デザイン論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:28 UTC 版)
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.tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1958年式オールズモビル・88(英語版) この年式のオールズモビルが「レモンを齧っているような顔」と評された、同年のエドセル・ペーサー。 エドセルの最も記憶に残るデザインの特徴は、輓馬の首輪(ホースカラー)(英語版)や洋式便座(英語版)とも揶揄された、商標登録のフロントグリルであった。当時人気のあったジョークとして、エドセルは「オールズモビルがレモンを齧っている」姿に似ているとも言われた。別の批評家からはそのグリルの形状が陰門に似ている事から、車の販売の失敗の要因になったともいわれた。これらのエドセルに対する嘲笑には、時のアメリカ合衆国副大統領リチャード・ニクソンまでもが便乗した。ニクソンは1958年の南米諸国歴訪時、ペルーでパレード・カーにエドセル・コンバーチブルを起用したが、ペルーの人民は反米デモを組織してニクソンの乗るエドセルに卵やトマトを投げつける事件を起こした。後にニクソンは「彼らはきっと私ではなく、車(エドセル)に対して卵をぶつけていたのだろう。車も彼らが投げていたのがレモンではなくトマトでさぞ嬉しかったことだろうね」とジョークを飛ばした。ザ・ニューヨーカー所属の漫画家、フランク・モデル(英語版)はエドセル発売直後の1957年9月7日付けの同誌にて、「今週は皆にとって大きなニュースが起きた。ロシア人は大陸間弾道弾を持ち、我々はエドセルを持った」と風刺漫画で描いた。 年々デザインの過激化が進んでいた当時のアメリカ車の中でも、エドセルのデザインは特に尖鋭的なものであった。元より1958年のフォード車(英語版)自体が、前年の1957年式より採用されたボンネットの上にヘッドランプが載る「出目金」の様なデザインを踏襲し、2灯式ヘッドランプ化とテールフィンを組み合わせてフォード・モーター自身も「ディスティンクティブ・ルック(独特の外観)」と称したものを採用、他のメーカーやディビジョンも概ね類似したフロントフェイスを採用しており、「1958年のアメリカ車=2灯式の出目金ランプ」とも言える状況を作りだしていたが、フォード・モーターは更なる差別化を図るため、このデザインを基礎として1958年式マーキュリーはグリルとバンパーを一体化させた「ジェットエンジン」を思わせるクロームメッキ・バンパーを前後に装着した「ジェットフロー・バンパー」スタイル、1958年式リンカーン及びコンチネンタルは「キャント・デュアルヘッドランプ(普通の2灯式前照灯ではない)」と称する斜め2連式ヘッドランプを採用するという、前衛的デザインの集合体のような状況を呈していた。このようなラインナップが連なる中でエドセルは「印象的な新スタイリング」と称して販売されたが、中央に馬蹄形の開口部を持つ奇異なフロントグリルデザインは上記の様な酷評を受け、消費者には受け入れられなかった。フォード・モーターはエドセルのデザインの尖鋭性に過度の期待を持ち、ティーザー広告の手法でデザインの核心部をぼかしたまま発売を迎えたが、開発の初期段階から発売に至るまでの間にそのデザインコンセプトについて、肝心の消費者の反応についてのリサーチを行っていなかった。殆どの購買者は発売日にディーラー店頭でエドセルの実物を目の当たりにして、驚きと失笑、そして失望の目線を向ける事となったのである。2007年、エドセル発売50周年を記念し、ワシントン・ポストのピーター・カールソンは「Edsel : The Flop Heard Round the World」と題する寄稿を行った。カールソンによれば、当時のティーンエイジャーにとっては自動車の所有は青春の目標の全てであり、新聞、雑誌、テレビCMを通じて大量に供給されるエドセルのティーザー広告にストリップ・ダンサーを見ているかの如き興奮と熱狂を覚えていた。彼らは仲間と友に開店準備中のエドセル・ディーラーに日参したが、エドセル車はヴェールに包まれ、ディーラーの建物には外壁に沿って立入禁止のロープが張られていた。最終的に、彼らはエドセルのディーラーマンの計らいでカーテン越しにエドセル車を覗く事を許されたが、大きなOの字のフロントグリルを目の当たりにした途端、はじめに幾らかの驚きとともに深い失望を抱き、最後には「裏切られた」という怒りの感情を持つに至った。彼ら若者の率直な感情を米国民の多くが共有するのには、さほど時間は掛からなかった。2008年8月のデイリー・テレグラフのアンケートでは、1958年式エドセルは「史上最も醜い100台の車」ランキングで17位に選出されており、同誌も「多くの米国人は特別な車を望んだのに、フォード・モーターは単にフォード車を手直ししただけのものを提供した。グリルのデザインは新聞ではとても書けないようなモノと比較された。