国および地域別の犠牲者
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「第一次世界大戦の犠牲者」の記事における「国および地域別の犠牲者」の解説
^a東アフリカにおける戦闘(東アフリカ戦線 (第一次世界大戦)(英語版))によって、多くの民間人犠牲者を生んだ。"Oxford History of World War One" では「東アフリカおよび中央アフリカにおける戦争の残酷性は、所によって飢餓を伴った深刻な食糧不足、人口の衰退、数十万の人命や家畜を奪った流行病という結果として表れた」という記述がある。第一次世界大戦下のアフリカにおける民間人犠牲者の推計は以下の通り。 ケニア:3万人タンザニア:10万人モザンビーク:5万人ルワンダ:1万5000人ブルンジ:2万人ベルギー領コンゴ:15万人 イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガルにおける戦闘員の戦死者の報告には、各国の軍務に従事したアフリカ人兵士の犠牲者も含まれている。詳細については各国の脚注を参照。 ^bオーストラリアにおける犠牲者は、作戦行動中における死亡者および行方不明者合わせて約5万4000人である。オーストラリア人犠牲者に関する情報源であるコモンウェルス戦争墓地委員会による2009年度から2010年度の年次報告書は、犠牲者数は6万1966人であると報告している。ウェストミンスター寺院に保管されている「民間人犠牲者人簿 (Debt of Honour Register)」には、2つの世界大戦において、イギリス連邦各国の軍隊における戦没者約170万人の人前が記されている。1922年度における陸軍省 (イギリス)による報告書には、5万9330人の戦死者が記録されている。 ^cベルギーにおける犠牲者は、作戦行動中に死亡または行方不明、戦傷による死亡者を合わせて、少なくとも3万5000人である。ベルギー政府公式資料に掲載されているヨーロッパにおける戦闘員の犠牲者の数値は、ヨーロッパ方面における犠牲者合計:4万0367人(戦死、事故死、戦傷による死亡者:2万6338人、病死、行方不明者:1万4029人)、アフリカ戦線における犠牲者合計:1万8270人(アフリカ方面における戦死者:2620人、荷役労働者における死亡者:1万5560人)であり、ヨーロッパおよびアフリカにおける戦没者合計:5万8637人とされている。1922年度におけるイギリス陸軍省が公表した別の資料による推計では、1918年11月までの数値として、戦死者1万3716人および行方不明者2万4456人という数値がある。なお、イギリス陸軍省発表の数値は概算によるものであり、記録は不完全であるとされている。アメリカ合衆国旧陸軍省 (United States Department of War) は、1924年に、ベルギーにおける犠牲者数として1万3716人の戦没者を推計している。ベルギーにおける民間人戦没者は、第一次世界大戦前の人口統計値と比較した場合、約9万2000人(栄養失調を原因とする犠牲者:約6万2000人、スペインかぜによる犠牲者:約3万人)が亡くなったとされている。ジョン・ホーン博士による推計では、ベルギーおよびフランスの民間人合わせて約6500人がドイツ軍による報復行為によって亡くなったとされている。 ^dカナダにおける犠牲者は、作戦行動中に死亡または行方不明、戦傷による死亡者として、少なくとも約5万3000人と考えられている。コモンウェルス戦争墓地委員会の2009年度から2010年度の年次報告書に記載された数値では、戦死者数として6万4976人が記録されている。この数値には、ロイヤル・ニューファンドランド連隊(英語版)における1297人の戦死者が含まれている。"Canadian Virtual War Memorial"のサイトでは、カナダ軍兵士およびニューファンドランド軍兵士の戦死者が埋葬された墓地や記念施設に関する情報を一覧することができる。ニューファンドランドにおける戦没者は本項目における表では独立して記載されているが、これは大戦当時においてニューファンドランドがカナダに編入されていなかったためである。