デザイン論争とは? わかりやすく解説

デザイン論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 07:28 UTC 版)

エドセル」の記事における「デザイン論争」の解説

.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 1958年オールズモビル88英語版この年式のオールズモビルが「レモン齧っているような顔」と評された、同年のエドセル・ペーサー。 エドセルの最も記憶に残るデザインの特徴は、輓馬首輪(ホースカラー)(英語版)や洋式便座英語版)とも揶揄された、商標登録フロントグリルであった当時人気のあったジョークとして、エドセルは「オールズモビルレモン齧っている」姿に似ているとも言われた。別の批評家からはそのグリル形状陰門似ている事から、車の販売失敗の要因になったともいわれた。これらのエドセル対す嘲笑には、時のアメリカ合衆国副大統領リチャード・ニクソンまでもが便乗したニクソン1958年南米諸国歴訪時、ペルーでパレード・カーにエドセル・コンバーチブルを起用したが、ペルー人民反米デモ組織してニクソン乗るエドセルに卵やトマト投げつける事件起こした。後にニクソンは「彼らはきっと私ではなく、車(エドセルに対して卵をぶつけていたのだろう。車も彼らが投げていたのがレモンではなくトマトでさぞ嬉しかったことだろうね」とジョーク飛ばしたザ・ニューヨーカー所属漫画家、フランク・モデル(英語版)はエドセル発売直後1957年9月7日付けの同誌にて、「今週は皆にとって大きなニュース起きたロシア人大陸間弾道弾持ち、我々はエドセル持った」と風刺漫画描いた年々デザイン過激化進んでいた当時アメリカ車中でもエドセルデザインは特に尖鋭的なものであった元より1958年フォード車(英語版自体が、前年1957年式より採用されボンネットの上ヘッドランプ載る出目金」の様なデザイン踏襲し、2灯式ヘッドランプ化とテールフィン組み合わせてフォード・モーター自身も「ディスティンクティブ・ルック(独特の外観)」と称したものを採用、他のメーカーディビジョン概ね類似したフロントフェイスを採用しており、「1958年アメリカ車=2灯式の出目金ランプ」とも言える状況作りだしていたが、フォード・モーター更なる差別化を図るため、このデザイン基礎として1958年マーキュリーグリルバンパー一体化させた「ジェットエンジン」を思わせるクロームメッキ・バンパーを前後装着した「ジェットフロー・バンパー」スタイル1958年リンカーン及びコンチネンタルは「キャント・デュアルヘッドランプ(普通の2灯式前照灯ではない)」と称する斜め2連式ヘッドランプ採用するという、前衛的デザイン集合体のような状況呈していた。このようなラインナップ連なる中でエドセルは「印象的なスタイリング」と称して販売されたが、中央馬蹄形開口部を持つ奇異なフロントグリルデザインは上記の様な酷評を受け、消費者には受け入れられなかった。フォード・モーターエドセルデザイン尖鋭性に過度期待持ちティーザー広告の手法でデザイン核心部をぼかしたまま発売迎えたが、開発初期段階から発売に至るまでの間にそのデザインコンセプトについて、肝心消費者の反応についてのリサーチ行っていなかった。殆どの購買者は発売日ディーラー店頭エドセル実物目の当たりにして、驚き失笑、そして失望目線を向ける事となったのである2007年エドセル発売50周年記念しワシントン・ポストピーター・カールソンは「Edsel : The Flop Heard Round the World」と題する寄稿行ったカールソンによれば当時ティーンエイジャーにとっては自動車所有青春目標全てであり、新聞雑誌テレビCM通じて大量に供給されるエドセルティーザー広告にストリップ・ダンサーを見ているかの如き興奮熱狂覚えていた。彼らは仲間と友に開店準備中のエドセル・ディーラーに日参したが、エドセル車はヴェール包まれディーラー建物には外壁沿って立入禁止ロープ張られていた。最終的に、彼らはエドセルのディーラーマンの計らいカーテン越しエドセル車を覗く事を許されたが、大きなOの字のフロントグリル目の当たりにした途端はじめに幾らか驚きとともに深い失望抱き最後には「裏切られた」という怒り感情を持つに至った。彼ら若者率直な感情米国民多く共有するのには、さほど時間は掛からなかった。2008年8月デイリー・テレグラフアンケートでは、1958年エドセルは「史上最も醜い100台の車」ランキング17位に選出されており、同誌も「多く米国人特別な車を望んだのに、フォード・モーターは単にフォード車を手直ししただけのものを提供したグリルデザイン新聞ではとても書けないようなモノ比較された。