おお‐やけ〔おほ‐〕【公】
読み方:おおやけ
《「大宅(おおやけ)(大きな家)」の意から、皇居・天皇・朝廷、さらに公共の意に転じた語》
[名]
2 個人の立場を離れて全体にかかわること。社会。公共。世間。「—のために尽くす」⇔私(わたくし)。
3 表だつこと。表ざた。「—の場に持ち出す」「事件が—になる」
「おほかたの御心ざま広う、まことの—とおはしまし」〈栄花・月の宴〉
5 朝廷。
こう【公】
読み方:こう
1 国や官にかかわること。おおやけ。「公営・公私・公式・公認・公務・公立/奉公・官公庁」
2 世間一般。「公演・公開・公害・公共・公衆・公然・公表・公論」
5 君主。また、貴人。大臣。「公子/王公・三公・乃公(だいこう)」
6 人を敬って呼ぶ語。「菅公(かんこう)・君公・尊公・尼公・老公・主人公」
[名のり]あきら・いさお・さと・たか・ただ・ただし・とおる・とも・なお・ひと・ひろ・まさ・ゆき
[難読]公孫樹(いちょう)・公達(きんだち)・公卿(くぎょう)・公家(くげ)・公方(くぼう)・公司(コンス)・公魚(わかさぎ)
こう【公】
く【口/工/▽公/▽孔/功/×垢/紅/貢】
きみ【君/▽公】
公
公
公
公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 14:44 UTC 版)
公(こう)は、古代の中国語では個々に細かく分かれた「私」を包括した全体を意味する語である。また、一部に偏らないという意味を含む。このことから「公平」という熟語を生ずる。
- ^ 朱芳圃 『殷周文字釈叢』 中華書局、1962年、94-95頁。
方述鑫 「甲骨文口形偏旁釈例」 『古文字研究論文集』 四川人民出版社、1982年。
徐中舒主編 『甲骨文字典』 四川辞書出版社、1989年、71-72頁。
季旭昇撰 『説文新証』 芸文印書館、2014年、86-87頁。 - ^ 信玄公(武田家)ゆかりの場所(甲府市公式サイト)、黄門さま(茨城県常陸太田市公式サイト)「徳川光圀公」の表記あり。
公(こう)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 17:05 UTC 版)
貴族や(古代の)大臣に対し使う。近世以降では、「忠犬ハチ公」のような愛称的な用例もある。近衛文麿や西園寺公望を「近衛公」「西園寺公」と呼ぶのは公爵の略で、侯爵に対して「某侯」、伯爵には「某伯」、子爵には「某子」、男爵には「某男」と、爵位に対応して同様の言い方があった。
※この「公(こう)」の解説は、「敬称」の解説の一部です。
「公(こう)」を含む「敬称」の記事については、「敬称」の概要を参照ください。
公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 03:48 UTC 版)
韓国併合により1910年8月、「公」位を受けて恩賜公債84万円を賜り、日本の公族の身分となった。李堈家は、併合前の財産と恩賜公債の利子、慶尚南道や咸鏡南道の漁業権を貸与することで年間4万円の収入があったが、用途については李王職が監督を行っていた。李堈はそれに反発し李王職の干渉を廃するよう要求している。一方で李堈は李王職の承諾を得ないまま借金をして遊興費に当てる、漁業権の二重貸与で手付金を騙し取るなどの行為を行っていた。また屋敷に妓生を呼んで宴会を行ったり、気に入らない事務官に銃口を向けて威嚇するなど乱行が目立った。 1914年には李王職が李堈の品行を是正するための協議を行ったが、李完用らは李王職の日本人官吏が考えた手ぬるい方法では公家は破産すると反発し、公家の財産を保全するためには李堈を隠居させるしか方策がないと結論づけた。ところが当時、王公族には隠居の法的根拠がなく、民法の規定である満60歳に達していない李堈を隠居させることはできなかった。また兄の李王が王家の祭祀を代行するよう頼んでも病気と称して拒絶し、王家の行事についてもたびたび欠席した。一方で皇室の行事には積極的に参加した。明治天皇が崩御した際は、王公族の中でただひとり、一年間喪服と喪章をつけて喪に服していたという。 