一躍ヒット・メーカーへ
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「来生たかお」の記事における「一躍ヒット・メーカーへ」の解説
1981年12月19日、全国東映系で公開された角川春樹事務所/キティ・フィルム提携映画『セーラー服と機関銃』の主題歌は、当初、来生自身の歌唱で話は進められ、レコーディングも済んでいたが、監督の相米慎二により同映画の主演女優・薬師丸ひろ子が歌う発案がキティ・フィルム代表の多賀英典になされた。好評だったオリジナルシングル「Goodbye Day」に続く楽曲として、プロデューサー・多賀英典と共に姉弟自身もヒットを予感しており、ここで勢いに乗りたいと考えていた最中であったため、大騒ぎになった。多賀は東映側に押されて承諾したものの、薬師丸が来生のファンであったこともあり、それぞれが「セーラー服と機関銃」「夢の途中」としてリリースする“競作シングル”というかたちで決着を付けた。 この2曲は一部歌詞に相違があるが、意図的なものではない。来生えつこによれば、レコーディングのギリギリまで歌詞を書き換えることは茶飯事で、この時はいつにも増して試行錯誤を重ねていたため、受け渡しの最中に手違いがあったとされる。“夢の途中”というタイトルは不意に思い付いたものの、先にタイトルが決まっていることは稀で、また、ヒットの期待を込めた曲には“夢”というキーワードを入れる彼女としては、来生のデビュー曲「浅い夢」に絡めて拘りを持っていた“夢の途中”というフレーズが「セーラー服と機関銃」の歌詞から消えてしまったことは残念だったが、薬師丸の澄んだ歌声を聴いた時は“いけるかも”と思ったという。また、来生は同映画の主題歌候補として3曲用意しており、その決定はプロデューサーによってなされた。来生は、自信がなかった楽曲が選ばれたと回顧している。 「セーラー服と機関銃」(1981年11月21日リリース)は、リリースの前から予約が殺到し、たちまちオリコンで第1位を獲得した。一方、同年11月10日に先駆けてリリースされた「夢の途中」は、当初オリコンで第200位前後だったが、「セーラー服と機関銃」の影響もあってかランキングを上昇し続け、翌年3月には最高第4位、有線では第1位を獲得、来生の最大のヒット曲となった。ちなみに、同曲のB面に収録された「美しい女」を作詞した山川啓介と来生はほとんど面識がなかったが、「ある時1度会った際に、山川さんから『ありがとうございました』と言われました。B面の作者にも多大な印税収入が舞い込んだからだと思います」と自身のコンサートで語っている。 「夢の途中」「セーラー服と機関銃」の大ヒットで楽曲提供の依頼が殺到し、年間100曲以上作っていた時期もあり、時に、来生はもうマンネリと揶揄されることもあったが、「夢の途中」のような曲を、との注文を付ける依頼も少なくなかったため、自然と似たようなコード進行になってしまったと吐露している。また、TBSドラマ『2年B組仙八先生』の主演の話が舞い込んだが、音楽以外の仕事をする気にはなれないとの理由で断っている。 「シルエット・ロマンス」は、サンリオ(後に出版権はハーレクインに移行)の「シルエットロマンスシリーズ」のイメージソングとして作られたため、最初からタイトルは決まっていた。実力派歌手である大橋純子が歌うということで、思う存分難しい曲を作ろうと考えた来生は、先に出来上がったサビの部分に確かな手応えを感じ、“これはいける”と思ったという。一方来生えつこによれば、同曲をあまり過度な情感を込めて歌って欲しくなかったため、あえて大橋がまだ歌い慣れる前の最初の2 - 3テイクを使用して貰ったらしい。当時休業を考えていた大橋は、歌手活動再開までの間世間が自分を忘れないためにも同曲をヒットさせたいと思っており、実際、「セーラー服と機関銃」が忽ちヒットしたのとは対照的にじわじわと人気を獲得し、大橋自身も第24回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞した。また、来生も第2回日本作曲大賞優秀作品賞を、来生えつこと共に中山晋平・西条八十賞を受賞しており、その後も多くの歌手がカヴァーを試みるスタンダードナンバーとなっている(来生たかお関連作品「被カヴァー曲」参照)。