零式艦上戦闘機
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A6M 零式艦上戦闘機
- 1 零式艦上戦闘機とは
- 2 零式艦上戦闘機の概要
三菱零式艦上戦闘機
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「アクタン・ゼロ」の記事における「三菱零式艦上戦闘機」の解説
詳細は「零式艦上戦闘機」を参照 1939年に初飛行した零戦は、非常に機動性に優れた軽戦闘機であり、その格闘性能および航続性能は当時世界のあらゆる戦闘機よりも優れていた。しかし、軽量化のために防御力・耐弾性を犠牲にし、防弾鋼板や防漏式燃料タンクを備えていなかった。アメリカ人作家ジム・リアデンによれば、「零戦はおそらく第二次世界大戦において、被弾させればもっとも撃墜しやすい戦闘機だった。日本はアメリカ軍戦闘機の質の向上と数の増加に立ち向かうために必要なだけの数のより改良された戦闘機を製造する準備をしていなかったか、あるいはそれができなかった」。結果、零戦は大戦を通して日本海軍の主力戦闘機であり続けた。 1940年、フライング・タイガースの指揮官クレア・リー・シェンノートは、零戦の性能についてのレポートを提出したが、アメリカ戦争省の分析官はそれを「実にばかげている」として認めず、空気力学的に不可能であるとの結論を下した。戦争初期、零戦は交戦したあらゆる敵機より勝っており、アメリカのエース・パイロットウィリアム・N. レオナード(英語版)によれば、「これら初期の交戦から、そして我々自身が、(零戦と)ドッグファイトすることの愚かさを教えられた」。 真珠湾攻撃において9機の零戦が撃墜された。これらの残骸から、連合軍は零戦が防弾鋼板や防漏式燃料タンクを装備していないことがわかったが、これが長距離飛行をするために特別に軽量化された結果なのか、それともこれが標準的なものなのかわからず、またその他にはほとんどなにも知ることができず、零戦のそれと闘うための戦術や機器を考案するために重要な飛行性能の特性は謎のままだった。 アクタン・ゼロの回収以前、連合軍は他で墜落した3機の零戦から技術情報を入手する機会があった。1機目(製造番号5349、豊島一(とよしまはじめ)一飛兵搭乗)は、ポート・ダーウィン空襲の後メルヴィル島に墜落した。機体は激しく損傷し、豊島は太平洋戦争においてオーストラリアが初めて捕縛した戦争捕虜となった。 2機目は前田芳光(まえだよしみつ)三飛曹が搭乗し、ニューギニア島のロドニー岬付近で墜落した。機体の回収チームが派遣されたが、翼を切り離すときに誤って翼桁を切断してしまい、飛行不能となった。3機目は中華民国から来た。シェンノートの下にいたゲルハルト・ノイマン(英語版)は零戦を稼働可能な状態に復元することができた。ノイマンは、中華民国領内に着陸し、一部は無傷なままの鹵獲された零戦(製造番号3372)に、回収された他の零戦の部品を使用して修理を行った。しかし、当時は連合国が日本軍に対して劣勢であり、アメリカへの輸送に長い時間を要したため、アメリカに到着したのはアクタン・ゼロがテストのためにアメリカに到着した後のことだった。
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