しかし、上述のサイトではカナダにおける戦没者として含まれている。1922年に公表されたイギリス陸軍省の資料では、5万6639人の戦死者が記録されている。記録されている民間人戦没者はハリファックス大爆発によるものである。 ^eフランスにおける犠牲者は少なくとも118万6000人(作戦行動中に戦死、行方不明または戦傷による死亡者)とされる。1931年にカーネギー国際平和財団によって出版された研究資料によると、戦闘員における犠牲者数は139万7800人と試算されている。犠牲者数の合計値には7万1100人のフランス植民地軍兵士、4600人の外国人、2万8600人の戦争を原因とする戦没者(1918年11月11日から1919年6月1日)が含まれている。1922年に出版されたイギリス陸軍省公式資料による試算では、フランスにおける犠牲者数は、戦死者および行方不明者合計:138万5300人(内、植民地軍兵士5万8000人)。年に公表されたアメリカ合衆国旧陸軍省による試算では、フランスにおける犠牲者数は135万7800人とされている。第一次世界大戦中フランスのために戦い、亡くなった兵士の人前のリストが、フランス政府によってオンライン上に掲載されている。フランス語百科事典のQuid (百科事典)(フランス語版)は、世界40か国から約3万から4万人の義勇兵がフランス軍に従軍したという記述をしている。終戦時には、1万2000人がチェコ軍団および青軍 (ポーランド)(英語版)に所属していたとされている。 また、外国人によるフランスの軍役への参加しているその他の例として、次に掲げられている。大戦中、5000人のイタリア人がフランス外人部隊に参加しており、また、スペイン人1000人、スイス人1500人が軍役に従事していた。上記のほかに、1914年から1916年にかけての2年間に、200人のアメリカ人義勇兵がフランス軍(ラファイエット飛行中隊(英語版)など)に従軍したという記録が存在している。大戦中、ルクセンブルク全土はドイツの占領下にあった。3700人のルクセンブルク国籍を有する市民がフランス軍に従軍し、その内75%に当たる2800人が大戦において亡くなった。犠牲となったルクセンブルク人義勇兵は、ルクセンブルクにある黄金の女性(英語版)像の下に追悼されている。アルメニア人志願兵から構成されるフレンチアルメニア人軍団(英語版)は、大戦中、フランス陸軍の一部隊として戦闘に参加している。 フランスにおける民間人戦没者数は約50万人と推計されており、その内、30万人が軍事作戦や食糧不足が死亡の原因とされ、残りの20万人はスペインかぜによるものとされている。第一次世界大戦中におけるフランスの民間人戦没者の推移を推計した別の資料によると、全民間人戦没者数は26万4000人から28万4000人と推計されている(スペインかぜによる死亡者は10万人から12万人と推計されており、前記の数値には含まれていない)。民間人戦没者数には1,509人の商船員戦没者、空襲および長距離砲撃による3,357人の戦没者が含まれている。フランス政府は第一次世界大戦の戦闘地域における民間人戦没者の推計値について公表しておらず、三次資料による民間人戦没者数の推計として、約4万人という推計値がある。 ^fギリシャにおける戦没者は、少なくとも約1万1000人(作戦行動中に死亡または行方不明、戦傷による死亡者)である。ソビエト連邦の人口統計学者であるボリス・ウルラニス (Boris Urlanis) は、ギリシャにおける戦死者は2万6000人(内、戦病死者1万5000人)と推計している。第一次世界大戦下のギリシャ軍の作戦史家である Jean Bujac は、戦闘による戦死者:8365人、行方不明者:3255人と推計している。ギリシャにおける戦没者に関する他の推計に関しては以下の通り。 戦死没者:5000人、戦時捕虜および行方不明者:1000人(1922年度におけるイギリス陸軍省公表資料より)戦死没者:5000人(1924年度におけるアメリカ合衆国旧陸軍省公表資料より) ギリシャの民間人戦没者(食糧不足およびスペインかぜを死因とする)は約15万人とされる。 ^gイギリス領インド帝国(現在のインド、パキスタン、バングラデシュを含む)における犠牲者(作戦行動中における死亡または行方不明、戦傷による死亡者)は、少なくとも約2万7000人である。