作家・那須正幹の草創期
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こうした東京での暮らしは2年ほどで、まもなく「本人の承諾なしに勝手に異動を決めるような会社はやめちゃる」と会社の配置転換のやり方に反発し退社。広島市の実家に戻ってから家業の書道塾を手伝っていたが、書道の経験はそれまで皆無であり、このままでは父親の死後も塾は継げないと不安を感じていたところ、姉の竹田まゆみに誘われて広島児童文学研究会に参加。参加しようと思ったきっかけは、それまで作家と呼ばれる人たちに会ったことがなかったからという気軽なものだったが、ここで初めて児童文学を創作し『ヒバリになったモグラ』という作品を発表した。その内容は宮沢賢治の『よだかの星』にどこか通じるものがあり、ヒバリになったモグラが太陽に向かってどこまでも飛んでいき、やがては焼け死んでしまうことを髣髴とさせる結末である。そのせいか、同研究会の指導者たちから「この会は新しい児童文学を作ろうとしているんですよ」という批評を受けた。これ以来、那須の創作活動に於いては「新しい児童文学をつくる」ことが大きなテーマになった。 那須は幼少の頃に宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』を読み聞かせてもらったことがあり、このとき機関車が力強く走るイメージを思い浮べたことから、宮沢賢治の作品は子どもにとって印象に残る内容という感想を持っていたと思われる。ここに那須が初めて書いた創作が宮沢賢治の作品にどこか通じていた理由もあるのだろうが、それを“古臭いんじゃないか”と指摘されたことは、その後の那須が書く児童文学が、常にそれまでにない新しいスタイルを模索する強烈な動機づけとなった。そして同時に(30歳までには必ず本を出そう)と決意した那須は、まさしく30歳を迎える1972年に『首なし地ぞうの宝』で学研児童文学賞を受賞してデビューする。 その後、1975年に『屋根裏の遠い旅』(主人公が、日本が太平洋戦争に勝ったパラレルワールドに迷い込んだという設定。その世界の日本はベトナム戦争にも介入する。架空戦記ともいえるが執筆年代を考えると非常に重い作品)という児童文学作品を執筆し、これを皮切りに多数の児童文学作品を生み出すことになる。
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