ごじゅう‐の‐とう〔ゴヂユウ‐タフ〕【五重の塔】
ごじゅうのとう〔ゴヂユウのタフ〕【五重塔】
五重塔
五重塔
ごじゅうのとう (五重塔)
●南アフリカの南西部が原産です。透明な窓をもたない硬葉系のハオルチアで、濃緑色の地に白点がはいります。詳細な情報は見あたらず、種名も確定されていないようです。
●ユリ科ハオルチア属の常緑多年草で、学名は Haworthia sp.。英名はありません。
ハオルチア: | ハオルチア・ラインワルドティ ハオルチア・リミフォリア ハオルチア・レツーサ 五重塔 黒潮 |
ハナニラ: | 花韮 |
ハマオモト: | アフリカ浜木綿 |
五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/30 05:04 UTC 版)
五重塔(ごじゅうのとう)は、仏塔の形式の一つ。層塔と呼ばれる楼閣形式の仏塔のうち、五重の屋根を持つものを指す。下から地(基礎)、水(塔身)、火(笠)、風(請花)、空(宝珠)からなるもので、それぞれが5つの世界(五大思想)を示し、仏教的な宇宙観を表している。
- ^ 善宝寺ホームページ(文化財)
- ^ タウンニュース(2021年10月1日号)
- ^ 科学技術振興機構 サイエンスチャンネル(12)五重塔を揺らす(後編) ~1400年間倒れない秘密~
五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 01:51 UTC 版)
寛文7年(1667年)に完成した旧大円寺の塔で方3間、総高31.2メートル(相輪含む)である。津軽藩3代藩主津軽信義、4代津軽信政の寄進により、前後10年以上をかけて建立された。国の重要文化財指定の五重塔としては日本最北端に位置する。心柱は角柱で、初層天井から立つ。江戸時代建立の塔であるが古式を残し、軸部の逓減率 が高く、バランスの取れた優美な塔である。初層は正面のみを連子窓、他3面を丸窓とし、2層以上は窓や構造材の意匠に変化をもたせている。
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 10:10 UTC 版)
金堂の横にある。1996年(平成8年)10月10日に完成。胎蔵界の四菩薩が安置されている。39メートルの高さがあるため、東北本線の車内からでも、その姿をはっきりと見ることができる。観光客は通常入ることは出来ないが、上の階はやや天井が低く、姿勢を低くする必要がある。塔特有の、心柱が吊り下げられている様子を見ることが出来る。
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 08:46 UTC 版)
詳細は「羽黒山五重塔」を参照 「一の坂」(参道)の上り口にある。平将門の創建とされるもので、塔としては東北地方で最古とされ、昭和41年には国宝に指定されたが、現在みられるものは、15世紀のころに再建されたものである。 高さ - 29.0m。 建築方式 - 三間五層杮葺素木造。
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/03 21:15 UTC 版)
高さ31.8メートル。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立され、後に現在の位置へ移築された。全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、屋根は初層と二重は本瓦葺き、三重以上は銅板葺きとする(当初はすべて本瓦葺き)。建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。初層の各面は中央を桟唐戸、両脇間には格狭間(ごうざま)形の装飾を入れ、蟇股(かえるまた)には十二支の彫刻を入れる。1997年(平成9年)10月から2002年(平成14年)3月にかけて国庫補助事業として解体修理が行われた。基礎部分の石段からはホンモンジゴケというコケの一種が見つかっている。五重塔下付近、東京国立博物館蔵・池上本門寺経筒(藤原守道作)が出土している。
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:41 UTC 版)
国宝。大内文化の最高傑作といわれる。室町時代、嘉吉2年(1442年)頃の建立。屋外にある五重塔としては日本で10番目に古く、京都の醍醐寺・奈良の法隆寺のものとならび日本三名塔の一つに数えられることもある。 高さ 31.2m で屋根は檜皮葺。二層にのみ回縁(まわりえん)がついているのが特徴である。建築様式は和様であるが、回縁勾欄の逆蓮頭や円形須弥壇など一部に禅宗様(唐様)が採り入れられている。初重(1階)には日本の仏塔では唯一となる円型の須弥壇があり、僧形の大内義弘像と阿弥陀如来像を祀っている。夜間は年間を通して日没から22:00までライトアップされており、周囲に咲く季節の花々とともに美しく浮かび上がる。 大内義弘の亡骸は一旦堺で葬られた後に香積寺に改葬されたとされるが、その墳塋がこの塔であり、通常なら仏舎利が納められている五重塔の下に大内義弘の柩があるとの口伝がある。
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 13:54 UTC 版)
要塞寺の奥の切り立った崖の上にある塔。入るには狭い橋を渡る必要がある。内部は危険な仕掛けがたくさんある上に普通の階段が無く、上階に上がるにはどこかにあるスイッチを押して隠し階段を登る必要がある。
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/01 08:33 UTC 版)
