるものではないと結論づけている[32]。
現実的な歴史観にそぐわない政治利用の例は他にもあり、アンソニーは例としてアメリカの白人至上主義、女神運動、ロシアのナショナリズム・ネオペイガニズムを挙げている[30]。
関連する学問分野の拡大
二十世紀に入って先史時代を扱う考古学が発達すると、言語学のみならず考古学の立場からも研究されるようになった。考古学を応用した初期の研究にグスタフ・コッシナによる1902年のものがある[33]が、彼は始めから原郷がドイツにあると示す目的意識を持っていて、ナチスに政治利用されたことから原郷問題がタブー化した[30][5]。
原郷問題が考古学の研究分野として復活したのは、1950年代のマリヤ・ギンブタスによるクルガン仮説の提唱に始まるとされる。黒海ステップの前4000年以降の銅器時代の文化を、当該地域に特有に見られる墳丘墓の名前からクルガン文化と呼ぶ。クルガン仮説によれば、黒海北方のステップの遊牧民が印欧祖語の話者で、彼らは馬を家畜化すると前3600 - 2300年ごろにクルガン文化(の中のヤムナヤ文化)とともに印欧祖語を広めた。ジム・マロリーやデイヴィッド・アンソニーがこれに追随し、アンソニーはステップでの馬の家畜化と乗用の起源を示すことで説の補強を試みた[5]。
1987年にイギリスのコリン・レンフルーがアナトリア仮説を提出した。印欧祖族の故郷はアナトリア半島にあり、中央ギリシアに最初の農業経済を起こしてから前6500年以降に拡散したという、農業経済を軸にした提案だった。古代ギリシア語がヒッタイト語よりもサンスクリット語にはるかに類似しているという事実を説明できておらず、当時の社会に馬の存在はなかったとの主張は印欧祖語に馬の語彙が再建されることから退けられる[34]など、レンフルーの主張は既存の言語学の立場からはとくに懐疑視された[5]。
生物学者のラッセル・グレイとクエンティン・アトキンソンは、計算生物学の手法を用いた研究を2003年に発表した。言語年代学を改良して統計的に単語の類似を分析した結果、印欧祖語が各言語に分岐した年代は前6000年以前であると示され、アナトリア仮説を擁護した[5]。
アンソニーは、90年代以降の考古学を踏まえた研究を2007年の著作『馬・車輪・言語』に発表した。ポントス・カスピ海ステップを原郷においた印欧語の拡散の過程を描くことで、クルガン仮説を修正・補強してアナトリア仮説への反論を試みた[35][36]。
言語学者のアンドリュー・ギャレットらは、2013年以降の研究で、解析を条件を変えて行うと分岐年代がグレイらより遅くに想定されるとしてグレイらが設定する前提を批判した。Balterによれば、グレイらはギャレットらの研究を継承した解析に取り組み、再びアナトリア仮説を支持する結果を得たという[5]。
レンフルーは、1994年に亡くなったギンブタスを記念する2017年の講演の中で、自説との両立を示唆しながらも“Marija’s Kurgan hypothesis has been magnificently vindicated.(マリヤのクルガン仮説は見事に立証された)”と発言しクルガン仮説を認めた[37]。レンフルーの業績を称える2018年の記事では、言語年代学以外の立場からはアナトリア仮説は認められていないと指摘している[38]。
注釈
- ^ この語族に属しないヨーロッパの言語に、スペイン・バスク地方のバスク語。フィンランド語やハンガリー語などウラル語族のフィン・ウゴル語派に属する言語、ジョージア語などのコーカサス諸語などがある[4]。
- ^ イギリスでは、ジェームズ・ミルによる『英領インド史』によってインドや広くアジアの文化を文化と認めない、改良の対象である野蛮とする見方が方向づけられた。功利主義と結びついた見方は植民地経営に都合が良く、ジョーンズのような知印派は評価されなかったという背景が指摘されている[12]。
- ^ ヤングは新造語との断りを記していないという[3]。また、これがイギリス以外に広まるのに20年ほどかかり、1836年にフランス語訳indo-européenが現れる[17]。