結果としてエドセルは彼らを激怒させることになった」と記している。 1958年フォード・モーター各部門のフロントデザイン フォード・フェアレーン500スカイライナー フォード・サンダーバード エドセル・バミューダ マーキュリー・パークレーン コンチネンタル・マークIIIコンバーチブル 最終的にエドセルフロントエンド全体は、元々のコンセプトカーとは似て非なるものとなったエドセル計画のオリジナル・チーフデザイナーのロイ・ブラウン英語版)は、「2街区先からでも容易に見分けられるような存在感のあるデザイン」の実現目指し1954年頃より中央細長く、非常に繊細な開口部持たせる事を想定して数多くのデザインイラストを描いていた。だが、車体エンジニア達は小さな開口部起因するラジエーター冷却効率低下によるエンジン冷却問題の発生恐れ当初ブラウン意図していたデザイン拒否し1955年クレイモデル英語版)の段階からグリル開口部大きく広げるデザイン変更行い現在の「馬の首輪」という不名誉な称号もたらす事となった。その一方でブラウン自身紆余曲折経て生まれたエドセル生産車デザインに対して大きな誇り愛情抱いており、1960年エドセル計画放棄された際には「2日悲しみ打ち拉がれた」と家族語っていた。フォード・モーターエドセル失敗責任チーフデザイナーブラウン帰する事はせず、彼を英国資本BMC送り出したBMCミニ前に苦戦強いられていたイギリス・フォード派遣1962年ブラウン新天地フォード・コーティナ Mk1デザインした。コーティナはMk1だけでも約93余り後継モデル含めると20年渡り世界中で生産される英国史上でも特筆値する成功収め数百万米ドル利益フォード・モーターもたらした1963年ブラウンはコーティナMk1ベースに、1961年フォード・サンダーバード(三代目モデル通称ビュレット・バーズ(英語版))のエッセンス加えてリデザインしたフォード・コルセア手掛けた。こちらも累計31台を売る大きな成功収めコルセアという車名からエドセル連想される汚名を雪ぐ効果もたらすこととなったブラウン設計したコーティナMk1アメリカ本国にも逆輸入され全州のフォード・ディーラーで販売され1970年フォード・ピント登場するまで、フォード・ギャラクシー日本車欧州車との間になお存在し続けた最低価格帯のラインナップを担う存在となった主題となった垂直フロントグリル1959年式では改善されたが、1960年式では廃止された。偶然にも、1960年フォードベースにしたエドセル全体的に1959年ポンティアックに非常に似ていた。逆に1968年式ポンティアックは、1959年エドセル似た垂直グリル採用した。しかし、皮肉な事に年式ポンティアックエドセルのような極端な不人気車とはならなかった。また、米国自動車評論家であるダン・ジェッドリッカは、「今日エドセル基礎デザイン酷評する人の多くが、1958年最高潮となったゼネラルモーターズ過剰にクロームメッキ多用したオーバーデコレーションモデルの存在考慮しておらず、エドセルのホースカラー・グリルを安易に批判する人々多くが、1930年代のブガッティ・タイプ57Gの蹄鉄グリル、あるいは垂直グリルデザイン基礎として1950年代極限られた台数のみ製造されたゲイロード・グラディエーターや、パッカード・プレディクター(ポーランド語版)の存在知らないであろう」と指摘している。 1959年式ポンティアック・カタリナ・サファリ(英語版1959年ポンティアックとの類似性指摘される1960年式エドセル・レンジャー 1959年式エドセル・ヴィレジャー 1959年エドセルとの類似性指摘される1968年式ポンティアック・ボンネビル(英語版) テレタッチのプッシュボタン式AT操作盤は非常に複雑な機構であり、革新的ではあったが後に複数問題引き起こしたプッシュボタン配置されていたステアリング・ホイールハブは、伝統的にホーン・ボタンが配置される場所であり、人間工学上はヒューマンエラー誘発しうる問題がある事が判明した一部運転手警笛を鳴らそうとして誤ってギアチェンジしてしまう事があった。エドセルパワフルなエンジン搭載しており高速ではあったが、変速プッシュボタン路上競技にも適しておらず、シグナル・ドラッグレースに興じる若者からは「Dがドラッグ(牽引)、Lがリープ(跳躍)、Rがレース用だ」というジョーク生まれたであった制御ハーネスエキゾーストマニホールドに近すぎたために、熱害で誤動作起こし時に完全に故障する事例すら報告された。ATのリンク機構を動かすテレタッチの作動モーター信頼性低くドライバーモーター過負荷避けるために始動から発進するまでの間に「PからR、N、Dへ順番ボタンを押す」面倒な操作を行う必要があった。