国宝。東寺のみならず京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルは木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海による創建に始まるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊であり金剛界五仏の中尊でもある大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。諸仏は寛永20年(1643年)から翌年にかけての作で、江戸時代初期の作風を伝える。初重内部は通常非公開だが、特別に公開される場合もある。北にある池は瓢箪池といい、五重塔とともに池泉回遊式庭園の要素になっている。 初重内部の安置仏像は以下の通り(菩薩像の像名は寺伝による)。 東面 - 阿閦如来、弥勒菩薩、金剛蔵菩薩 南面 - 宝生如来、除蓋障菩薩、虚空蔵菩薩 西面 - 阿弥陀如来、文殊菩薩、観音菩薩 北面 - 不空成就如来、普賢菩薩、地蔵菩薩
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 02:16 UTC 版)
国宝。木造五重塔として現存世界最古のもの。裳階付きで、高さは32.55mであり、初重から五重までの屋根の逓減率(大きさの減少する率)が高いことがこの塔の特色で、五重の屋根の一辺は初重屋根の約半分である。初層から四重目までの柱間は通例の三間だが、五重目のみ二間とする。初重内陣には東面・西面・南面・北面それぞれに塔本四面具(国宝)と呼ばれる塑造の群像を安置する(計80点の塑像が国宝)。この塑像に使用された粘土は、寺の近くの土と成分がほぼ等しいことから近くの土で作られたと推測される。東面は『維摩経』(ゆいまきょう)に登場する、文殊菩薩と維摩居士の問答の場面、北面は釈迦の涅槃、西面は分舎利(インド諸国の王が釈尊の遺骨すなわち仏舎利を分配)の場面、南面は弥勒の浄土を表す。北面の釈迦の入滅を悲しむ仏弟子の像が特に有名である。その弟子集団の中の3体は、耳の無い、口先のとがった、眼のつりあがった頭部をしており、それぞれ馬頭形、鳥頭形、鼠頭形とよばれる。これらは十二支をかたどっているとも、薬師如来をまもる十二神将であるともいわれる。五重塔初層内部にも壁画(現在は別途保管、重要文化財)があったが、漆喰が上から塗られたことなどが原因で剥落してしまっている。心礎(心柱の礎石)は、地下3メートルにあり、心礎内からは1926年(大正15年)にガラス製の舎利壺とこれを納める金製、銀製、響銅製の容器からなる舎利容器が発見された。なお、舎利容器は、調査後、元の場所に納められている。
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五重塔
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/26 08:20 UTC 版)
国宝。延暦19年(800年)頃の建立で、木部を朱塗りとする。屋外にある木造五重塔としては、法隆寺塔に次ぎわが国で2番目に古く、国宝・重要文化財指定の木造五重塔で屋外にあるものとしては日本最小である。高さは16メートル強、初重は1辺の長さ2.5メートルの小型の塔で、高さは興福寺五重塔の3分の1ほどである。 通常の五重塔は、初重から1番上の5重目へ向けて屋根の出が逓減(次第に小さくなる)されるが、この塔は屋根の逓減率が低く、1重目と5重目の屋根の大きさがあまり変わらない。その他、全体に屋根の出が深く、厚みがあること、屋根勾配が緩いこと、小規模な塔の割に太い柱を使用していることなどが特色である。屋根の大きさが1重目と5重目とで変わらないのに対し、塔身は上へ行くにしたがって細くなり、5重目の一辺は1重目の6割になっている。しかし、斗(ます)、肘木などの組物の大きさは同じなので、5重目では組物と組物の間隔が非常に狭くなっている。側柱(外面の柱)の径は1重目が28センチ、2重目以上が23センチである。日本の他の仏塔では、最上部の九輪の上に「水煙(すいえん)」という飾りが付くが、この塔では水煙の代わりに宝瓶(ほうびょう)と称する壺状のものがあり、その上に八角形の宝蓋(ほうがい)という傘状のものが乗っている珍しい形式である。寺伝では、創建にかかわった僧侶修円がこの宝瓶に室生の竜神を封じ込めたとされる。 心柱には江戸時代の明和5年(1768年)の修理銘を記した銅板が打ち付けられており、1900年(明治33年)から翌年にかけても半解体修理が行われた。このほか、部材には鎌倉時代末期頃のものが含まれることから、その頃にも一度修理を受けていることがわかる。部材には当初材のほか、鎌倉時代、江戸時代(明和)、明治時代のものが含まれ、各重の側柱には明和と明治の修理で取り換えられたり、当初位置から移動しているものが多い。屋根は建立当初は板葺きで、明和の修理で檜皮葺きに変更したものとみられる。 五重塔は、1998年(平成10年)9月22日、台風7号の強風でそばの杉(高さ約50メートル)が倒れた際に屋根を直撃、西北側の各重部の屋根・軒が折れて垂れ下がる大被害を受けた。しかし、心柱を含め、塔の根幹部は損傷せずに済み、復旧工事を1999年(平成11年)から2000年(平成12年)にかけ行った。修理に際し奈良文化財研究所により、当初材を年輪年代測定法で調査したところ、延暦13年(794年)頃に伐採されたものであることが判明した。このことからも塔の建立年代を延暦19年(800年)頃とする従来の定説が裏付けられた。 正面 南西から望む 五重塔の相輪通常の塔にみられる水煙(すいえん)の代わりに傘蓋がある。
※この「五重塔」の解説は、「室生寺」の解説の一部です。
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