コモンウェルス戦争墓地委員会の報告書では、戦死者の合計として7万4187人が記録されている。イギリス陸軍省が公表した報告書によると、英印軍の戦死者6万2056人、英印軍におけるイギリス人兵士の戦死者2393人が記録されている。 ^hイタリアにおける犠牲者は、少なくとも43万3000人(作戦行動中に戦死、行方不明または戦傷による死亡者)とされている。イタリア政府公式資料を基に、1925年にイェール大学出版局が公刊したイタリアの人口動態に関する研究資料によると、戦闘員65万1000人が戦死したとされている。また、同資料は、作戦行動中における死亡者または戦傷による死亡者:37万8000人、疾病死者:18万6000人、戦病死者:8万7000人(1918年11月12日から1920年4月30日までの期間において戦争に起因する疾病)と推計している。 イタリアにおける戦闘員の戦死者に関する他の推計資料は次の通り。 戦死者:46万人(1922年度におけるイギリス陸軍省公表資料より) 戦死者:65万人(1924年度におけるアメリカ合衆国旧陸軍省公表資料より) イタリアの民間人戦没者は約102万1000人とされ、内、58万9000人が食糧不足を死因とする者、残りの43万2000人はスペインかぜによるものとされる。第一次世界大戦中におけるイタリアの民間人戦没者に関する他の推計値として、32万4000人(スペインかぜによる死亡者30万人はこれに含まれず)という数値がある。軍事作戦を死因とする民間人戦没者は3,400人(航行中の船舶に対する攻撃によって亡くなった者:2,293人、空襲によって亡くなった者:958人、海上爆撃による死亡者:142人)である。 ^i 日本における第一次世界大戦の戦死者数は415人とされている。1924年に公表されたアメリカ合衆国旧陸軍省の資料では、日本の戦死者数は300人と報告している。しかし、マイケル・クロッドフェルターは公式の戦死者は300人であると報告し、「全ての死因を考慮に入れた日本軍の全戦死者に関してより信頼できる数は1344人である。」と言及している。 ^j 第一次世界大戦下のルクセンブルクは、ドイツ帝国の占領下にあった。ドイツの支配下にあったルクセンブルク人の中には、ドイツ軍の軍役のために徴集された人々がいるほか、連合国軍のために義勇兵として戦闘に参加した人々もいた31。フランス軍に義勇兵として参加したルクセンブルク人は約3700人が記録されており、そのうちの2000人が戦死したとされている。彼らはルクセンブルクにある黄金の女性像の下に追悼されている。 ^k モンテネグロの犠牲者数に関する試算として、約1万人(戦闘による戦死者:3000人、行方不明者および戦時捕虜:7000人)という推計がある。一方、ユーゴスラビア政府によって1924年に発表された試算値では、モンテネグロ王国の戦死者数として1万3325人とされている。1924年に公表されたアメリカ合衆国旧陸軍省の推計値は、戦死者は約3000人である。 ^l ニュージーランドにおける戦死者数は少なくとも1万4000人である。(作戦行動中における戦死、行方不明、戦病死者を含む)コモンウェルス戦争墓地委員会の年次報告書(2009年-2010年)では戦死者数1万8052人である。民間人戦没者名簿には二つの大戦の間に亡くなったコモンウェルス各国軍隊の構成員170万人の名前が記載されている。1922年度のイギリス陸軍省報告書にはニュージーランド軍の戦死者として1万6711人が記載されている。 ^m ニューファンドランドは大戦当時、独立したドミニオンでありカナダの一地方ではなかった。1922年度におけるイギリス陸軍省の報告では、戦死者1204人が記録されている。現在ではコモンウェルス戦争墓地委員会はニューファンドランドにおける犠牲者をカナダやイギリスのそれに含めている。ニューファンドランドで出版されたある学術誌によって同国における戦死者に関する詳細が判明している。それによると、全戦死者数は1570人であり、内、ロイヤル・ニューファンドランド連隊(英語版)における戦死者1297人、イギリス海軍における戦死者171人、商船隊(英語版)における戦死者101人である。 ^n ポルトガルにおける犠牲者は少なくとも6000人(作戦行動中に戦死、行方不明、戦傷死した者を含む)である。イギリス陸軍省資料による全体の犠牲者は7022人であり、1920年1月1日までに戦死その他の死因で亡くなった者が含まれている。地域別の内訳はフランス:1689人、アフリカ:5333人である。この数値には行方不明者および捕虜合わせて1万2318人は含まれていない。なお、アフリカ人犠牲者の数値は含まれている。アメリカ旧陸軍省が1924年に公表した、ポルトガルの犠牲者に関する推計では戦死没者7222人とされている。大戦以前と比較した民間人戦没者数は22万人であり、内、食糧不足によって亡くなった者は8万2000人、スペインかぜによる死者は13万8000人である。 ^o ルーマニアにおける犠牲者は少なくとも17万7000人(作戦行動中に戦死、行方不明、戦病死者を含む)である。上記の統計にある戦死者25万人の数値は、「国際労働機関 (ILO) が配布した質問紙への回答を基にルーマニア政府によって公表された数値」である。ルーマニア人犠牲者に関する他の推計については以下の通りである。 死者および行方不明者33万5706人(1922年のイギリス陸軍省資料) 死者および行方不明者33万5706人(1924年のアメリカ旧陸軍省資料)大戦以前と比べた民間人戦没者数は43万人(軍事行動、食料不足、伝染病、スペインかぜによる死者を含む)である。 2004年にロシア人ジャーナリストによって出版された20世紀における戦争犠牲者についてまとめた便覧によると、軍事行動によってルーマニア民間人12万人が死亡したほか、オーストリア=ハンガリーによって1万人が捕虜の待遇に置かれ、飢饉や疾病によって20万人が亡くなったとされる。 ^p ロシア帝国における犠牲者数の出典は、ソ連の人口統計学者ボリス・ウラニスによると「確認することが困難」であるとされている。犠牲者数は1925年にソヴィエト中央統計局によって作成された大戦期における公式資料に基づいており、それによるとロシア人犠牲者数は703万6087人(戦死者62万6440人、戦傷死者1万7174人、行方不明者および捕虜収容者363万8271人、戦傷者275万4202人)とされる。ウラニスは犠牲者に関する公式発表値は「記録の大部分が(軍の)退却の際に失われた」ために「かなり少なく見積もられている」と考察している。ウラニスは実際の戦死者の総数は181万1000人(作戦行動中に戦死または行方不明となった者:120万人、戦傷死者:24万人、ガス攻撃による戦死者:1万1000人、戦病死者:15万5000人、捕虜収容者における死者:19万人、事故その他の死因によって亡くなった者:1万5000人)と推計している。ロシア軍事史家のG.F.クリヴォシエフ (Кривошеев Г.Ф.) が2001年に発表した研究によるとロシア軍における戦死者は225万4369人(作戦行動中の戦死者:120万人、行方不明者および推定死亡者:43万9369人、戦傷死者:24万人、ガス攻撃による戦死者:1万1000人、戦病死者:15万5000人、捕虜収容者における死者:19万人、事故その他の死因によって亡くなった者:1万9000人)、戦傷者:374万9000人、捕虜収容者:238万4000人と推計している。ロシア人犠牲者に関する他の推計については以下の通りである。:戦死者170万人(1922年度イギリス陸軍省資料)戦死没者170万人(1924年度アメリカ旧陸軍省資料)大戦以前と比べた1914年度の国境に基づく民間人戦没者は150万人(飢餓、疾病、軍事作戦を死因とする)であり、ポーランドを含まない第一次世界大戦後の国境に基づく民間人戦没者は107万人(飢餓および疾病によって亡くなった者:73万人、軍事作戦によって亡くなった者:34万人)とされる。 ^q セルビア王国における犠牲者は少なくとも16万5000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷死した者を含む)とされる。ソ連の人口統計学者ボリス・ウラニスによって推計されたセルビア人とモンテネグロ人の戦死者を合算した数値は27万8000人である。セルビア人犠牲者に関する他の推計については以下の通りである。 