作家論・業績
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杉浦康平の活動は1950年代後半に始まる。当時は「商業デザイン」という名称が定着していたように、アドヴァタイジングがデザイン表現の主流だった。それに対して杉浦ら20代後半の新世代は、文化活動を主題にしたヴィジュアルデザインの鉱脈を果敢に掘り起こしたのである。 その旗手としてリーダシップを遺憾なく発揮したのが杉浦であり、わが国の旧弊なデザイン風土に新風を送り込むことになる。膨大な数にのぼるブックデザインと“柔らかい地図”という新機軸を打ち出した「時間軸変形地図」をはじめとするダイアグラム(インフォグラフィックス)がその双璧だ。後者の「地図」は、ダイアグラムをヴィジュアルコミュニケーション・デザインの一翼を担う存在としてわが国に定着させるうえで重要な布石となった。 杉浦の際だったクリエイティビティのバックグラウンドに、東京藝術大学で建築を学んだことと、少年時からの音楽への格別の関心がある。総合芸術である建築を学んだことは、〈内から〉の三次元的で理知的なデザイン思考をはぐくむことに。また、あのパウル・クレーを彷彿させずにはおかない秀でた音楽的感性は、若手の登竜門であった日宣美展(日本宣伝美術会主催、1955年)でグランプリ「日宣美賞」を受賞した「LP JACKET」をはじめ、「ストラヴィンスキー特別演奏会」、「第1回東京現代音楽祭1960」ほかの音楽関連ポスターおよびレコードジャケットなどに多くの清新な世界を結晶させる。 そして、1960年代後半の西ドイツ・ウルム造形大学での二度にわたる指導体験を経て、自らの血脈に宿るアジア的美意識を喚起された杉浦は、“表紙は顔である”とする独自のコンセプトにもとづいて目次や記事内容と響き合う表紙デザインを雑誌で試みる。『SD』『都市住宅』や『季刊銀花』が代表例である。 雑誌に続いて、1970年代より縦組による明朝体活字の美しさを引き出すブックデザインを本格的に展開。くわえて、書物の三次元性を踏まえ、外回りだけの意匠ではなく、本文組を起点とするトータルで理路をきわめる造本設計を究め、同時代デザイナーの指標となる方法論を次々と切り開くとともに、折からの日本社会のブックデザインへの関心の高まりを牽引する。『伝真言院両界曼荼羅』の壮麗な伽藍のような重層的構造はその白眉である。 グラフィックデザインの華とされるポスター制作の点数は少なくなるものの、それでも「第8回東京国際版画ビエンナーレ」や「伝統と現代技術——日本のグラフィックデザイナー12人展」など、印刷システムに精通した杉浦ならではといってよい、特異な製版技術を駆使した意欲作を機会あるごとに発表していることは注目される。 上記した音楽的感性は、流動し、転調を繰り返しながらも互いに照応するかたちへの鋭い眼差しへと結びつく。“視知覚の則“を見極めようとする古今東西の各種図像への傾倒、なかんずく1970年代半ば以降に本格化する、マンダラをはじめとするアジアの図像群がはらむイコノロジーへの、破格のスケールをともなう精査探究がそれだ。もとより、ウルムで体験した価値観の齟齬(そご)とアジア諸国取材旅行で得た認識の深まりもあずかっており、アジアの宇宙観、知覚論、文字論、ノイズを含む音楽論…へとさらなる深化を遂げてきた。そして近年は「多主語的なアジア」をキーワードとして、思考の新しい道をひらいている。(また、「一即二、多即一」という東洋的語法で、自らの造形思考を要約している。)欧米の厳密な二進法的世界観とは異なる、数えきれないほどの〈幽かなる存在〉が宇宙の森羅万象を満たしているという固有の根源への洞察である。 このような一連の探究成果は、松岡正剛との共著『ヴィジュアルコミュニケーション』や、自著『日本のかたち・アジアのカタチ』を嚆矢(こうし)とする〈万物照応劇場〉シリーズなどの幾多の著作(共著を含む)の、奔流のような刊行へと結実している。 また、これら著作とともに企画構成した展覧会・公演カタログ、ポスター、関連書にはアジア固有の世界観が、「京劇」を始めとして、独特の形や色彩を帯びる類いないデザイン手法に映し出されており、国内外の多くのクリエイターに影響を与え続けている。 1970年~80年代には、アジアに目を向けた写真家(加藤敬、管洋志ほか)の作品集の編集・構成、展覧会デザインを積極的に行っている。 1980年代から杉浦独自の活動は国際的にも注目され、グローバルな広がりを見せるようになった。そして、講演や展覧会企画構成をとおしてアジア各地のクリエイターとの密接な交流を深めている。私たちの文化の〈共通する根〉への熱いまなざしは、心あるアジアの精鋭たちの共感を呼び、杉浦は彼らを結び合わす精神的支柱となっていることを銘記したい。(臼田捷治)
