料理の鉄人 出演者

料理の鉄人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 14:24 UTC 版)

出演者

美食アカデミー主宰

初代美食アカデミーの主宰で、大袈裟に振る舞う演技が番組の人気に一役買っていた。挑戦者及びテーマ食材の紹介VTRではナレーションを務め、特に「私の記憶が確かならば… (〈Jadis〉 si je me souviens bien…)」で始まる言い回し(アルチュール・ランボオの詩『地獄の季節』)が有名。
2002年1月の特番で「主宰である鹿賀がフグの毒に当たり亡くなった[注 20]」ため、彼のという設定で、美食アカデミー新主宰として登場した。決め台詞は「私の願いが叶うならば… 」前主宰と比べて怪しげな仕草が目立つ。大部分のナレーションも受け持っていた前主宰とは対照的に番組内でナレーションをすることはなかった。

実況席

「F1調実況」を心がけていた。自身ができる料理は「カップめんを作るくらい」。一度だけ実況を兼ねて、審査員として試食をした回があった。
後述の主宰ボイコット試合では、解説と兼ねて、主宰代理を務めた。また、前述の福井アナと同様に、審査員を務めた回があった。
  • 冷蔵庫前レポート:太田真一郎(声優、ナレーター。沼田祐介が担当した第2回目と吉水孝宏が担当した1994年5月20日放送分をのぞいて全回出演。)
特番時は太田が鉄人側を担当し、挑戦者側のレポートはフジテレビアナウンサー阿部知代が務めた(なお阿部のほか近藤サト西山喜久恵藤村さおりも担当)

主な審査員(初期では特別顧問と呼ばれていた)