井上陽水は、来生が同曲を歌っているテレビ番組をたまたま目にし、“詞の良さ、曲の良さ、来生たかおの真摯な姿勢が相俟って、思わず涙ぐんだ”と述べつつ、改めて目の前で来生の歌を聴いた後は、“パチンコの合間にこんな良い曲を作ってるらしいんですよ”とからかっている。 「セカンド・ラブ」は、「シルエット・ロマンス」のヒットにより、大橋純子サイドから再び楽曲提供の依頼があるだろうと見越して作られた曲だったが、中森明菜を手掛けていたディレクターの目に止まり、ぜひ明菜に歌わせたいということで提供に至った。ただしセカンドシングルということで「セカンド・ラブ」というタイトルを付けたものの、実際にはサードシングルとしてリリースされた。大橋純子用に音域を広くして作った同曲を、まだデビュー間もない中森が歌ったことに対し、来生は“大変だったんじゃないかな”と述べている。また、同曲が第3回日本作曲大賞を受賞した際、松任谷由実が原田知世に提供した「時をかける少女」もノミネートされており、会場の来生たかおおよびその関係者は、滅多に公の場に姿を見せない松任谷がわざわざ来ていて、しかもステージに向かいやすい通路側に座っていたことから、「時をかける少女」の受賞は事前に決まっていると思っていたという。ちなみに、同賞の景品として車が進呈されたが、当時、姉弟は共に運転免許を持っていなかったため、急遽来生夫人が教習所へ通うことになった。ちなみに、本曲より前に松任谷由実が同じタイトルで作詞をした楽曲(作詞:呉田軽穂/作曲:杉真理)を須藤薫に書いており、後にそれを知った来生は動揺したという((オフィシャルファンクラブ「TAKAO CLUB」の会報「HEAD ROCK」))。 1983年、念願だった美空ひばりへの楽曲提供が実現した。提供曲「笑ってよムーンライト」は、大ヒットするだろうという思惑は外れたものの、来生自身は名曲と自負している。レコーディングの折り、ひばりは真っ赤なスーツ姿でスタジオに現れ、編曲を担当した坂本龍一と共に感激したという。レコーディング自体も難なく完遂し、プロ意識を感じたと述べている。また、姉弟でひばり邸を訪れたこともあり、その際、もっとジャズナンバーも歌って欲しいと懇願したところ、ひばり自身もそれを希望しているものの、多くの観客の要望と合致しないため、なかなか叶わないという思いを吐露された。ひばりとはフジテレビ系音楽番組『夜のヒットスタジオ』で一度だけ競演も果たしているが、番組側の、ピアノはフェイクでも構わないとの意向で、来生はピアノに向かっているだけで実際には弾かなかったと明かしている。 1984年、フランスはパリにおいて企画アルバム『LABYRINTH』のレコーディングを行った。同アルバムのプロデュースおよび全編曲を担ったポール・モーリアは、それまで、必然性を感じないという理由で日本人アーティストからのプロデュース依頼を断っていたが、来生の楽曲と自身の編曲は合うと感じ、引き受けたという。また、来生を“一見シンプルだが人の耳を惹き付ける明快でロマンティックな音楽を創るアーティスト”と評し、そのメロディーとヴォーカルが持つオリジナリティーに尊敬の念を抱いたという。来生作品は多少ヨーロッパ的に聞こえるが、そのメロディーが持つセンチメンタル且つロマンティックな雰囲気は、フランスにはない日本的な響きであるとし、いずれもメロディーラインを重視した美しい曲であると述べている。対する来生は、自作品のメロディーを生かしてくれる美しいストリングを嬉しく感じ、また、ポール・モーリアの楽譜に通常各楽器の演奏者に委ねられることが多いフィルインまで詳細に記されているのを目にし、その完璧主義振りに驚いたという。同年に開催されたポール・モーリアの来日公演『PAUL MAURIAT JAPAN TOUR 1984』の11月23日・12月2日にゲスト出演し、翌1985年には上記アルバムを基調とした『LABYRINTH TAKAO KISUGI with PAUL MAURIAT』と題した映像作品もリリースしている。さらに、2008年にリリースされた10枚組CD『ポールモーリアの世界』(ユーキャン〈ユニバーサルミュージック〉)付属の特別編集誌『ポールモーリア物語』には“ポールモーリアとの思い出”と題されたコメントを寄稿している。 1986年6月30日 - 7月22日、歌手デビュー10周年企画コンサート『来生たかお10th ANNIVERSARY“ELEVEN NIGHT THEATER”』(東京都・FM東京ホール)が開催された。