また、モーター駆動力にも問題があり、坂道でPボタンのみで停車する車体はAT内部でロッキングギアが噛み合う事で空走阻止されるが、空走負荷掛かった状態のロッキングギアを解除できるモーターが強力ではなかったため、このような状況陥るとPレンジ解除できず発進不能になるか、最悪場合モーター焼き付く故障引き起こした。そのため、ディーラーでは購入者に対してPボタンを押す前にパーキングブレーキを必ず掛けるように指示されてもいた。結局、テレタッチ・システムは1959年式では廃止され極めて短命に終わった。但し、テレタッチとはボタン位置異なるものの、プッシュボタン操作盤モーターによる遠隔操作用いたAT変速機構1956年から1965年クライスラーのパワーフライト自動変速機英語版)とトルクフライト自動変速機英語版)、あるいは1956年パッカードのウルトラマチック自動変速機英語版)でも採用されており、モーター駆動力起因するPレンジ問題はどのシステムにも共通の欠点であった事は付記しておく必要があるパッカードはこの問題最後まで解決できず、同社にATを供給したオートライト英語版)は1957年にウルトラマチックの販売終了する早々に金型補修部品廃棄してしまい、製品ライフサイクル意図的に下げる事で問題終息図ったクライスラーはPレンジ自体プッシュボタン設けず、Pレンジへの操作原則として手動レバーとする事で問題対策とした。クライスラーシステムはロッキングギアがATに内蔵される1960年式まではフロア上のレバー変速機アウトプットシャフト上に内蔵されドラムブレーキ1960年から64年掛けてプッシュボタン併設され小型レバーでPレンジのロッキングギアを操作するものであったアメリカ車におけるプッシュボタンセレクター実装例 1956年式パッカード・エグゼクティブ(英語版)のウルトラマチック。Pボタン有しエドセル同様の問題抱えていた。 1956年式クライスラー・ウィンザー(英語版)のパワーフライト。Pボタンはなく、右下ステッキレバー駐車ブレーキ操作した1958年式エドセル・レンジャーのテレタッチ。パッカードにおけるPボタン先例生かされる事は無かった1964年式インペリアル・クラウン(ドイツ語版)のトルクフライト。左側レバーでPレンジ操作した1958年式のエドセル・ステーションワゴンのテールランプにも苦情沸き起こった。そのレンズブーメラン形だが、車体内側向けて折れ曲がるようにデザインされた。結果として後続車両からは一定の距離から見ると、後部方向指示器が示す点滅が、曲がる方向反対方向指し示しているように見えた左折方向指示出した際、その矢印形状右折示している様に見え、逆もまた同様であった。しかし、フォードベースステーションワゴンエドセル部門設計陣が後部から独特な外観与えるための余地はほとんど残されていなかった。フォード部門経営陣エドセル部門の為だけにボディ板金金型変更する事は出来ない主張したためである。結果としてエドセル部門設計陣がデザインの変更許され箇所は、テールランプトリムのみであったブーメラン加えて個別方向指示器装備する事でこの問題回避できる余地はあったが、米国自動車産業1958年時点そのような部品供給していなかった。恐らくこの問題エドセル市場投入されるまで真剣に考慮された事はなかったとみられる当時整備士410立方インチE-475警戒していた。なぜなら、このエンジンシリンダーヘッドは完全なフラットヘッドであり、シリンダーヘッド側に明確な燃焼室存在しなかった。これだけであれば多くディーゼルエンジン余り変わらないが、MELエンジン独特な点としてシリンダーヘッドピストン頂面に対して斜めに配置され片側スキッシュエリア英語版)が設けられピストン組み合わせる事で楔形燃焼室形成していた。従って、燃焼シリンダーヘッドではなく完全にシリンダーボア内で行われたこのような構造エドセル同年1958年発売されシボレー348立方インチW型エンジン英語版)に類似しており、製造原価燃焼室内のカーボン形成低減に役だった可能性があった反面多く整備士このような機構馴染みがなかった。MELエンジン楔形燃焼室当時フォード・モーターにより高度に計算され形状となっており、安易にこの形状を崩す社外品のフラットトップピストンを組み込むと、圧縮比増大にもかかわらず、却って全体性能低下する結果招いた後年になってフォード・モーター設計した燃焼室形状元に高圧縮比とした社外ピストン発売されたが、その特性正しく理解されていなかった1950年代当時従来シリンダーヘッドのヘッドチューンに慣れた多くチューナー気難しいマローダーV8忌避していた。

※この「デザイン論争」の解説は、「エドセル」の解説の一部です。
「デザイン論争」を含む「エドセル」の記事については、「エドセル」の概要を参照ください。

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