戦死者36万5164人(1924年度のユーゴスラビア政府による試算) 死者および行方不明者4万5000人(1922年度イギリス陸軍省資料) 戦死没者4万5000人(1924年度アメリカ旧陸軍省資料) 大戦前と比べた民間人戦没者数は45万人(軍事作戦、食糧不足、伝染病、スペインかぜによって亡くなった者)とされる。2004年にロシア人ジャーナリストによって出版された20世紀における戦争犠牲者についてまとめた便覧によると、軍事行動によって亡くなったセルビア人民間人は12万人とされ、3万人がオーストリア=ハンガリーによって捕虜の待遇に置かれたとされる。 ^r 南アフリカにおける戦死者は少なくとも5000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷死した者)である。コモンウェルス戦争墓地委員会の年次報告書(2009年-2010年)は南アフリカ軍における全戦死者を9477人とする出典である。1922年のイギリス陸軍省の資料では戦死者は7121人となっている。 ^s イギリスと植民地における戦死者は少なくとも62万4000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦病死した者)である。コモンウェルス戦争墓地委員会の年次報告書(2009年-2010年)はイギリス軍(ニューファンドランドを含む)における戦死者を88万6939人とする出典である。民間人戦没者名簿には二つの大戦においてコモンウェルス各国軍において亡くなった男女170万人の名前が記載されている。なお、ニューファンドランドにおける犠牲者は本項における表に独立して掲載されている。 テリトリアルを含むイギリス軍における「最終的かつ訂正済みの」公式戦死者数は1921年3月10日に公表された。それによると1914年8月4日から1919年9月30日までの期間において、57万3507人が作戦行動中に戦死または戦傷によって亡くなり、25万4176人が行方不明となった。また、解放された捕虜は少なくとも15万4308人とされ、死者および行方不明者を合わせると67万3375人に上った。 1922年度に公表されたイギリス陸軍省の資料は正規軍およびテリトリアル、イギリス海軍において「命を失った兵士」や「作戦行動中に戦死、捕虜の待遇にあるうちに死亡、戦傷によって死亡および行方不明」となった犠牲者について詳述している。それによると、イギリス軍において70万2410人が犠牲となり、「その他の植民地」において507人が犠牲となり、英印軍では2393人が犠牲となったと記述されている。また、上記の数値にはイギリス海軍における戦死者3万2287人が含まれている。なお、商船隊(英語版)の戦死者1万4661人は当該資料とは別に記載されている。イギリス空軍における全戦死者数は陸軍省資料に含まれている。 大戦前と比べた民間人戦没者数は29万2000人(内、食糧不足によって亡くなった者:10万9000人、スペインかぜによる死者:18万3577人)である。 第一次大戦期のイギリスにおける民間人の人口統計学的損失に関する他の推計では、18万1000人(スペインかぜによる死者10万人を除く)としている。1922年度イギリス陸軍省資料ではイギリス人の民間人1260人が死亡し、空襲および海上爆撃によってイギリス軍関係者310人が戦死したとある。Uボートによる攻撃によってイギリスの民間人908人が死亡したほか、漁業関係者63人が死亡した。 ^tアメリカ合衆国における戦死者に関する公式な数値はアメリカ旧陸軍省によって作成された。1918年12月31日までの期間に11万6516人(戦闘による死者:5万3402人、戦闘以外の死因による死者:6万3114人)が記録されている。また、アメリカ沿岸警備隊では192人が犠牲となっている。アメリカ合衆国政府はルシタニア号における死者128人とアメリカ合衆国商船隊(英語版)の船員629人合わせて757人を民間人犠牲者として推計している。 ^u オーストリア=ハンガリーにおける犠牲者は少なくとも90万人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷によって死亡した者)である。