公
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/05 14:44 UTC 版)
概要
漢字の成り立ち
漢字の「公」は円形の容器(甕)を象る象形文字で、この文字を「おおやけ」を指す単語に当てるのは仮借による。『説文解字』では「八」と「厶」とを組み合わせた会意文字と説明されているが、甲骨文字や金文の形を見ればわかるようにこれは誤った分析である。[1]
「国家」
個々人の「私」に対する全体としての「公」は、のちに転じて国家を指すようになった。また、国家の官職に就いている士を公士といったり、国家に属する民を公民といったりするようになった。さらに、封建制のもとでは国家の支配者である君(君主)が国家を体現する存在であることから、君のことを公という用法が生じた。
古代中国の理念
「王」の称号をもつ君は天子のみであったから、春秋時代までは周以外の国の君は公とのみ称した。
天子である王(のちには皇帝)も君であるから公であり、天子の家である朝廷を公上と尊称したり公家と呼んだりすることができる。
中国における公の称号
儒家によって理想化された周の封建制理念においては、諸国の君は周の王である天子によって爵(爵位)を授けられた諸侯であると見なされるようになった。そこにおいて諸侯の爵位は公・侯・伯・子・男の五等爵に分かれていたとされる。公の爵位は魯公など周王室の親族出身の諸侯にのみ許される諸侯の最高位であると考えられるようになった。
天子の国である周を除く諸国では、君主の称号として王に代わって公がもっぱら用いられた。戦国時代に有力な諸侯が王の称号を名乗ったため天子による「王の称号独占」は消滅した。さらに漢では有力な皇族や功臣が諸侯として王に封ぜられたので、公の位は王に継ぐ諸侯の称号として皇族や功臣に与えられるようになった。
その後、爵位に関する制度の変遷と共に様々に内実を変化させつつ、20世紀初頭の清の滅亡に至るまで、公の称号は皇族や功臣に与えられる爵位として用いられていた。
日本において
周の最高位にある3人の大臣が三公と呼ばれたことから、公は大臣の尊称としても用いられるようになった。公卿は三位以上及び参議に任ぜられた人への敬称とである卿と組み合わせた言葉であり、また公家という呼び名の元になっている。後には身分の高い人や年配の人に対して広く用いられる尊称となった。今では廃れたが店の主人をさして「主人公」と呼ぶ用法があった。
奈良時代から平安時代前期には、藤原不比等(文忠公、淡海公)、藤原基経(昭宣公、越前公)といった九名の公卿に、諡号としての公が贈られている。平安時代以降、位階に関わらず自らの主君への尊称として名の下に公と付けて呼ぶ例が生まれ、江戸時代まで続いている。水戸藩では主君への諡(おくりな)に「公」を用いていた(徳川斉昭であれば「烈公」)。
武家政権(封建制)の時代、特に鎌倉時代末期以降に、将軍を公方(くぼう)と呼ぶようになる。これは、将軍の権威が増したことにより、国家を体現する公としての性格を将軍が得たことを示している。この際、日本独自の感覚として「私」と「公」が対立関係に転化したと思われる。
明治時代以降においては、華族のうち公爵を受爵した人への敬称として使用する(近衛文麿であれば「近衛公」)。また日韓併合後、李朝王室・大韓帝国帝室であった李王家には王公族の身分が与えられたが、分家の2家の家長である男性について「公」の称号が与えられた。第二次世界大戦後には華族も王公族も廃止されたため、公の敬称や称号を受ける人間はいなくなった。
日本語の中の「公」
- 「対立関係に転化」に補足して、後代の用例として「滅私奉公」「公私混同」という使い方がある。
- 「忠犬ハチ公」のように動物や友人に対する愛称としての用法。
- 「先公」(先生の意)や「ポリ公」(警察官の意)、「ヤー公」(ヤクザの意)などの蔑称としての用法。
- 日本史上の、とりわけ郷土の偉人に対する敬称としての用法[2]。
- ^ 朱芳圃 『殷周文字釈叢』 中華書局、1962年、94-95頁。
方述鑫 「甲骨文口形偏旁釈例」 『古文字研究論文集』 四川人民出版社、1982年。
徐中舒主編 『甲骨文字典』 四川辞書出版社、1989年、71-72頁。
季旭昇撰 『説文新証』 芸文印書館、2014年、86-87頁。 - ^ 信玄公(武田家)ゆかりの場所(甲府市公式サイト)、黄門さま(茨城県常陸太田市公式サイト)「徳川光圀公」の表記あり。
品詞の分類
- >> 「公」を含む用語の索引
- 公のページへのリンク