作家選択の混迷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:54 UTC 版)
企画から開幕まで3週間で済ませた退廃芸術展と違い、こちらは1936年暮れから全国造形美術院を通じドイツ中の美術家に参加が呼びかけられたが、当初は実力のある作家の最高の作品を集めることが目的で、まだ美術院から除名されていなかった退廃芸術家らも排除されてはいなかった。 1937年に入り、芸術政策の締め付けを受けて、ナチス以前のように前衛傾向の作家が徒党を組む時代は終わらなければならない、という呼びかけに改められたが、実際に大ドイツ芸術展に応募した作品を見て、美術院総裁ツィーグラーやナチス系の画家、宣伝省などからなる選考委員会は頭を抱えた。かつてのグラースパラストでの公募展同様に前衛的(退廃的)な作品も多く集まり、退廃芸術一掃の宣伝が行き届いていない状態だった。 この様子を聞いたゲッベルス、そしてヒトラー自らミュンヘンにやってきて審査の模様を見たが、相変わらずの「退廃作品」の多さにヒトラーは「もう一年延期しろ!」と叫んだほどだったという。その後ヒトラーや側近たちの手で作品の大幅な入れ替えが行われ、なんとかヒトラーに気に入る形になった展覧会はヒトラー臨席のもと1937年7月18日開幕した。 ヒトラーは開幕演説で新しいドイツ民族の芸術の殿堂誕生を祝福したが、演説の多くは結局退廃芸術のことに割かれた。彼はダダイスムやキュビズムなどを、芸術の天性にまったく恵まれなかった代わりに話術の才能だけが発達した者たちが喧伝しただけの代物で、ドイツ民族にはまったく関係のあるものではないとし、大ドイツ芸術展開幕は芸術家気取りたちの最期となり退廃芸術掃討の始まりである、と怒号に近い調子で述べた。
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