オーストリア=ハンガリー軍における推定戦死者を110万人とする数値はオーストリア=ハンガリー帝国陸軍省の分析に基づき、1940年にカーネギー国際平和財団から公刊された研究資料に由来する。Other estimates of Austro-Hungarian casualties are as follows: By Austrian Ministry of Defense in 1938: Military dead 1,016,200オーストリア=ハンガリーにおける犠牲者に関する他の推計については以下の通り。 戦死者101万6200人(1938年のオーストリア国防省による) 死者120万人(1922年度イギリス陸軍省資料) 戦死没者120万人(1924年度アメリカ合衆国旧陸軍省資料) 1940年のカーネギー国際平和財団から発表された研究では「戦争を原因とする」民間人戦没者(主な死因は飢餓とする)を46万7000人と推計している。また、2004年にロシア人ジャーナリストによって出版された20世紀における戦争犠牲者についてまとめた便覧によると、オーストリア=ハンガリー帝国のガリツィアにおける軍事行動によって亡くなった民間人は12万人と推計している。 ^v ブルガリアにおける犠牲者は少なくとも6万2000人(作戦行動中に戦死または行方不明、戦傷によって死亡した者)である。ブルガリア陸軍省は全戦死者数は8万7500人(戦死:4万8917人、戦傷死:1万3198人、事故死:888人、戦病死:2万4497人)と推計しており、「退却中における疾病または物資の不足によって亡くなった人数はブルガリア政府が出した統計値よりもはるかに多かった」とされている。アメリカ合衆国旧陸軍省が1924年に出した資料ではブルガリアの戦死没者を8万7500人と記載している。大戦前と比べた民間人戦没者数は10万人(食糧不足に起因する)とされる。 ^wドイツ帝国の戦争犠牲者数は少なくとも179万6000人(作戦行動中における戦死、行方不明、または、戦傷による死亡者)である。ドイツ帝国の公式資料では戦没者数として203万6897人が記録されており、その中には全死因を集計した確認済戦死者数も含まれている。 陸軍における戦死者:190万876人、海軍における戦死者:3万4836人、植民地軍における戦死者:1185人、行方不明者および推定死亡者の推計値:10万人 なお、上記の数値にはアフリカ人徴集兵の戦死者:1万4000人が含まれていないため、その数値を考慮に入れる必要がある(戦没者合計:205万890人)。ドイツにおける犠牲者数に関するその他の推計値は以下の通り。 戦死者:180万8545人(アフリカ人徴集兵における戦死者:1万4000人はこれに含まれず)、民間人戦没者:720人(空襲を死因とする者)(1922年度におけるイギリス陸軍省公式資料より) 戦死没者:177万3700人(1924年度におけるアメリカ合衆国旧陸軍省公式資料より) ドイツ政府が公刊した民間人戦没者の統計資料によると、ドイツ封鎖によって76万3000人が栄養不良や疾病によって亡くなったと報告している。 この数値は後の研究によって疑問視されており、それによると封鎖による全体の死亡者は42万4000人とされている。1918年12月にドイツ政府は封鎖を原因とする民間人の死者は72万2796人(1918年に流行したスペインかぜによる死者は含まれていない)であると試算している。1918年の最後の6か月における死者数が試算されている。モーリス・パーメリー (Maurice Parmelle) は「戦前の死亡者数を上回る超過死亡者のすべてを封鎖が原因であるとすることは決して正確であるとはいえない」と主張しており、ドイツが公表した数値は「いくらか誇張されている」という見解をとっている。ドイツの主張は休戦条約の締結後の1918年11月から1919年6月までの間に連合国によるドイツ封鎖を解くためにドイツがプロパガンダを行っていた時期になされたものであった。また、1919年においてもドイツは自国の無制限潜水艦作戦に対抗するために行われた、封鎖という連合国の攻撃に反論するためその問題を取り上げていた1928年、カーネギー国際平和財団の後援の下に行われたドイツの学術的調査によって大戦期のドイツ国内における民間人戦没者の徹底的な分析が行われた。