結果としてエドセルは彼らを激怒させることになった」と記している。 1958年のフォード・モーター各部門のフロントデザイン フォード・フェアレーン500・スカイライナー フォード・サンダーバード エドセル・バミューダ マーキュリー・パークレーン コンチネンタル・マークIII・コンバーチブル 最終的にエドセルのフロントエンド全体は、元々のコンセプトカーとは似て非なるものとなった。エドセル計画のオリジナル・チーフデザイナーのロイ・ブラウン(英語版)は、「2街区先からでも容易に見分けられるような存在感のあるデザイン」の実現を目指し、1954年頃より中央に細長く、非常に繊細な開口部を持たせる事を想定して数多くのデザインイラストを描いていた。だが、車体エンジニア達は小さな開口部に起因するラジエーターの冷却効率低下によるエンジンの冷却問題の発生を恐れ、当初ブラウンが意図していたデザインを拒否し、1955年のクレイモデル(英語版)の段階からグリルの開口部を大きく広げるデザイン変更を行い、現在の「馬の首輪」という不名誉な称号をもたらす事となった。その一方で、ブラウン自身は紆余曲折を経て生まれたエドセルの生産車のデザインに対しても大きな誇りと愛情を抱いており、1960年にエドセル計画が放棄された際には「2日間悲しみに打ち拉がれた」と家族に語っていた。フォード・モーターはエドセル失敗の責任をチーフデザイナーのブラウンに帰する事はせず、彼を英国資本のBMCが送り出したBMC・ミニを前に苦戦を強いられていたイギリス・フォードに派遣。1962年、ブラウンは新天地でフォード・コーティナ Mk1をデザインした。コーティナはMk1だけでも約93万台余り、後継モデルも含めると20年に渡り世界中で生産される英国車史上でも特筆に値する成功を収め、数百万米ドルの利益をフォード・モーターにもたらした。1963年、ブラウンはコーティナMk1をベースに、1961年式フォード・サンダーバード(三代目モデル、通称ビュレット・バーズ(英語版))のエッセンスを加えてリデザインしたフォード・コルセアも手掛けた。こちらも累計31万台を売る大きな成功を収め、コルセアという車名からエドセルが連想される汚名を雪ぐ効果をもたらすこととなった。ブラウンが設計したコーティナMk1はアメリカ本国にも逆輸入されて全州のフォード・ディーラーで販売され、1970年にフォード・ピントが登場するまで、フォード・ギャラクシーと日本車や欧州車との間になお存在し続けた最低価格帯のラインナップを担う存在となった。 主題となった垂直フロントグリルは1959年式では改善されたが、1960年式では廃止された。偶然にも、1960年式フォードをベースにしたエドセルは全体的に1959年式ポンティアックに非常に似ていた。逆に、1968年式ポンティアックは、1959年式エドセルに似た垂直グリルを採用した。しかし、皮肉な事に両年式のポンティアックはエドセルのような極端な不人気車とはならなかった。また、米国の自動車評論家であるダン・ジェッドリッカは、「今日エドセルの基礎デザインを酷評する人の多くが、1958年に最高潮となったゼネラルモーターズの過剰にクロームメッキを多用したオーバーデコレーションモデルの存在を考慮しておらず、エドセルのホースカラー・グリルを安易に批判する人々の多くが、1930年代のブガッティ・タイプ57Gの蹄鉄グリル、あるいは垂直グリルのデザインを基礎として1950年代に極限られた台数のみ製造されたゲイロード・グラディエーターや、パッカード・プレディクター(ポーランド語版)の存在を知らないであろう」と指摘している。 1959年式ポンティアック・カタリナ・サファリ(英語版) 1959年式ポンティアックとの類似性が指摘される1960年式エドセル・レンジャー 1959年式エドセル・ヴィレジャー 1959年式エドセルとの類似性が指摘される1968年式ポンティアック・ボンネビル(英語版) テレタッチのプッシュボタン式AT操作盤は非常に複雑な機構であり、革新的ではあったが後に複数の問題も引き起こした。プッシュボタンが配置されていたステアリング・ホイールのハブは、伝統的にホーン・ボタンが配置される場所であり、人間工学上はヒューマンエラーを誘発しうる問題がある事が判明した。一部の運転手は警笛を鳴らそうとして誤ってギアチェンジしてしまう事があった。エドセルはパワフルなエンジンを搭載しており高速ではあったが、変速プッシュボタンは路上競技にも適しておらず、シグナル・ドラッグレースに興じる若者からは「Dがドラッグ(牽引)、Lがリープ(跳躍)、Rがレース用だ」というジョークが生まれた程であった。制御ハーネスがエキゾーストマニホールドに近すぎたために、熱害で誤動作を起こし、時に完全に故障する事例すら報告された。ATのリンク機構を動かすテレタッチの作動モーターの信頼性も低く、ドライバーはモーターの過負荷を避けるために始動から発進するまでの間に「PからR、N、Dへ順番にボタンを押す」面倒な操作を行う必要があった。