一躍ヒット・メーカーへとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 一躍ヒット・メーカーへの意味・解説 

一躍ヒット・メーカーへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:47 UTC 版)

来生たかお」の記事における「一躍ヒット・メーカーへ」の解説

1981年12月19日全国東映系で公開され角川春樹事務所/キティ・フィルム提携映画『セーラー服と機関銃』主題歌は、当初来生自身歌唱で話は進められレコーディング済んでいたが、監督相米慎二により同映画主演女優薬師丸ひろ子が歌う発案キティ・フィルム代表の多賀英典なされた好評だったオリジナルシングルGoodbye Day」に続く楽曲として、プロデューサー多賀英典と共に姉弟自身ヒット予感しており、ここで勢い乗りたい考えていた最中であったため、大騒ぎになった多賀東映側に押され承諾したものの、薬師丸来生ファンであったこともあり、それぞれ「セーラー服と機関銃」夢の途中」としてリリースする競作シングルというかたちで決着付けた。 この2曲は一部歌詞相違があるが、意図的なものではない。来生えつこによればレコーディングギリギリまで歌詞書き換えることは茶飯事で、この時はいつにも増して試行錯誤を重ねていたため、受け渡し最中手違いがあったとされる。“夢の途中”というタイトル不意に思い付いたものの、先にタイトル決まっていることは稀で、また、ヒット期待込めた曲には“夢”というキーワードを入れる彼女としては、来生デビュー曲浅い夢」に絡めて拘り持っていた“夢の途中”というフレーズ「セーラー服と機関銃」歌詞から消えてしまったことは残念だったが、薬師丸澄んだ歌声聴いた時は“いけるかも”と思ったという。また、来生は同映画主題歌候補として3曲用意しており、その決定プロデューサーによってなされた来生は、自信がなかった楽曲選ばれたと回顧している。 「セーラー服と機関銃」1981年11月21日リリース)は、リリースの前から予約殺到し、たちまちオリコンで第1位を獲得した一方同年11月10日先駆けてリリースされた「夢の途中」は、当初オリコンで第200前後だったが、「セーラー服と機関銃」影響もあってかランキング上昇し続け翌年3月には最高第4位、有線では第1位を獲得来生最大ヒット曲となったちなみに、同曲のB面収録された「美しい女」を作詞した山川啓介来生はほとんど面識がなかったが、「ある時1度会った際に、山川さんから『ありがとうございましたと言われました。B面作者にも多大な印税収入舞い込んだからだと思います」と自身コンサート語っている。 「夢の途中「セーラー服と機関銃」大ヒット楽曲提供依頼殺到し年間100曲以上作っていた時期もあり、時に来生はもうマンネリ揶揄されることもあったが、「夢の途中のような曲を、との注文を付ける依頼少なくなかったため、自然と似たようなコード進行になってしまったと吐露している。また、TBSドラマ2年B組仙八先生』の主演の話が舞い込んだが、音楽以外仕事をする気にはなれないとの理由断っている。 「シルエット・ロマンス」は、サンリオ(後に出版権ハーレクイン移行)の「シルエットロマンスシリーズ」のイメージソングとして作られたため、最初からタイトル決まっていた。実力派歌手である大橋純子が歌うということで、思う存分難しい曲を作ろう考えた来生は、先に出来上がったサビ部分確かな手応え感じ、“これはいける”と思ったという。一方来生えつこによれば、同曲をあまり過度な情感込めて歌って欲しくなかったため、あえて大橋がまだ歌い慣れる前の最初2 - 3テイク使用して貰ったらしい。当時休業考えていた大橋は、歌手活動再開までの間世間自分忘れないためにも同曲をヒットさせたい思っており、実際「セーラー服と機関銃」忽ちヒットしたのとは対照的にじわじわ人気獲得し大橋自身第24回日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞したまた、来生第2回日本作曲大賞優秀作品賞を、来生えつこと共に中山晋平西条八十賞受賞しており、その後多く歌手カヴァー試みスタンダードナンバーとなっている(来生たかお関連作品被カヴァー曲参照)。井上陽水は、来生が同曲を歌っているテレビ番組をたまたま目にし、“詞の良さ、曲の良さ来生たかお真摯な姿勢相俟って、思わず涙ぐんだ”と述べつつ、改め目の前で来生の歌を聴いた後は、“パチンコ合間にこんな良い曲を作ってるらしいんですよ”とからかっている。 