その調査によるとドイツ国内(アルザス=ロレーヌは含まれない)における1歳以上の戦争関連死者は42万4000人と推計された。著者は戦前の死亡率を上回る児童の死亡数は1917年から1918年にかけての食糧および燃料不足が主な要因であるとみなしている。またこの調査では1918年にスペインかぜで別に亡くなった者は20万9000人と推計している。1940年にカーネギー国際平和財団の後援の下、行われた研究ではドイツにおける民間人の全死亡者数は60万人以上であると推計した。上記の1928年に行われたドイツ国内の研究では、著者は「徹底的な調査により、戦争に起因する『民間人』死亡者数は42万4000人であり、なお、この数値にインフルエンザ流行による死者約20万人を付け加えなければならないという結果に至った。」と主張した。休戦条約締結後の1918年11月から1919年6月までの間に行われたドイツ封鎖の期間に別に亡くなった民間人76万3000人は数値には含まれていない。1919年4月に発表された記事においてマックス・ルブナー博士は休戦条約の締結後も行われたドイツ封鎖によって10万人のドイツ市民が死亡したと主張した。イギリスでは自由党に所属する反戦活動家ロバート・スミリー(英語版)は、1919年6月、10万人のドイツ市民が亡くなったと原因と主張した継続しているドイツ封鎖を非難する声明を出した ^x オスマン帝国における戦死者数はオスマン帝国の公文書の記述に基づくものであり、戦没者合計:77万1844人(内、作戦行動中における戦死者:24万3598人、行方不明者:6万1487人、病死者:46万6759人)、戦傷者76万3753人、および、戦時捕虜14万5104人とされる。その他のオスマン帝国における戦没者の推計資料としては下記が挙げられる。戦死者:5万人、戦傷による死亡者:3万5000人、戦病死者:24万人(イギリス戦争局公表資料 1922年度) 戦死没者合計:32万5000人(アメリカ旧陸軍省公表資料 1924年度)オスマン帝国における民間人の犠牲者数の推計は、200万人から215万人まで幅広い数値をとっている。民間人犠牲者の数値には、アルメニア人虐殺の犠牲者が含まれているが、この数値を戦没者統計に含めるべきかについては議論がある。アルメニア人の死亡者は一般的に、100万人から150万人であると考えられている。また、同時期において、アッシリア人虐殺(英語版)やギリシャ人虐殺(英語版)のように、オスマン帝国内の民族集団に対する殺害行為が行われた。一部の学者は、これらの事件を、先のアルメニア人虐殺などのオスマン帝国による民族根絶政策の一例として考察している。1914年から1922年までの8年間におけるオスマン帝国の犠牲者は、約500万人と考えられており、その中には、スペインかぜによって亡くなった者が含まれている。なお、トルコ革命 (1919年-1922年) およびギリシャとトルコの住民交換を原因とする人口の減少値は犠牲者の統計には含めていない。 ^yデンマークは第一次世界大戦において中立国であったが、現在のデンマーク、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の地域は、大戦中、ドイツ帝国の版図の一部であった。この地域からは約3万人がドイツ軍の軍役に従事し、そのうち約3900人が戦死した。この戦死者数はドイツの犠牲者数に合算されている。デンマークの犠牲者は商船員、漁業従事者における722人の戦没者であり、その多くはドイツ軍の潜水艦によって発射された魚雷による被害である。 ^zノルウェーとスウェーデンは第一次世界大戦中、中立国であり、交戦地域において船舶および商船の船員が犠牲となった。ノルウェーは戦争によって保有する商船の約50%を失っており、これは第一次大戦の国家の中で高い損失率を記録している。人的損失として、ノルウェー商船の船員の戦没者は1892人であり、大部分はドイツ海軍の潜水艦によって発射された魚雷による被害である。また、スウェーデン商船の船員の戦没者は877人であり、魚雷または船舶が機雷に触雷した被害が原因とされる。
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