- ^ 後者については、タマズ・ガムクレリッゼとヴャチェスラフ・イヴァノフが1973年の著作で印欧祖語にライオンやヒョウの語彙が含まれると主張している[29]。
- ^ 比較言語学において、語の前のアステリスク*はそれが再建または推定された語形であることを意味する。アンソニー上, p.29、宇賀治2000, p.4. ポズナー1982, p.50など
- ^ A.Lehmanは、前アナトリア語が分岐したのちに印欧祖語に起こった変化を2001年の論文において10種類提示している[51]。
- ^ 伊藤は紀元前240年から紀元前81年までの文語ラテン語を「古代ラテン語」としている[58]。
- ^ 論者によって俗ラテン語の定義が異なるが、いずれにせよ一定の輪郭を持つことがポズナー二章で論じられている。
- ^ ポーランドは10世紀後半のピャスト朝で西方教会キリスト教を受容していて影響が及ばなかった。クロアチアはハンガリーの支配下におかれたため西方教会キリスト教に従い影響が及ばなかった[104]。
- ^ ただし、キエフ・ルーシにおいては11世紀初頭の時点で古代教会スラヴ語と現地スラヴ語との混交が起こっており、古代ロシア文語と見なされるという[105]。
- ^ ブルガリア語とマケドニア語は格変化を失っている[109]。
- ^ ブルガリア語には伝聞法があり、トルコ語に由来するとされる[112]。
- ^ ロシア語は現在時制完了体を用いない[113]。スロヴェニア語を除く南語群とブルガリア語がアオリストを残す[114]。
- ^ 「多神教信仰者(ヴェーダの宗教)の地」をカーフィルスタンと呼んだが、イスラーム受容に伴い差別的な意味となった。現在ではヌーリスターン語派と呼ぶ。
- ^ 独特な字形から中性ペルシア文字やアラム文字の影響などの推測がなされた。現在では、ギリシアの影響を隠すために意図的な創作がなされたものだと考えられている[118]。
- ^ 生物の性を区別するあり方としては、Աքաղաղ雄鶏/Հաւ雌鶏, Եղբայր兄弟/քոյր姉妹など単語から異なっている例、動物の名詞に雌や女を表すէգやմատակを添加する例(առիւծ:ライオン、էգ առիւծ または մատակ առիւծ:雌ライオン など)、人間の属性を表す語に女性形語尾 -ուհի をつける例(Երգիչ:歌手、Երգչուհի:女性歌手)がある。[124]。
出典
- ^ a b 風間喜代三「インド・ヨーロッパ語族」平凡社『世界大百科事典 3』2009年改訂新版.
- ^ 風間喜代三「インド・ヨーロッパ語族」p.849-851. 小学館『日本大百科全書 2』1985.
- ^ a b c Joshua Whatmough, 竹内公誠訳「インド=ヨーロッパ語族」p.502-504. TBSブリタニカ『ブリタニカ国際大百科事典 2』第3版, 1995.
- ^ レンフルー 1993, pp. 90–92.
- ^ a b c d e f Michael Balter, 日経サイエンス編集部 訳「言語学バトル 印欧語族の起源をめぐって」『日経サイエンス』2016年9月号、pp.84-90.
- ^ (pdf) Languages for the future: which languages the UK needs most and why ?. (2013). p. 7. ISBN 978-0-86355-722-4
- ^ 風間1978, p.1-12. 序章「言語の親族関係」
- ^ 吉田2005, p.1-7. 第1章「比較言語学の基本原理」
- ^ a b 田中利光「ウィリアム・ジョーンズと印欧語族の認識」『言語研究』第93巻、日本言語学会、1988年、 61-80頁、 NAID 110000425376。
- ^ アンソニー『馬・車輪・言語(上)』、p.18-20。
- ^ 第一章「類似の発見」風間1978, p.13-31.
- ^ 長田 2002, pp. 39–41.
- ^ a b 風間1978, p.33-42. 第二章「比較文法の誕生」.