「セカンド・ラブ」は、「シルエット・ロマンス」のヒットにより、大橋純子サイドから再び楽曲提供依頼があるだろうと見越して作られた曲だったが、中森明菜手掛けていたディレクターの目に止まり、ぜひ明菜に歌わせたいということで提供に至った。ただしセカンドシングルということで「セカンド・ラブ」というタイトル付けたものの、実際にはサードシングルとしてリリースされた。大橋純子用に音域広くして作った同曲を、まだデビュー間もない中森歌ったことに対し来生は“大変だったんじゃないかな”と述べている。また、同曲が第3回日本作曲大賞受賞した際、松任谷由実原田知世提供した時をかける少女」もノミネートされており、会場来生たかおおよびその関係者は、滅多に公の場に姿を見せない松任谷がわざわざ来ていて、しかもステージ向かいやすい通路側座っていたことから、「時をかける少女」の受賞事前に決まっていると思っていたという。ちなみに、同賞の景品として車が進呈されたが、当時姉弟は共に運転免許持っていなかったため、急遽来生夫人教習所へ通うことになったちなみに本曲より前に松任谷由実が同じタイトル作詞をした楽曲作詞呉田軽穂作曲杉真理)を須藤薫書いており、後にそれを知った来生動揺したという((オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報HEAD ROCK」))。 1983年念願だった美空ひばりへの楽曲提供実現した提供曲笑ってよムーンライト」は、大ヒットするだろうという思惑外れたものの、来生自身名曲自負している。レコーディング折り、ひばりは真っ赤なスーツ姿でスタジオ現れ編曲担当した坂本龍一と共に感激したという。レコーディング自体難なく完遂しプロ意識感じた述べている。また、姉弟でひばり邸を訪れたこともあり、その際、もっとジャズナンバーも歌って欲しいと懇願したところ、ひばり自身もそれを希望しているものの、多く観客要望合致しないため、なかなか叶わないという思い吐露された。ひばりとはフジテレビ系音楽番組夜のヒットスタジオ』で一度だけ競演果たしているが、番組側の、ピアノフェイクでも構わないとの意向で、来生ピアノ向かっているだけで実際には弾かなかったと明かしている。 1984年フランスパリにおいて企画アルバムLABYRINTH』のレコーディング行った。同アルバムプロデュースおよび全編曲を担ったポール・モーリアは、それまで必然性感じないという理由日本人アーティストからのプロデュース依頼断っていたが、来生楽曲自身編曲は合うと感じ引き受けたという。また、来生を“一見シンプルだが人の耳を惹き付ける明快ロマンティック音楽創るアーティスト”と評し、そのメロディーヴォーカルが持つオリジナリティー尊敬の念抱いたという。来生作品多少ヨーロッパ的に聞こえるが、そのメロディーが持つセンチメンタル且つロマンティック雰囲気は、フランスにはない日本的な響きであるとし、いずれもメロディーライン重視した美しい曲であると述べている。対す来生は、自作品のメロディー生かしてくれる美しストリング嬉しく感じまた、ポール・モーリア楽譜通常楽器演奏者委ねられることが多いフィルインまで詳細に記されているのを目にし、その完璧主義振り驚いたという。同年開催されポール・モーリア来日公演PAUL MAURIAT JAPAN TOUR 1984』の11月23日12月2日ゲスト出演し、翌1985年には上記アルバム基調とした『LABYRINTH TAKAO KISUGI with PAUL MAURIAT』と題した映像作品リリースしている。さらに、2008年リリースされ10CDポールモーリア世界』(ユーキャンユニバーサルミュージック〉)付属特別編集誌『ポールモーリア物語』には“ポールモーリアとの思い出”と題されコメント寄稿している。 1986年6月30日 - 7月22日歌手デビュー10周年企画コンサート来生たかお10th ANNIVERSARYELEVEN NIGHT THEATER”』(東京都FM東京ホール)が開催された。11日間(週末を含む3日程の単位)で既出オリジナルアルバム11から全曲披露するという前代未聞内容であった折りしも、次のオリジナルアルバム『I Will...』の制作途中でもあり、来生自身は同企画承諾するかどうかかなり悩んでいたが、先んじて告知出てしまったため、止むなく決行となった。