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作家論・業績
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 14:49 UTC 版)
幅広い作風でジャンルを超えて活動。油絵、オフセット印刷、テクナメーションや立体など技法は多様である。また先行する作品を引用や模写の形で作品に取り入れることも多い。絵を描くことを愛だと表現し、理論や状況分析によって制作する立場はとらない。また、興味をもった対象は膨大な量をコレクションする。それは作品のモチーフになり、時に引用される。1980年代後半から滝を描き続けたときは膨大な滝のポストカードを収集し、コレクション自体も作品化した。2000年からの「暗夜光路」シリーズでは、故郷・西脇市で幼少時によく通った模型店付近にあるY字路を集中して描いた。 何度もインドを訪れている。宇宙人や霊的な存在についての言及もあり作品の評価の際にも関連が指摘される。本人も霊感が強く、心霊と会話することが出来ると言う。きっかけは1970年代に宇宙人に、首のところへ送受信装置を埋め込まれ、それにより霊界との交信が可能になったという(『大霊界〜丹波哲郎の世界』の対談より)。それらに関するいくつかの著書も出している。 1978年に出版されたインドの神秘家Osho講話録「究極の旅」邦訳で、次のような推薦文を書いている。禅の思想は坐禅を通してのみ体感できるものであるが、それでも尚、体感できないのが禅である、Oshoは生まれながらに人間は悟った存在者であるということを体感させる方法と、そのプロセスを「十牛図」によって説き明かし、とてつもない世界に導引してくれる、読者は今そのスタート台から一歩足を踏み出している自分を発見しているはずだ、と述べている。 メディア型美術家と評されるほど、各種メディアへの登場頻度が高い。自身の公式サイトにて発表している、ひと言風の日記「YOKOO'S VISION(横尾忠則 昨夜・今日・明日)」は更新頻度も高く、訪問数も高い。 『週刊少年マガジン』の表紙や、マイルス・デイビスのアルバム『アガルタ』、1974年 オノヨーコと虹のワンステップフェスティバルの大ポスターはほとんどの駅に張り出された、サンタナのアルバム『ロータスの伝説』『アミーゴ』などのジャケット、1979年貴ノ花・1981年千代の富士の化粧廻し、宝塚歌劇団のフェス手ポスター、マツダ・コスモスポーツの海外向けカタログなどもデザインしている。 また、多くの異なるジャンルの作家と交流を持ち、共同で仕事をしている。岡本太郎、谷内六郎、高倉健、三島由紀夫らを敬愛している。 2005年、資生堂が3月に発売した発毛促進剤「薬用アデノゲン」のテレビコマーシャルに対し、「アイデアやコンセプトが私の作品と類似している。広告の作り手の主体性とモラルを問いたい」と抗議。直後に資生堂はCMの放映をやめた。類似していると指摘した横尾自身の作品とは、鏡面床の空間に大量の滝のポストカードをビニールに差込み、壁面3面に展示するものであった。この件に関して、 アンディ・ウォーホル、荒木経惟など、数多くの芸術家が実践してきた手法であり、インスタレーションの手法としては一般的である。 1990年の「GOKAN」というエキジビションで、テレビCMを手がけたタナカノリユキは、底を鏡面にした作品をすでに発表している。 横尾は滝のポストカードだったのに対して、CMは商品対象になる人物たちのモノクロ顔写真である。 などのことから、模倣という指摘に疑問をもつ声も挙がっている。また、タナカノリユキは模倣を否定している。
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