三菱銀行との合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 13:51 UTC 版)
1995年(平成7年)3月28日午後、日本経済新聞に三菱銀行との合併がスクープされた(同日常務会での合併覚書への調印決議)。「三菱銀行、東京銀行が対等合併」の報道がテロップで流れた際、東銀の外為ディーリングルームでは忙しく動き回っていた外為ディーラーの手が止まり、一瞬の異様な静けさの後どよめきが生まれた。三菱銀行のディーリングルームでも同様に報道直後はパニック状態だった。1996年(平成8年)4月1日に合併し東京三菱銀行となった。外国為替銀行法により、業務に制約のある東京銀行を存続会社とするのは現実的ではなかったため、三菱銀行を存続会社とし、合併比率も持ち株ベースで1:0.8と数字上三菱銀行に吸収される形で東京銀行は消滅したが、現在の三菱UFJ銀行の沿革図中に書かれる「横浜正金銀行-東京銀行」の位置を見てもわかる通り、事実上対等(むしろやや東京銀行寄り)な合併であり、国立銀行条例に基づき政府の1/3出資により設立された横浜正金銀行を源流とする特殊銀行(外為銀)である東京銀行のブランド性と、富豪の金融事業に端を発する三菱銀行のボリューム力が、互いの求める部分に合致した非常に合理的な相互補完であった。また、この合併比率は東銀側に有利な算定であったとも言われる。 新銀行発足当初の役員人事は、初代頭取を旧東銀出身の高垣佑(たすく)としたのをはじめ、見事なたすきがけ人事であったが、高垣の退陣後、東京三菱銀行および現在の三菱UFJ銀行に至るまで、旧東銀出身者が頭取に就任した実績は皆無である。最後の頭取であり、東京三菱銀行の初代頭取も務めた高垣佑は、初代三菱商事社長・高垣勝次郎を父に持ち、生まれながらにして三菱グループびいきの人物との評があった。東京三菱銀行の誕生は、このような高垣の人的バックグラウンドが大きく作用したと言われる。 三菱銀行との合併の際、新銀行名は「東京」を先に「三菱」を後ろに据えた東京三菱銀行(BTM, The Bank of Tokyo-Mitsubishi, Ltd.)とし、英文社名も「Bank of Tokyo」を残す形となったが、これは東京銀行が吸収した側であることを示すものではなく、単なる名(銀行名や頭取)と体(存続会社や本社機能所在地)のたすきがけであり、また海外での東京銀行の知名度の高さを意識したCI戦略のひとつでもあった。その後、東京営業部と本店の統合がなされ、旧東急百貨店日本橋店脇にあった(旧三菱銀行)日本橋支店が東京営業部跡へ移転し、預金は日本橋支店(現:BTMU日本橋支店)もしくは本店等に移管された。 その後2006年1月に、東京三菱銀行がUFJ銀行を救済合併(吸収合併)した際は、新銀行名を三菱東京UFJ銀行(BTMU, The Bank of Tokyo-Mitsubishi UFJ, Ltd.)と引き続き「Bank of Tokyo」を残し、海外との決済などで使われるSWIFTコードは旧東京銀行の本店が使っていた「BOTKJPJT」が引き継がれた一方、親会社である金融持株会社では三菱東京フィナンシャル・グループ(MTFG)の「東京」が省かれ、三菱UFJフィナンシャル・グループ(MUFG)とされた。しかし2017年5月、同グループより銀行名も2018年春には三菱UFJ銀行(MUFG Bank, Ltd.)に商号変更となることが正式に公表された。翌年4月の改称により、三菱銀行との合併から22年にして「東京」の文字が消えるとともに「三菱東京」の名が名実ともに消滅し、東京銀行の名残は三菱UFJ銀行のSWIFTコードに残るのみとなった。
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