そして、危惧していた通りコンサート準備段階から過酷極めることになる。基本的に来生自身が百数十曲にも及ぶ楽曲ライヴアレンジ施した後、バックバンドと共にリハーサル行い、いざコンサート始まってからも、毎回セットリスト異なるためステージが終わる度に次回練習をこなすという状況で、アルバム制作の方は一旦中断せざるを得なくなったまた、MC内容もいつも同じというわけにも行かずコンサート後半来生えつこ台本用意し、彼女自身スケジュール都合付いた日は舞台上がったため、観客席でゆっくり楽しめ残念だった語っている。全ステージ終了後来生やつれてたらしいが、その後すぐにアルバム制作再開され姉弟事務所レコーディングスタジオ分かれてカンヅメになった当初来生えつこは、歌手デビュー10周年記念アルバムでもあるため、かつてのように膝を突き合わせて1曲1曲作りたいとの思いもあったが、時間的に叶わず口惜しかったと回顧している。ちなみにこの企画先に耳にしていたら絶対反対したとも告白している。なお、7月12日(『夢の途中』の回)のステージ後日ラジオ放送された。 1990年井上陽水シングル少年時代」(同年10月21日リリース)でピアノ担当する井上来生依頼した理由として、“彼は曲を作って歌っている分、ピアノ手薄かなと思って”と笑いつつ、どこか未完成まだまだ上達する余地ある少年というイメージ曲調合致し実際望み通りピアノであったことを明かしている。来生によればスタジオ井上から“今レコーディングしてるんだけど、とにかく来て”と電話入り、“ポール・マッカートニーのような専業ピアニストには出せない味のピアノ欲しい”と言われたという。1999年9月24日井上陽水数年振り全国コンサートツアー先駆けて開催されシークレットライヴにおいて、初めて同曲での共演実現した1991年5月23日歌手デビュー15周年記念イベントとして、東京日本武道館において『来生たかお in 武道館〜アコースティックスペシャル〜』を開催した。「夢の途中」が大ヒットした当時にも同所での公演勧めはあったが、自身コンサートとしてはキャパシティー大き過ぎるとの理由断っていた。しかし、歌手デビュー15周年に際して再び同企画持ち上がった際は、記念の年でもあり、広い会場で観てみたいとのファン心理踏まえ一生に一度という思い実現させた。編成は、来生自身ピアノバックバンドの“スタートル”、70から成るオーケストラというものだったちなみにアマチュア時代同所ザ・ビートルズ日本公演を観た頃と違い安全地帯公演を観た時(歌手デビュー15周年記念イベント数年前)は、同所それ程大きいとは感じなかったという。1991年10月25日ギルバート・オサリヴァンとの競作シングル曲出会えてよかった」「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」がリリースされるオサリヴァン後者作詞手掛けており、“共作というかたちでもある)。自他共に認めるオサリヴァンファンの来生は、それまでにもオサリヴァンベストアルバムアローン・アゲイン』(1986年3月25日)、『アナザー・サイド』(1988年6月25日)にコメント寄稿後者選曲監修兼務)していたが、1990年日本における事実上復帰作として発表されアルバム『In The Key Of G』へも、忌憚のないアルバムと共に復帰歓迎思いを寄せた。この時、音楽シーンへの復帰盛り立てる話題作りとして、オサリヴァンによる来生作品カヴァー企画持ち上がるが、どうせなら新作をというオサリヴァン自身意向により、競作共作)が実現した来生姉弟は、ずっと自作自演でやって来たオサリヴァンが、自分達の曲を歌ってくれることが信じられなかったと回顧しており、2010年現在においても、オサリヴァンリリース楽曲中、唯一の例外となっている。来生は、過去にもオサリヴァンイメージして作曲したことはあったが、それを超えるものといプレッシャーの中で書き下ろした4曲の中から「What A WayTo Show I Love You)/出会えてよかった」は選ばれた。同曲はオサリヴァン日本盤アルバムSounds Of The Loop/あの日の僕をさがして』にも収録され、同アルバム収録の「Can't Think Straight/ぼくときみラヴ・ソング」(作詞作曲ギルバート・オサリヴァン)ではデュエット実現、さらにテレビ番組ステージで共演果たした(「略歴」「コンサートツアー/スペシャルライヴ」参照)。