  • 岸朝子:番組アドバイザー。鉄人や挑戦者の紹介を数多く行っている功労者。福井から「料理記者歴40年」という枕詞で紹介されていた。平野の出演が減ってから(中期-)は末席での審査員としてほとんど出演。レベルの高い料理を審査した際のコメント「おいしゅうございました」が一躍有名となった。後期には細木数子石井好子らがその座に着くことが増え、出演は少なくなった。基本的には鉄人寄りの判定が多い(特に道場とはお互い懇意にしていることもあり非常に甘かったとの指摘がある)一方、中村孝明には厳しく、鉄人ワールドカップ決勝では、17-16でアラン・パッサールの勝ちと判定した。
  • 浅野ゆう子:スペシャルになると必ず登場する事から「ビッグマッチのレギュラー」と言われた。
  • 平野雅章:岸朝子に請われ、初期では最も多く審査員を務め、当初「かの(北大路)魯山人最後の愛弟子」という枕詞で紹介される(実際には最後の弟子とされる人物が他にもいると判明したことから、のちに「最後」の表現は削除された)。公言はしなかったものの「硬くてかめない」など、入れ歯であったのではないかとされるコメントを残している。
  • 石井苗子:初期に出演。挑戦者に対して辛口な評価が多かった。
  • 高田万由子:初期 - 中期ではほとんど毎回、主に2枠の審査員。「おいしい」「この味、私好きです」というコメントが多かったため、視聴者だったタレントなどからネタにされたという。留学先から帰国して出演したり、毎回審査に際して悩むが、ルール上禁止されている「両者同点」を付けたこともある。道場とはそりがあわない場面が見られ、時に厳しいコメントを行った際もほとんど相手にされず「(梅の味をそんなに効かせたいなら)あそこの梅干を取ってきて食べればいい」などと突き放されることもあった。
  • 栗本慎一郎:衆議院議員(当時)。番組全期間を通じて1枠の審査員を務めた。ほぼ月1から2回のペースで出演しており、1回だけ3枠の審査員を務めたこともある。中村孝明の作品に対してはデビュー戦から一貫して高い評価が多かった。
  • 景山民夫:栗本と並んで出演頻度が高く、主に栗本不在時の1枠審査員として、特番時にはゲスト審査員として登場。1998年に逝去した際には追悼のテロップが流された。
  • 秋元康:番組全期間を通して、不定期に年1から2回程度審査員を務めた。
  • 喜多嶋舞:2枠審査員として初期に数回出演。後に高田万由子へその枠を譲った。
  • 蔡瀾(チャイ・ラン):香港ゴールデン・ハーベスト社副社長(当時)。ほとんどの作品に否定的で「まずい」「おいしくない」も平気で言う。香港特番で初登場し、その強烈なキャラクター性から特番審査員の常連となった。激辛の審査で、特に坂井や陳には厳しかった。その一方で、道場には「素晴らしい、悪く言いたくても言えない」と高い評価を与えることが多く、アラン・パッサールに対して審査した3回とも20点満点の評価を与えるなど、辛口一辺倒の審査とは限らなかった。
  • 加納典明:後期の準レギュラー審査員。チャイ・ラン同様、辛辣なコメントが多く、特に鉄人には厳しかった。彼推薦の挑戦者を送り込んだこともある。
  • 梅宮辰夫:挑戦経験あり。審査員を務めたレギュラー放送最終回での最強鉄人決定戦・決勝では(チャイ・ランを含む)他の4人の審査員が20-19とするなか、ひとりだけ17-16と低い得点づけをしたり、続いて行われた世界最強シェフ決定戦でも、唯一アラン・パッサールの勝ちと判定したことがあった。
  • 細木数子:「テレビはコミュニケーションの場」と後期にノーギャラで出演。「まずい」といった発言も多く見られた。基本的にはチャイ・ラン、加納典明らと同様に辛口審査である。ちなみに細木本人も料理の腕は玄人はだしで、後に愛のエプロンなどでその腕を披露している。
  • 片岡鶴太郎:2枠または3枠の審査員として出演。味付けに関し時折苦言を呈することもあったが、鉄人挑戦者問わず賞賛するコメントを多く残している。ただしこの立ち位置は狙っていたものではなく「森田一義アワー 笑っていいとも!」にゲスト出演した際、1995年2月24日放送回のアスパラガス対決収録を振り返り、料理のクオリティに感激するあまり「自分なりにいろいろと考えてはいるが、いざ口にしてみると『おいしい』以外の言葉が浮かばない」ことを悔やんでいる。なおその際、対戦した鉄人が坂井であり、かつ対決に勝利したことをオンエア前にもかかわらず発言してしまい、隣にいたタモリにフォローされる場面もあった。
  • 石井好子:番組後期において、岸朝子のマネジメントを担当していた縁から不在時に末席で審査員を務めた。

