作家・評論家としてのデビュー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/12 16:08 UTC 版)
「イザベル・パターソン」の記事における「作家・評論家としてのデビュー」の解説
1914年、パターソンは彼女の初めての小説である「カササギの巣」(The Magpie's Nest)と「シャドー・ライダーズ」(The Shadow Riders)の2作を出版社に売り込み始めたが、出版を断られ続けた。1916年になってようやく2作目の「シャドー・ライダーズ」がジョン・レーン社(John Lane Company)に採用され出版された。1作目の「カササギの巣」も同社から1917年に出版された:46。 第一次世界大戦後、パターソンはニューヨーク市に移り住み、彫刻家のガットスン・ボーグラムの下で働き始めた。当時ボーグラムはセント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂の彫刻を制作しており、後にラシュモア山のアメリカ合衆国大統領彫像を制作した。パターソンはニューヨークの「ワールド」(World)紙および「アメリカン」(American)紙にも記事を書いた。 1921年、パターソンは、「ニューヨーク・トリビューン」(後の「ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン」)紙の文芸編集者バートン・ラスコー(Burton Rascoe)のアシスタントになった。1924年から1949年までの25年にわたり、パターソンは「ヘラルド・トリビューン」紙の書評欄に「I.M.P.」の署名でコラムを書き続けた。パターソンは同時代で最も影響のある文芸評論家になった。当時アメリカ合衆国の文芸界は大拡張期を迎えており、アーネスト・ヘミングウェイ、F・スコット・フィッツジェラルドら多数の新世代作家だけでなく、ハーレム・ルネサンスを担ったアフリカ系アメリカ人やヨーロッパから押し寄せた移民の二世が様々な新作を発表していた。この頃のパターソンの友人には、著名なユーモア作家ウィル・カピー(Will Cuppy)もいた:92–5。1928年にはアメリカ合衆国の市民権を取得した(当時42歳)。 コラムでは辛辣なウィットを示し、神格化されていた人物を容赦なく批判することで知られた。また後に『機械の神』に結実する多くの政治的見解を主張した。パターソンが1920年代から1930年代にかけて発表した歴史小説にも、自由貿易に関する見解をはじめとする彼女の政治思想が予兆的に示されている。パターソンは、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトが世界恐慌中に実施したニューディール政策のほとんどに反対し、社会問題・経済問題への政府の関与を減らすことを主張した。
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