称光天皇
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称光天皇(しょうこうてんのう、旧字体:稱󠄁光天皇、応永8年3月29日〈1401年5月12日[1]〉- 正長元年7月20日〈1428年8月30日〉)は、日本の第101代天皇[注釈 1](在位:応永19年8月29日〈1412年10月5日〉- 正長元年7月20日〈1428年8月30日〉)。諱は躬仁(みひと)、のち実仁(みひと、旧字体:實仁)。
注釈
- ^ 明治時代まで一般的であった『本朝皇胤紹運録』(称光の在位中に、後小松上皇の命で編纂された)による天皇代数では、称光天皇は102代天皇[2]。
- ^ 当時の公家の日記には「禁裏御不予」(天皇の病気)の記載が多く見られる。
- ^ 天皇が琵琶法師を内裏に招いて平家物語を聞こうとしたのであるが、上皇が天皇の行為を前例がないと反対した事から始まり、天皇も上皇が仙洞で先例が無いことをたびたび行ない、下劣な身分を昇殿させていると反論し、「院中において先例なき題目(事柄)はことごとく停止せらるべきなり」と使者の万里小路時房を怒鳴りつけ、さらに「帝位についているが、一事も院(上皇)の御心に叶わず、ことに禁中が窮迫して致し方ない上は、在位に全く執心しません。国の事はしかるべき様に御計らい下さい。我が身においては、天皇の位を辞し申します」と書面を上皇に送付した(『薩戒記』)。
- ^ 天皇が重篤から回復した後、天皇に貞成が呪詛した事が病気の原因であると讒訴した者があり、これが原因で天皇と貞成が対立したためともされる。なお、讒言した者は南朝・大覚寺統関係者でのちに処罰された(『看聞日記』)。
- ^ 御葬送路のため五条河原に浮き橋を渡すと云々、これ入道内相府(義持)の命と云々。
出典
- ^ a b c d e 伊藤 2008, p. 59.
- ^ 片山杜秀『尊皇攘夷―水戸学の四百年』2021、p.197。
- ^ 伊藤 2008, p. 24.
- ^ a b c d e 吉田 2017, p. 220.
- ^ a b c 伊藤 2008, p. 168.
- ^ 吉田 2017, p. 221.
- ^ a b c 伊藤 2008, p. 169.
- ^ 伊藤 2008, pp. 170–171.
- ^ a b 吉田 2017, p. 248.
- ^ 伊藤 2008, p. 177.
- ^ 吉田 2017, p. 249.
- ^ 伊藤 2008, p. 171.
- ^ a b c 伊藤 2008, p. 172.
- ^ a b 伊藤 2008, p. 173.
- ^ 伊藤 2008, p. 174.
- ^ a b 吉田 2017, pp. 248–249.
- ^ 「後花園天皇」『朝日日本歴史人物事典』
- ^ 伊藤 2008, p. 167.
- ^ 秦野裕介『乱世の天皇』2020,p.131
- ^ 秦野裕介『乱世の天皇』2020,p.132
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