また、モーターの駆動力にも問題があり、坂道でPボタンのみで停車すると車体はAT内部でロッキングギアが噛み合う事で空走が阻止されるが、空走負荷が掛かった状態のロッキングギアを解除できる程モーターが強力ではなかったため、このような状況に陥るとPレンジが解除できず発進不能になるか、最悪の場合モーターが焼き付く故障を引き起こした。そのため、ディーラーでは購入者に対してPボタンを押す前にパーキングブレーキを必ず掛けるように指示されてもいた。結局、テレタッチ・システムは1959年式では廃止され、極めて短命に終わった。但し、テレタッチとはボタンの位置が異なるものの、プッシュボタン操作盤とモーターによる遠隔操作を用いたAT変速機構は1956年から1965年のクライスラーのパワーフライト自動変速機(英語版)とトルクフライト自動変速機(英語版)、あるいは1956年のパッカードのウルトラマチック自動変速機(英語版)でも採用されており、モーターの駆動力に起因するPレンジの問題はどのシステムにも共通の欠点であった事は付記しておく必要がある。パッカードはこの問題を最後まで解決できず、同社にATを供給したオートライト(英語版)は1957年にウルトラマチックの販売が終了すると早々に金型や補修部品を廃棄してしまい、製品ライフサイクルを意図的に下げる事で問題の終息を図った。クライスラーはPレンジ自体をプッシュボタンに設けず、Pレンジへの操作を原則として手動レバーとする事で問題の対策とした。クライスラーのシステムはロッキングギアがATに内蔵される1960年式まではフロア上のレバーで変速機のアウトプットシャフト上に内蔵されたドラムブレーキ、1960年から64年に掛けてはプッシュボタンに併設された小型のレバーでPレンジのロッキングギアを操作するものであった。 アメリカ車におけるプッシュボタン式セレクターの実装例 1956年式パッカード・エグゼクティブ(英語版)のウルトラマチック。Pボタンを有し、エドセルと同様の問題を抱えていた。 1956年式クライスラー・ウィンザー(英語版)のパワーフライト。Pボタンはなく、右下のステッキ型レバーで駐車ブレーキを操作した。 1958年式エドセル・レンジャーのテレタッチ。パッカードにおけるPボタンの先例が生かされる事は無かった。 1964年式インペリアル・クラウン(ドイツ語版)のトルクフライト。左側のレバーでPレンジを操作した。 1958年式のエドセル・ステーションワゴンのテールランプにも苦情が沸き起こった。そのレンズはブーメラン形だが、車体の内側に向けて折れ曲がるようにデザインされた。結果として後続車両からは一定の距離から見ると、後部方向指示器が示す点滅が、曲がる方向と反対方向を指し示しているように見えた。左折の方向指示を出した際、その矢印の形状は右折を示している様に見え、逆もまた同様であった。しかし、フォード車ベースのステーションワゴンにエドセル部門設計陣が後部から独特な外観を与えるための余地はほとんど残されていなかった。フォード部門経営陣はエドセル部門の為だけにボディ板金の金型を変更する事は出来ないと主張したためである。結果としてエドセル部門設計陣がデザインの変更を許された箇所は、テールランプとトリムのみであった。ブーメランに加えて個別の方向指示器を装備する事でこの問題を回避できる余地はあったが、米国の自動車産業は1958年時点でそのような部品を供給していなかった。恐らくこの問題はエドセルが市場に投入されるまで真剣に考慮された事はなかったとみられる。 当時の整備士は410立方インチのE-475を警戒していた。なぜなら、このエンジンのシリンダーヘッドは完全なフラットヘッドであり、シリンダーヘッド側に明確な燃焼室が存在しなかった。これだけであれば多くのディーゼルエンジンと余り変わらないが、MELエンジンの独特な点としてシリンダーヘッドはピストン頂面に対して斜めに配置され、片側にスキッシュエリア(英語版)が設けられたピストンと組み合わせる事で楔形燃焼室を形成していた。従って、燃焼はシリンダーヘッド側ではなく完全にシリンダーボア内で行われた。このような構造はエドセルと同年の1958年に発売されたシボレー・348立方インチ・W型エンジン(英語版)に類似しており、製造原価と燃焼室内のカーボン形成の低減に役だった可能性があった反面、多くの整備士はこのような機構に馴染みがなかった。MEL型エンジンの楔形燃焼室は当時のフォード・モーターにより高度に計算された形状となっており、安易にこの形状を崩す社外品のフラットトップピストンを組み込むと、圧縮比の増大にもかかわらず、却って全体の性能が低下する結果を招いた。後年になってフォード・モーターが設計した燃焼室形状を元に高圧縮比とした社外ピストンが発売されたが、その特性が正しく理解されていなかった1950年代当時、従来のシリンダーヘッドのヘッドチューンに慣れた多くのチューナーは気難しいマローダーV8を忌避していた。
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