殊にステージで共演については、当初関係者から提案なされていたが、来生オサリヴァンステージ観客として堪能したいとの思い断っていた。しかし、観覧後にオサリヴァン楽屋訪れたところ、オサリヴァン自身からデュエットをしたい旨を告げられたため、わずか2日後共演承諾したという。ちなみに2人同年9月1日イギリス領内のジャージー島にあるオサリヴァン自宅において初対面をする。来生には憧れの人物直接会いたいという願望はなく、寧ろ会ってイメージ壊れてしまうことに不安もあったが、オサリヴァン思い描いていた通り人柄で、その素朴な生活スタイル想像違わず良かった述べている。来生えつこ曰く、“2人変わり者同士”らしい。後年、「Can't Think Straight」は日本国外では来生パートペギー・リー歌唱による英語詞差し替えられ、世界発売されることとなる。 1995年7月21日歌手デビュー20周年記念として、東京NHKホールにおいて『20周年スペシャルコンサート 浅い夢から』を開催した。このステージ一部映像作品TAKAO KISUGI LIVE 浅い夢から』に収められている。 2000年11月10日歌手デビュー25周年記念アルバムDear my company』をリリース大橋純子中森明菜薬師丸ひろ子とのデュエット加え作家陣に、井上陽水忌野清志郎尾崎亜美永六輔柚木美祐迎える等、特別の1枚となった2001年、『Stand Alone』と題したピアノ弾き語りコンサート初め開催した以降フルバンド編成と共に恒例スタイルとなる。なお、バックバンドスタートル”のメンバーサポート迎えソロステージも『Stand Alone』の一環として捉えられている。 2005年歌手デビュー30周年記念コンサートツアー30th Anniversary Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』が開催され12月26日東京中野サンプラザにおいて行われた30th Anniversary X’mas Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』のステージは、映像作品TAKAO KISUGI 30th Anniversary X'mas Concert 2005 avantage』に収められている。 2010年末『来生たかお 35th Anniversary スペシャル・ライブ2010 Stand Alone Christmas Color』が開催され、翌2011年歌手デビュー35周年企画コンサートツアー来生たかお 35th Anniversary Concert Tour 2011 ひたすらに』が開催された。さらに、オリジナルアルバムひたすらに』をタイトル冠したコンサートツアー2011年スタートした2011年7月1日歌手デビュー35周年記念として、東京サントリーホールにおいて『来生たかお 35th Anniversary Solo Live Premium Stand Alone 2011』を開催した。前2010年の夏、事務所マネージャー社長から、歌手デビュー35周年あり、かつソロライヴを初め10年節目でもあることから、サントリーホールでの公演持ち掛けられた。来生当初クラシックコンサート主体である同ホールに立つことに迷いもあったが、先々事柄承諾出してしまう性格であるため、実現至ったまた、引き受けてしまったことに対する不安と後悔で、公演当日まで戦々恐々としていたという。

※この「一躍ヒット・メーカーへ」の解説は、「来生たかお」の解説の一部です。
「一躍ヒット・メーカーへ」を含む「来生たかお」の記事については、「来生たかお」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「一躍ヒット・メーカーへ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「一躍ヒット・メーカーへ」の関連用語

一躍ヒット・メーカーへのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



一躍ヒット・メーカーへのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの来生たかお (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS