扁額
(奉納額 から転送)
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扁額(へんがく、満洲語:ᡳᠯᡝᡨᡠ᠋ᠯᡝᡥᡝᠨ, iletulehen)は、建物の内外や門・鳥居などの高い位置に掲出される額(がく)、看板であり、書かれている文字はその建物や寺社名であることが多いが、建物にかける創立者の思いなどを記すことがある。扁額は神社、寺院、城門、茶室などの伝統建築のみでなく、学校、体育館、トンネルなどの近代建築においても掲げられる。特に神社に掲げられている額を「神額」(または「社額」)、寺院に掲げられている額を「寺額」(または「山号額」)という。扁額の文字は著名人が揮毫することがあり、扁額そのものが書跡としての文化財の扱いを受けることがある[1]。扁額は奉納したものが掲げられることがあり、特に区別して奉納額ということもある[2]。
扁額は中国に由来し[3]、日本、ベトナム、韓国などでも見られる。清朝では、複数の言語が表記されたものも作られた。図案(意匠)としては神職であった氏族や家(いえ)が家紋として用いることがあるほか、小出氏の使用した紋として有名である。
著名な扁額
扁額のために著名になり、あるいは通称がついた建造物がある。
- 首里城の城門の1つである守礼門は、古来の名称は「首里門」、愛称は「上の綾門」(いいのあやじょう)である[4]が、扁額に「守禮之邦」とあることから、門自体がこのように通称される。
- 筥崎宮の楼門は、扁額に「敵国降伏」とあることから「伏敵門」とも通称される[5]。この扁額の切手については筥崎宮#筥崎宮の勅額切手を参照。
脚注
関連項目
外部リンク
奉納額
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坂町の八幡宮に1891年(明治24年)に首藤蔵之進の門人宮田玉吉が奉納した額と、1895年(明治28年)に河野幸八が奉納した額が残っている。 宮田友吉の弟玉吉が、明治年間に八幡宮に掲げた奉納額では、宮田家に伝わる柔術の伝来の過程を次のように記載している。 難波流 宮崎儀右衛門満義 承伝 首藤蔵之進満時 渋川流 承伝 宮田多四郎国時 承伝 宮田玉吉時正 承伝 宮田友吉国治 首藤蔵之進満時 渋川一流 承伝 宮田玉吉時正 これによれば、難波流と渋川流を学んだ宮崎儀右衛門が、宮田家の宮田多四郎とその弟である首藤蔵之進に武術を伝え、宮田多四郎の子息である宮田友吉と宮田玉吉兄弟に武術が伝わったと記した上で、首藤蔵之進の門弟である宮田玉吉は渋川一流を教授しているのだと記載している[要出典]。 また、同じく、明治期に坂八幡宮に奉納された川野幸八正国の奉納額(現存せず)では、渋川一流元祖首藤蔵之進と記載した上で、川野の門弟の氏名を記載していた[要出典]。 系図上では、川野幸八、宮田友吉及び宮田玉吉は首藤蔵之進の弟子であるが、このうち、川野幸八や宮田友吉は松山にいた首藤からではなく、実際は、村に在住していた宮田多四郎の門弟であったと考えられる(宮田玉吉は、父の宮田多四郎が早く亡くなったため、長く教えを受けることができなかったことから叔父の首藤から教えを受けたと思われる。)首藤を元祖とした理由については、現時点、判然としていないが、坂町では首藤が松山藩柔術指南役であったと伝えられており、いわば郷土の偉人とされていること、川野や宮田友吉も、多四郎没後も首藤から教えを受けており、終局的には首藤が自己の師匠とみなしていたからと思われる。[独自研究?]
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