11日間(週末を含む3日程の単位)で既出のオリジナルアルバム11枚から全曲披露するという前代未聞の内容であった。折りしも、次のオリジナルアルバム『I Will...』の制作の途中でもあり、来生自身は同企画を承諾するかどうかかなり悩んでいたが、先んじて告知が出てしまったため、止むなく決行となった。そして、危惧していた通り、コンサートは準備の段階から過酷を極めることになる。基本的に来生自身が百数十曲にも及ぶ楽曲のライヴ用アレンジを施した後、バックバンドと共にリハーサルを行い、いざコンサートが始まってからも、毎回セットリストが異なるためステージが終わる度に次回の練習をこなすという状況で、アルバム制作の方は一旦中断せざるを得なくなった。また、MCの内容もいつも同じというわけにも行かず、コンサートの後半は来生えつこが台本を用意し、彼女自身もスケジュールの都合が付いた日は舞台に上がったため、観客席でゆっくり楽しめず残念だったと語っている。全ステージ終了後、来生はやつれていたらしいが、その後すぐにアルバム制作が再開され、姉弟は事務所とレコーディングスタジオに分かれてカンヅメになった。当初来生えつこは、歌手デビュー10周年記念のアルバムでもあるため、かつてのように膝を突き合わせて1曲1曲作りたいとの思いもあったが、時間的に叶わず口惜しかったと回顧している。ちなみにこの企画を先に耳にしていたら絶対反対したとも告白している。なお、7月12日(『夢の途中』の回)のステージは後日ラジオで放送された。 1990年、井上陽水のシングル「少年時代」(同年10月21日リリース)でピアノを担当する。井上は来生に依頼した理由として、“彼は曲を作って歌っている分、ピアノが手薄かなと思って”と笑いつつ、どこか未完成でまだまだ上達する余地のある少年というイメージが曲調に合致し、実際、望み通りのピアノであったことを明かしている。来生によれば、スタジオの井上から“今レコーディングしてるんだけど、とにかく来て”と電話が入り、“ポール・マッカートニーのような、専業のピアニストには出せない味のピアノが欲しい”と言われたという。1999年9月24日、井上陽水の数年振りの全国コンサートツアーに先駆けて開催されたシークレットライヴにおいて、初めて同曲での共演が実現した。 1991年5月23日、歌手デビュー15周年記念イベントとして、東京は日本武道館において『来生たかお in 武道館〜アコースティックスペシャル〜』を開催した。「夢の途中」が大ヒットした当時にも同所での公演の勧めはあったが、自身のコンサートとしてはキャパシティーが大き過ぎるとの理由で断っていた。しかし、歌手デビュー15周年に際して再び同企画が持ち上がった際は、記念の年でもあり、広い会場で観てみたいとのファン心理も踏まえ、一生に一度という思いで実現させた。編成は、来生自身のピアノ、バックバンドの“スタートル”、70人から成るオーケストラというものだった。ちなみに、アマチュア時代に同所でザ・ビートルズの日本公演を観た頃と違い、安全地帯の公演を観た時(歌手デビュー15周年記念イベントの数年前)は、同所をそれ程大きいとは感じなかったという。1991年10月25日、ギルバート・オサリヴァンとの競作シングル曲「出会えてよかった」「What A Way (To Show I Love You) / 出会えてよかった」がリリースされる(オサリヴァンは後者の作詞も手掛けており、“共作”というかたちでもある)。自他共に認めるオサリヴァンファンの来生は、それまでにもオサリヴァンのベストアルバム『アローン・アゲイン』(1986年3月25日)、『アナザー・サイド』(1988年6月25日)にコメントを寄稿(後者は選曲監修も兼務)していたが、1990年、日本における事実上の復帰作として発表されたアルバム『In The Key Of G』へも、忌憚のないアルバム評と共に復帰歓迎の思いを寄せた。この時、音楽シーンへの復帰を盛り立てる話題作りとして、オサリヴァンによる来生作品のカヴァー企画が持ち上がるが、どうせなら新作をというオサリヴァン自身の意向により、競作(共作)が実現した。来生姉弟は、ずっと自作自演でやって来たオサリヴァンが、自分達の曲を歌ってくれることが信じられなかったと回顧しており、2010年現在においても、オサリヴァンのリリース楽曲中、唯一の例外となっている。来生は、過去にもオサリヴァンをイメージして作曲したことはあったが、それを超えるものというプレッシャーの中で書き下ろした4曲の中から「What A Way(To Show I Love You)/出会えてよかった」は選ばれた。同曲はオサリヴァンの日本盤アルバム『Sounds Of The Loop/あの日の僕をさがして』にも収録され、同アルバム収録の「Can't Think Straight/ぼくときみのラヴ・ソング」(作詞作曲:ギルバート・オサリヴァン)ではデュエットも実現、さらにテレビ番組やステージでの共演も果たした(「略歴」「コンサートツアー/スペシャルライヴ」参照)。殊にステージでの共演については、当初関係者から提案がなされていたが、来生はオサリヴァンのステージを観客として堪能したいとの思いで断っていた。しかし、観覧後にオサリヴァンの楽屋を訪れたところ、オサリヴァン自身からデュエットをしたい旨を告げられたため、わずか2日後の共演を承諾したという。ちなみに、2人は同年の9月1日、イギリス領内のジャージー島にあるオサリヴァンの自宅において初対面をする。来生には憧れの人物に直接会いたいという願望はなく、寧ろ会ってイメージが壊れてしまうことに不安もあったが、オサリヴァンは思い描いていた通りの人柄で、その素朴な生活スタイルも想像と違わず、良かったと述べている。来生えつこ曰く、“2人は変わり者同士”らしい。後年、「Can't Think Straight」は日本国外では来生のパートがペギー・リーの歌唱による英語詞に差し替えられ、世界発売されることとなる。 1995年7月21日、歌手デビュー20周年記念として、東京はNHKホールにおいて『20周年スペシャルコンサート 浅い夢から』を開催した。このステージの一部は映像作品『TAKAO KISUGI LIVE 浅い夢から』に収められている。 2000年11月10日、歌手デビュー25周年記念アルバム『Dear my company』をリリース。大橋純子、中森明菜、薬師丸ひろ子とのデュエットに加え、作家陣に、井上陽水、忌野清志郎、尾崎亜美、永六輔、柚木美祐を迎える等、特別の1枚となった。 2001年、『Stand Alone』と題したピアノの弾き語りコンサートを初めて開催した。以降、フルバンド編成と共に恒例のスタイルとなる。なお、バックバンド“スタートル”のメンバーをサポートに迎えるソロステージも『Stand Alone』の一環として捉えられている。 2005年、歌手デビュー30周年記念コンサートツアー『30th Anniversary Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』が開催され、12月26日、東京は中野サンプラザにおいて行われた『30th Anniversary X’mas Concert Tour 2005 avantage アヴァンタージュ』のステージは、映像作品『TAKAO KISUGI 30th Anniversary X'mas Concert 2005 avantage』に収められている。 2010年末『来生たかお 35th Anniversary スペシャル・ライブ2010 Stand Alone Christmas Color』が開催され、翌2011年、歌手デビュー35周年企画コンサートツアー『来生たかお 35th Anniversary Concert Tour 2011 ひたすらに』が開催された。さらに、オリジナルアルバム『ひたすらに』をタイトルに冠したコンサートツアーが2011年にスタートした。 2011年7月1日、歌手デビュー35周年記念として、東京はサントリーホールにおいて『来生たかお 35th Anniversary Solo Live Premium Stand Alone 2011』を開催した。前2010年の夏、事務所のマネージャー兼社長から、歌手デビュー35周年であり、かつソロライヴを初めて10年の節目でもあることから、サントリーホールでの公演を持ち掛けられた。来生は当初、クラシックコンサートが主体である同ホールに立つことに迷いもあったが、先々の事柄に承諾を出してしまう性格であるため、実現に至った。また、引き受けてしまったことに対する不安と後悔で、公演当日まで戦々恐々としていたという。
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