- ^ a b 風間1978, p.75-119. 第四章「言語は変化する」
- ^ 風間1978, p.121-158. 第五章「印欧祖語の再建」.
- ^ 松本2006, p.27-33.
- ^ a b c 風間1978, p.43-73. 第三章「印欧語の世界」
- ^ 風間1993, p.11.
- ^ 風間1993 p.7-8。
- ^ 風間1978, p.121-158. 第六章「印欧祖語の再建」
- ^ 風間1993, p.26-27.
- ^ a b 松本2006, p.36-38.
- ^ アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.20-21.
- ^ 風間1993, p.26-98
- ^ a b 松本2006, p.22-23.
- ^ 風間1993, p.29-30.
- ^ 風間1993, p.32.
- ^ マルティネ2003、p.301-302
- ^ アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.146-147.
- ^ a b c d e アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.18-26.
- ^ a b c 大田2013, pp.79-104.
- ^ 長田 2002, pp. 136–166.
- ^ レンフルー1993, p.25.
- ^ 吉田2005, p.60-61.
- ^ 澤畑塁 (2018年5月30日). “『馬・車輪・言語』 ステップを駆けたライダーたちがこの世界にもたらしたもの”. HONZ. HONZエンタープライズ. 2021年10月20日閲覧。
- ^ 池内了 (2018年8月26日). “「文明はどこで誕生したのか」への解答”. 文春オンライン. 文藝春秋. 2021年10月20日閲覧。
- ^ Carol P. Christ (2017年12月11日). “Marija Gimbutas Triumphant: Colin Renfrew Concedes by Carol P. Christ”. feminismandreligion.com. 2021年10月26日閲覧。
- ^ Lucas Brandão (2018年8月6日). “A arqueologia antropológica de Colin Renfrew”. Comunidade Cultura e Arte. 2021年10月26日閲覧。
- ^ Beekes 1995, p. 137.
- ^ 松本 2006, pp. 37–38.
- ^ 宇賀治 2000, pp. 6–7.
- ^ a b 吉田 1996, pp. 112–115.
- ^ 清水 2012, pp. 54–57.
- ^ 吉田 2005, pp. 56–60.
- ^ Beekes 1995, pp. 134–135.
- ^ 高津 1954, pp. 77–78.
- ^ アンソニー 2018a, pp. 27–28.
- ^ a b c d アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.72-79.
- ^ 大城・吉田1990、 p.1
- ^ Melchert (1995) p.2152.
- ^ アンソニー『馬・車輪・言語(上)』2018, p.78.
- ^ a b c d e f 直野敦「アルバニア語」 亀井ら, 1998, p.26-34.
- ^ a b c 直野1989, p.196.
- ^ a b c d e f g h 中山「ラテン語」p.458-476. 亀井ら, 1998.
- ^ 伊藤1994, p.39.
- ^ 風間1998, p.23.
- ^ a b 伊藤1994, p.34.
- ^ 伊藤 1994, pp. 42–43.
- ^ 伊藤 1994, pp. 43–44.
- ^ 伊藤 1994, p. 45.
- ^ 伊藤 1994, p. 47.
- ^ 伊藤1994, p.50.
- ^ 伊藤1994, p.45.
- ^ ポズナー1982, p.78-88.
- ^ ポズナー1982, p.88-99.
- ^ ポズナー1982, p.62.
- ^ 伊藤1994, p.46.
- ^ ポズナー1982, p.145-149.
- ^ ポズナー1982, p.149-151.
- ^ ポズナー1982, p.151-154.
- ^ ポズナー1982, p.160-162.
- ^ ポズナー1982, p.166-179.
- ^ ポズナー1982, p.186.
- ^ 風間1998, p.34-37.
- ^ Scandinavian languages
- ^ 清水誠「ゲルマン語の歴史と構造(1): 歴史言語学と比較方法」『北海道大学文学研究科紀要 131』、2010年
- ^ 清水 2012, pp. 4–5.
- ^ a b 河崎 2006, pp. 92–93.
