運用・廃車
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「みやび (鉄道車両)」の記事における「運用・廃車」の解説
改造後は宮原客車区(後の西日本旅客鉄道〈JR西日本〉宮原総合運転所、現・JR西日本網干総合車両所宮原支所)に配置され、1986年4月1日より運行を開始したが、当初は一部車両の改造が間に合わず、6号車を欠車とした6両編成での運行となった。改造が遅れていた6号車については、同年4月20日より編成に組み込まれ、その後は7両編成で運行されるようになった。 しかし、1986年12月28日、団体客(国鉄福知山鉄道管理局〈現・JR西日本福知山支社〉の職員)を香住駅で降車させた後に浜坂駅へ回送中、余部橋梁上で日本海からの強風にあおられ、7両全てが鉄橋から転落し大破、1987年2月10日付で廃車となった。運行開始後わずか9ヶ月弱、272日目の事故だった。 結果的に、運行開始した車両がその年度内に廃車となる極めて稀なケースとなった。 鉄道友の会では毎年優秀な車両を表彰する制度としてブルーリボン賞・ローレル賞を制定しており、第30回ブルーリボン賞・第27回ローレル賞の選考にあたっては、1986年に運行開始した車両を候補車両として選定することから、本車両も候補車両に選定された。しかし、投票時点で既に廃車となっていたことから、候補車両であるにもかかわらず投票対象外とされた。これは、鉄道友の会がブルーリボン賞・ローレル賞を制定して以来、初めての出来事であった。
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運用・廃車
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「伊勢電気鉄道デハ121形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
同車は当初より各停、区間用として伊勢電気鉄道本線において使用されその後も養老線、伊勢線を中心にク5421形などと2両編成を組み使用されていた。1959年の名古屋線改軌直前にはクニ5421形(2代)や制御車代用として使用されていたモ6241形モ6241ととも編成を組み神戸線(現・鈴鹿線)でも使用された。名古屋線の改軌において本形式は対象外となったことから、同じく対象外となった(デハニ111形→)モ5111形やク5411形と伊勢線において廃線となるまで使用された。廃線後は養老線に転属し、1970年11月にモ5121が、1971年2月にモ5122が廃車となり形式消滅した。
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運用・廃車
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「伊勢電気鉄道デハニ131形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
伊勢電気鉄道本線において運用され、合併後も名古屋線系統で使用された。当初は単行運転だったがクニ5431が入ってからは同車と編成を組んでいた。1959年の名古屋線改軌では対象外となり養老線に転属、1974年に廃車となっている。
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運用・廃車
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「伊勢電気鉄道デハニ101形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
両形式とも伊勢電気鉄道本線において運用され、合併後も名古屋線系統で使用された。モニ5101形は当初単行運転であったが、1943年に吉野線から転じたク5421形と2両編成を組んでいる。モニ5101形・モ5111形とも1959年の名古屋線改軌では標準軌化の対象外とされ、モニ5101形は養老線に転属、モ5111形は狭軌のままで残った伊勢線において使用された。その後伊勢線の廃止に伴いモ5111形も養老線に転属となった。そして両形式とも養老線のATS導入に伴い、1970年11月モニ5101・5103 - 5105・モ5112、12月にモニ5102、1971年4月にモ5111、10月にモニ5106が廃車となり形式消滅した。
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運用・廃車
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「大阪鉄道デロ20形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
製造時より南大阪線系統で使用されていたが、モ5623については1943 - 1948年まで名古屋営業局にて使用されている。1960年にクニ5421形を南大阪線特急「かもしか」号として使用するためモ5621 - 5624の電装品が転用されることとなり、この4両は廃車となった。4両の車体は1961年に高松琴平電気鉄道に譲渡され同社の20形となっている。一方、モ5625 - 5627は終始南大阪線系統で使用され晩年は主に手荷物列車用となり、1969年に廃車となっている。
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運用・廃車
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「大阪鉄道デハ100形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
製造時より南大阪線系統で使用されていたが、デハ104・114は1929年の衝突事故により大破したことから、1935年に廃車となった。モ5651形に形式変更された後の1948年にはモ5652が古市検車区で車体を焼損し、同年11月付で廃車となっている。1966年10月にはモ5651・5663の2両が養老線に転属した。その後1970年の養老線のATS導入の際にモ5659 - 5662が養老線に転属となり、先に転属していた2両についてはモ5651が1970年、モ5663は1971年に廃車となった。一方、モ5653 - 5658については終始南大阪線系統で使用された後、1971年11月に廃車となっている。養老線に転属したモ5659 - 5662も養老線車両の近代化に伴い、6421系・6431系などに置き換えられ1979年 - 1980年1月に廃車となった。