鉄人に勝利した主な挑戦者

氏名の横のカッコ内は勝利時に対戦した鉄人

  • 程一彦(陳):「タコ対決」で陳に勝った、番組史上初の勝利挑戦者。十八番の「よそ見包丁(食材を見ず、周りに気を配りながら手元では包丁を振るう)」を番組でも披露。持ち込み可能なダシ1品として自らプロデュースしたコンソメを登場させた。企画当初は陳とともに、鉄人候補の一人であったが辞退している。
  • ジャック・ボリー(石鍋):世界でも50人弱しかいないフランスの国家最優秀料理人章・MOFを持つ。石鍋に勝った唯一の挑戦者。
  • 周富徳(道場):番組初期道場に敗戦した弟・富輝の仇を討つという名目で出演。弟や息子を引き連れて入場するなど当時の挑戦者の中でカリスマ性は高かった。プライベートで親友である道場との熾烈な対決を繰り広げるが、やはり互いに気は進まなかったようである。道場に敗れるも間もなくリターンマッチが組まれ、遂に勝利した。道場に初めて勝った挑戦者。このシチュエーションは後にフィクション小説として出版された。道場は本来、この黒星だけで番組を去る(1年間)予定だった。また周の弟子である丸山剛が周に先駆けて番組第1回の放送に挑戦者で出演したが石鍋に敗れている。
  • 神田川俊郎(坂井、陳、中村):総勢約400名もの料理人を束ねる「関西料理界のドン」として、複数回挑戦者として出場、道場や他の鉄人と数々の名勝負を繰り広げた。自身の門下生を中心としたグループ「神田川軍団」を毎週のように送り込んだ時期もある。これは、門下生たちに対して「進んで表に出てみなさい」という教育の一環であったという。道場のお品書きに対抗して、仕上がり間近に半紙に書をしたため「○○君、味は心や!」と絶叫するなどパフォーマンスが多かったが、料理のスピードは早く品数も多く、また常に料理をしながら片付けも進めており、制限時間が終了した時には厨房が片付き終わっていて番組スタッフは毎回うならされていたという。番組での通算成績は5戦3勝2敗(内訳は道場に1敗、坂井とは1勝1敗、陳と中村に1勝ずつ)で[注 21]、個人戦で複数の鉄人に勝った唯一の挑戦者である。挑戦者としてだけでなくスペシャル回ではゲスト解説者としても出演している。
  • 加賀田京子(陳):20人目にして初の女性挑戦者であり、当時23歳の最年少で鉄人に勝利した。陳と初めて対戦して勝利した時には、相手が若い女性ということで陳が油断していたのではないかと言われた。その後、加賀田が2回目の出演をした際も陳を再指名。再対戦では敗退しており、両者の対戦成績は1勝1敗の五分となっている。
  • 小林カツ代(陳):「家庭料理」の雄として登場。鉄人指名の際には「どなたでも結構です」(鉄人を相手にするのだから誰とやっても同じという理由で)と答えた。驚いた鹿賀主宰だが、鹿賀は「女性に弱い」とレッテルを貼られていた陳を指名。終始、小林の独特のペース(テーマは「ジャガイモ」。「肉じゃが」を期待され、それに応える)で進んだ、異色の回であった。小林の勝利。のちに息子のケンタロウも陳と対戦するものの敗北している。
  • 田崎真也(神戸):1995年に日本人として初めて『世界最優秀ソムリエコンクール』で優勝したソムリエ界のカリスマ的存在。ソムリエとして料理に合ったワインを選び出すだけでなく、その反対にワインに合った料理を創作することも得意であり、「中トロ対決」で神戸と対戦して勝利を収めた。田崎が作った各種料理には、それぞれ田崎自身が料理に合わせて選び出したワインが添えられていた。
  • アルトア・ルター(道場):日本在住のドイツ人のフレンチシェフ。道場の2敗目の相手。道場が「1年も経過したし、やめよう」と思っていた時期に対戦。道場はテーマ食材の「ピーマン」の本質が理解できず、ルターに負けてしまう。道場に「1年のみ」の条件を捨てさせ、結果、番組躍進のきっかけとなった、隠れた名勝負。勝者発表時にルターは「道場さん、ごめんなさい」としばらく抱擁、感動的な場面だったが、実はルター自身も作品に満足がいっておらず、そんな作品で勝ってしまったことに半分自省のつもりで謝罪したのだという。道場は後日談として「日本料理の技法にこだわって小手先の仕事に走ってしまった。心にドーンと落ちるような豪快さがなかった」と回顧している。なお、彼の妻は日本人である。
  • 清水忠明 (しみず ただあき)(坂井):かつてフランス最古の歴史を誇る名店「トゥール・ダルジャン」で副料理長を務めていたという経歴を持つ料理人で、「オマール対決」で坂井を初めて破った。その後、清水が副料理長を務めていた「トゥール・ダルジャン」の当時の料理長であったドミニク・ブシェも2000年正月の特別編に出場し、「神戸牛対決」で名誉鉄人の道場と名勝負を繰り広げた。
  • 城悦男(じょう えつお)(坂井、陳[注 22]):かつて石鍋や坂井と共に「クラブ・デトラント」を結成した、日本におけるフランス料理界の第一人者。「ソースの城(じょう)」の異名を取るほどの凄腕という触れ込みだった。初登場時には道場との「ブロッコリー対決」で敗れたが、後に坂井との「ワイン対決」で勝利を収めた。その後、鹿賀主宰2000皿試食記念対決(後述)では、石鍋・坂井と共にチームを組んで出場して陳率いる中華チームに対して勝利を収めている。なお、彼は前衛的な作風の料理を得意とする石鍋・坂井とは対照的に、伝統を重視する保守的な作風の料理を得意としていた。
  • 大田忠道(坂井):日本調理師協会副会長(当時)の肩書を持つ関西料理界の重鎮として出場、坂井との「タコ対決」で勝利を収めた[注 23]。番組後期には、神田川俊郎の後を継ぐ形で、全国5000名の門下生の中から厳選した精鋭70名で構成された「天地(あまつち)の会」(通称・大田軍団)をたびたび番組に送り込み、第3代の和食の鉄人である森本と何回も名勝負を繰り広げた。番組では森本の創作和食に批判的な立場を取っていたが、本人も弟子も西洋・中華食材を取り入れる自体には積極的である。
  • 脇屋友詞(陳):中国料理にフランス料理の要素を取り入れた「ヌーベルシノワ」の先駆者として知られ、過去3回出演し1勝2敗の成績を残す(坂井に2敗[注 24]、陳に勝利)。その後、2000年ミレニアムカップにて、フレンチの三谷青吾と共に新鉄人候補になったりするも、正式起用される前に番組そのものが終了。それから10年後、後継番組『アイアンシェフ』で改めて中華のアイアンシェフに起用され、同番組のアイアンシェフデビュー戦ではかつて脇屋に敗れた前中華の鉄人陳の息子陳建太郎を挑戦者に迎えての中華対決を制した。また『アイアンシェフ』の特番では本番組終了後アメリカ版アイアンシェフとして活躍中の和の鉄人森本と対戦して勝利を収めている。
  • 萩原雅彦(はぎわら まさひこ)(神戸):パスタの革命児と称され、番組には2回出演。一旦は陳に敗れるもその後イタリアンの新鉄人神戸のデビュー戦の対戦相手として再出演。新鉄人を相手に前回の雪辱を果たし、神戸のデビュー戦に黒星をつけた。
  • 山野辺宏(やまのべ ひろし)(陳):「カサゴ対決」で陳の20連勝を阻止したフレンチシェフ。番組出演時は葉山の有名店「ラ・マレード茶屋」の3代目総料理長だったがその後福島・奥会津に移住し[注 25]「Chezやまのべ」を構えた。