- ^ 清水 2012, pp. 5–6.
- ^ 清水 2012, p. 6.
- ^ 清水 2012, pp. 7–11.
- ^ 清水 2012, pp. 13–18.
- ^ 河崎 2006, pp. 104–105.
- ^ 清水 2012, pp. 18–20.
- ^ 清水 2012, pp. 20–26.
- ^ 清水 2012, pp. 26–29.
- ^ 清水 2012, pp. 29–43.
- ^ 清水 2012, pp. 43–53.
- ^ 清水 2012, pp. 84–87.
- ^ 清水 2012, pp. 87–92.
- ^ 桜井 1998.
- ^ 山本 1998a.
- ^ 山本 1998b.
- ^ 山本 1998c.
- ^ a b 清水 2012, pp. 80–84.
- ^ 河崎 2006, pp. 125–127.
- ^ 河崎 2006, pp. 70–82.
- ^ 服部 2020, p. 172.
- ^ 服部 2020, pp. 170–171.
- ^ a b 服部 2020, pp. 37–43.
- ^ 三谷 2016, pp. 24–25.
- ^ 服部 2020, pp. 83–87.
- ^ 三谷 2016, pp. 20–21.
- ^ 服部 2020, pp. 119–122.
- ^ 服部 2020, pp. 114–124.
- ^ 服部 2020, pp. 174–175.
- ^ 服部 2020, pp. 176–184.
- ^ 三谷 2016, pp. 66–69.
- ^ 三谷 2016, pp. 72–77.
- ^ 三谷 2016, pp. 78–79.
- ^ 三谷 2016, pp. 82–83.
- ^ 三谷 2016, pp. 112–115.
- ^ 三谷 2016, pp. 124–133.
- ^ 三谷 2016, pp. 138–139.
- ^ 服部 2020, pp. 192–202.
- ^ 千種 2001, p. 2.
- ^ 佐藤 1988, p. 4.
- ^ 千種 2001, pp. 10–14.
- ^ a b 岸田泰浩「現代アルメニア語はどのような言語か -その地域的特徴-」 (pdf) 『Contribution to the Studies of Eurasian Languages』第20巻、ユーラシア言語研究コンソーシアム、2018年3月、 227-280頁、 ISBN 978-4-903875-23-1。
- ^ 佐藤 1988, p. 31.
- ^ 佐藤 1988, pp. 32–33.
- ^ 佐藤 1988, pp. 56–70.
- ^ 佐藤 1988, p. 36.
- ^ 佐藤 1988, pp. 161–165.
- ^ 佐藤 1988, p. 37.
- ^ 千種 2001, p. 9, 18-19.
- ^ 佐藤 1988, p. 56.
- ^ 千種 2001, p. 9.
- ^ 佐藤 1988, pp. 167.
- ^ a b Gray, R.D.; Atkinson, Q.D. (2003), “Language-tree divergence times support the Anatolian theory of Indo-European origin”, Nature 426: 435–9
- ^ T. Zerjal et al, The use of Y-chromosomal DNA variation to investigate population history: recent male spread in Asia and Europe, in S.S. Papiha, R. Deka and R. Chakraborty (eds.), Genomic Diversity: applications in human population genetics (1999), pp. 91–101.
- ^ L. Quintana-Murci et al., Y-Chromosome lineages trace diffusion of people and languages in Southwestern Asia, American Journal of Human Genetics vol. 68 (2001), pp.537–542.
- ^ eupedia.com/genetics
- ^ Eupedia
- ^ Allan Bomhard (2019) "The Origins of Proto-Indo-European: The Caucasian Substrate Hypothesis" Journal of Indo-European Studies, The 47(Number 1 & 2, Spring/Summer 2019):9-124
- 1 インド・ヨーロッパ語族とは
- 2 インド・ヨーロッパ語族の概要
- 3 印欧語族の歴史
- 4 語派
- 5 系統の試み
- 6 他の語族との関係
- 7 外部リンク
- インド・ヨーロッパ語族のページへのリンク