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運用・廃車
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「近鉄モ2000形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
本系列は大阪線の区間車として主に上本町 - 河内国分間の各停を中心に運用されモ2000形2両とク1550形1両でMcTcMcの3両編成を組んで使用された。ク1550形はそれ以外にもモ1000形 - モ1300形の制御車としても使用されている。その後本系列は2410系等の新型車両の増備に加え、老朽化も追い打ちとなり、1973年に全車が退役した。
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運用・廃車
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「奈良電気鉄道デトボ360形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
製造当初から保線作業用などに使用され近畿日本鉄道との合併に伴う形式称号の変更においてはモト70形と改番されている。 デトボ360形デトボ361 → モト70形71 また時期は不明ながら1969年時点では扶桑金属工業KS-33Lに交換されており、前照灯も妻面屋根上に移されている。 1969年9月の1500V昇圧では600V用として使用されていた電動貨車としては唯一昇圧の対象となり、制御器を三菱電機製のAB-194-15Hに交換した上で継続使用された。その際、床下に搭載しきれなかった1500V用機器の一部は作業員控室の座席を撤去、片側の窓をつぶして設置されている。また反対側の乗務員室後ろにも対応機器用の収納箱が設置された。その後車体下のあおり戸よけについては撤去された。1976年に廃車となっている。
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運用・廃車
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「大阪電気軌道デボ201形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
奈良線系統で使用されたが、桜井線(現:大阪線)昇圧前にはそちらにも入っていたことも確認されている。自動加速タイプであったことから戦前に急行列車で用いられることはあまりなかったという。戦後の1948年には花園事故が発生したことから、木造車であった本形式は生駒トンネルの通過が禁止され、鋼体化まで橿原線などを中心に使用されている。 モ460形として鋼体化された車両は、いずれも老朽化や機器が昇圧非対応であることや性能が低いことから、1969年9月21日の昇圧時に全車廃車された。 博多湾鉄道汽船に譲渡されコハフ1形となった車両はいずれも西鉄への合併前後に電動車化され、コハフ2・3・4→西鉄モ16・17・13となり、1961年から1962年にかけて全車鋼体化され車体が廃棄されたのち、1978年から1981年にかけて廃車されている(詳細は博多湾鉄道汽船コハフ1形客車を参照)。
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運用・廃車
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「大阪電気軌道デボ301形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
当初より奈良線系統で使用された。デボ308・311・312については1937年にお召車として使用されている。運転日は11月11日であり、運転区間は神武御陵前(現:畝傍御陵前) - 天理と二階堂 - 上本町であった。この時は308+312+311で組成され、312が御料車として利用された。 モ105については事故により1947年に廃車、モ305・306の2両は花園事故により1948年に廃車となった。 1966年に生駒線用となった405・406・409 - 419については、単行または2両編成を組み使用されていた。 1969年の昇圧時には、モ403・407・409 - 411・413・416の7両が廃車となった。 昇圧後は400系が生駒線・田原本線で、600系が京都線・橿原線・天理線にて使用されたが、600系になったク550形・モ650形が1971 - 1975年に、400系になったク300形は1976年に廃車となった。
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運用・廃車
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「関西急行鉄道モ651形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
奈良線系統で使用され、戦後の1946年12月にはモ651とモ655が連合軍専用車に指定された。その後この2両についてはモ651が1949年10月に指定解除、モ655についてもモ455に改番後の1952年3月に指定解除となっている。1969年の昇圧時には荷物電車となっていたモ665が廃車となり、玉川工場の入換車(2号車)に転用された。新400系・600系となった後は400系が生駒線・田原本線で、600系は京都線・橿原線・天理線で主に使用されていた。その後600系となったク518が1972年に、ク516が1973年に廃車となった。400系となった2両も1976年に廃車となった。一方、入換車として使用されたモ665はその後も車籍こそないものの残存し、1982年の五位堂研修車庫の完成後は同車庫に移動した。1990年にはブレーキのHSC化を行い橿原神宮前の台車振替場に移動している。その後1997年に解体された。