1919年11月、朝鮮独立運動組織「大同団(朝鮮語版)」が李堈に「金は出すから、朝鮮から出て独立運動の象徴となってほしい」と彼を騙し、上海に拉致しようとした。李堈は国境付近の中国安東県で保護されたが、特に処分などは行われなかった。しかし監視が厳しくなったことには耐えられず、一ヶ月後には生活が保証されるのであれば公の身分を捨てて平民になりたいと朝鮮総督府に要望し、1925年5月15日には摂政宮裕仁親王に同様の趣旨を述べた陳情書を提出している。李王職と李王は始末書を書かせてことを収めようとするが、李堈は不満を漏らしてこれを受け入れなかった。12月4日には朝鮮総督府に呼び出され、陳情書を取り下げるよう促された。この時李堈は素直に非を認め、陳情書の取り下げに応じている。 一方で私生活の乱行も収まらず、1925年頃には7名の妾のために毎年9200円の支出を行い、1927年には李王家から8万円の経費を支出してもらうことでようやく家政を維持する有様であった。恩賜公債も債務整理のために全て売却されている。 王公家軌範制定後の1930年6月12日に隠居し、公位は長男の李鍵が継承した。隠居しても公族の身分はそのままであり、殿下の敬称で呼ばれた。また、李王家から年間12万円の生活費が支給されている。
※この「公」の解説は、「李堈」の解説の一部です。
「公」を含む「李堈」の記事については、「李堈」の概要を参照ください。
公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 18:41 UTC 版)
キエフ大公国は、その政権下に、東スラヴ人、フィン・ウゴル人、バルト人の諸部族の住む広大な地域を組み込んでいた。各地の都市を軸とする諸公国の長はクニャージ(公)といい、ルーシの地全域(キエフ大公国)を統べるキエフの公は、ヴェリーキー・クニャージ(大公)の称号を帯びた。しかしこの称号は、しばしば他者に僭称されることがあった。また、大公・公の権力は相続制だったが、キエフ大公国初期には末子相続・兄弟相続が伝統的な相続法として採用されており、多くの相続争いを引き起こした。ヤロスラフ1世(キエフ大公在位:1016年 - 1054年)は長子相続の採用を提唱し、またウラジーミル・モノマフらはリューベチ諸公会議(1097年)を開催し 、相続に端を発するルーシ諸公の内紛をとどめようとしたが、大局的には相続争いがやむことはなかった。12世紀半ばにはキエフ大公国は分裂期を迎え、約15の公国が形成された。中にはさらに内部に分領公国を抱える公国もあった。各公国はリューリク朝に連なる者が公の座にあった。このうちの有力な血統は、チェルニゴフ公国のオレグ一門(ru)(始祖:オレグ・スヴャトスラヴィチ)、スモレンスク公国のロスチスラフ一門(始祖:ロスチスラフ・スヴャトスラヴィチ)、ヴォルィーニ公国のイジャスラフ一門(始祖:イジャスラフ・ムスチスラヴィチ)、スーズダリ公国のユーリー一門(始祖:ユーリー・ドルゴルーキー)だった。
※この「公」の解説は、「キエフ大公国」の解説の一部です。
「公」を含む「キエフ大公国」の記事については、「キエフ大公国」の概要を参照ください。
公
出典:『Wiktionary』 (2021/09/19 10:45 UTC 版)
発音(?)
名詞
熟語
公
公 |
「 公」の例文・使い方・用例・文例
- 子どもたちが公園のあたりを走り回っている
- 公正な,公明正大な
- 公認簿記学校
- 公園を横切る
- 公判は正午に休廷となった
- 公害問題の政府顧問
- その男の子は公園に妹と二人だけになった
- 公園までぶらぶら歩く
- 事故原因の公式発表
- 公害対策
- 市当局はその金を新しい公園建設に当てた
- その公園の面積は広い
- 彼は公演の成功を確信している
- 公売,競売
- 公職に就いていることを記す記章
- 公園を設計するとき彼らはありったけの知恵を絞った
- これは非常に公式な発表のはずだ
- 公共の利益
- その公園は二つの町の中間に位置している
- 公平に
- >> 「 公」を含む用語の索引
- 公のページへのリンク