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運用・廃車
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「大阪電気軌道デボ600形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
本形式は奈良線系統において使用され、1955年に800系が登場するまで長らく同線の主力となっていた。新400系・600系となった後は400系が生駒線・田原本線で、600系は京都線・橿原線・天理線で主に使用されていた。その後400系が1975年から1977年にかけて、600系が1971年から1976年にかけて廃車となり消滅している。
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運用・廃車
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 14:16 UTC 版)
奈良線系統で使用されており、前述のように貸し出されて大和鉄道や京都線でも使用されていた。 1969年9月21日に奈良線系統は架線電圧を従来の600Vから1500Vに昇圧したが、性能上劣り老朽化していた本形式は昇圧対象外となり全車廃車となっている。
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運用・廃車
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「東急デハ200形電車」の記事における「運用・廃車」の解説
本形式は竣工後に玉川線で運用を開始し、書籍などでは利用者から「ペコちゃん」(不二家のマスコットキャラクターに由来)のあだ名を付けられたとされる。個性的なやや下膨れで丸みの強い車体形状と緑を主体としたカラーリング、車外から見る本形式のローリングの強い走行の様子などから「イモムシ」や「イモ電 (イモムシ玉電の略) 」などのあだ名もあったという。 自動扉や扇風機の設置が満足に行われず、そればかりか大正以来のオープンデッキ構造の木造車さえ未だ存在していた1950年代中盤の玉川線に、自動扉完備かつ強力な送風能力を備えるファンデリアを装備して投入された本形式の接客設備は乗客に強い印象を与え、特に後者は夏場に好評だったとされる。沿線の子供達からの人気も高く、二子玉川園に開設されていたプールの利用者を対象とした「プールゆき」臨時電車には専ら本形式が充当された。この臨時電車は渋谷-二子玉川園間で水着姿の子供をかたどり「プールゆき」と記した専用ヘッドマークと「直通」の列車種別表示板を掲げて運用された(途中数駅のみの停車)。乗車券のほかに入場券も必要だったが、必ずデハ200に乗れるということも相まって、大好評を博していたと言われている。 2車体連結(連接)車ということもあり、1967年に合理化の一環として「連結2人のり」改造を施工したが、使用期間が短かったこともあって、他に大きな改造は施工していない。 詳細は「東急デハ70形電車#参考:連結2人のり」を参照 玉川線系統ではその後も、3扉車、それもラッシュ時のみ車掌や駅員が主要駅に限って1段しかステップのない中央扉の解錠・開閉操作を行うという独特の運行形態が取られた。そのような事情もあって、3扉全てを2段ステップ付きとしなおかつ自動扉化したデハ150形の投入まで、玉川線では自動扉装備車は本形式6両とデハ80形81・82の2両のみという状況が長く続いた。玉川線で在来車の自動扉化が促進されるのは「連結2人のり」改造工事開始以降のこととなる。 こうして華々しいデビューを飾って玉川線の看板電車となった本形式であるが、以下のように運転・保守面等で様々な問題を抱えており、故障も少なからず発生していた。 玉川線の他車がHL(単位スイッチ式間接非自動制御)、SME(非常弁付直通空気制動 )に統一されていた中で、電動カム軸式間接自動制御、HSC電磁直通ブレーキであり、運転取り扱いが全く異なった。特に発進時はパイロットモーターによってカムが回転しスイッチが接触してから動き出すため、応答性向上のための努力は払われていたものの、挙動がHL車よりワンテンポ遅れる傾向があった。爆発的に増加した自動車に進路を阻まれる状況では、こうした先進的高性能も不利に働くことも多かった。 前述の制御・制動方式の差異のほか、しばしば動作不良を起こすドアステップ、屋上に搭載した抵抗器(パンタグラフ 周り以外の機器に屋上点検を要する)、低床かつ機器をボディマウント構造としたことからピット線に入れなければ検査困難で、しかも高密度かつ複雑に艤装されているため故障時の部品交換等に多大な手間を要する床下機器など、他車と著しく構造が異なることから保守に手間がかかっていた。 1軸連接台車が途中駅・終端駅等の折り返しスプリングポイントで横に引っ張られ、最前部、最後部に大きな反動が発生するだけでなく、まれに脱線するなどのトラブルもあった。 ローリングが非常に激しく乗り心地が悪い。乗客の中にはこの点を嫌って本形式を敬遠する者もいた。 扉位置が他形式とは全く異なっていたことからラッシュ時の運用に難があってその後は増備されず、その頃既に高速鉄道化計画が存在したことから、玉川線としての増備車は車体レイアウトやシステム的にデハ80形以前の延長といえるデハ150形となった。 本形式については渋谷 - 二子玉川園間の廃止後も存続が決定された三軒茶屋-下高井戸間(新たに世田谷線と命名された)にも入線可能で、実際にも同区間での運用実績があったが、特殊な車体構造で機器の保守に手間がかかること(そのため末期は稼働率が低下していたとされる)、扉位置が他形式とは全く異なり、整列乗車の点で問題があったことなどから廃車が決定された。 玉川線廃止直前の1969年1月から運用離脱および除籍が開始され、同年5月10日玉川線廃止時の最終電車に使用された車両を最後に、他社に譲渡されることもないまま、製造からわずか14年で全車両が廃車となっている。
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