注釈

  1. ^ なお、1993年10月10日放送の第1回(対決)の制限時間は90分間だった。翌週10月17日放送の第2回(フォアグラ対決)より60分間に変わった。
  2. ^ ただし、1993年10月31日放送のフグ対決では、主宰の試合開始宣言の後、ふぐ調理師の有資格者がその場で、毒を含む部分と食用が許可された部分を分離する処理を行い、その後改めて、福井アナの合図により60分間の試合が開始された。
  3. ^ この時は両者に調理中アクシデントが発生し納得がいく料理を作れなかったためこのような措置が取られた。
  4. ^ 正確な所在地は千代田区平河町
  5. ^ 加賀田京子、小林カツ代、崔玉芬の3名に敗退、ただし加賀田とはその後再対戦で勝利している。陳の対女性挑戦者との対戦記録は8勝3敗となっている。
  6. ^ ただし、特番で1敗している。
  7. ^ 5連勝以上だと4回達成している。
  8. ^ 坂井ととろろ芋対決で対戦した藤井宗哲の妹。藤井も登場。
  9. ^ 小林カツ代の息子。
  10. ^ 1回目の8連勝の時は道場とのタッグマッチでの勝利を挟む。
  11. ^ a b 三兄弟の長男サルヴァトーレ・クオモと次男ラッファエレ・クオモのタッグ。
  12. ^ 1995年末に山陰中央テレビ制作、中国・四国ブロックネット5局にて放映されたオマージュ番組『決定!鉄人の鍋』の優勝者。「鉄人甲子園」岡山県代表として出場。
  13. ^ 放送4ヶ月後の1997年5月15日、不慮の転落事故(店舗内の階段で転倒し、頭部を負傷)により37歳の若さで急逝。鉄人への挑戦者の中では最初の物故者となり、後述の1999年9月に放送された世界最強シェフ決定戦の際には会場の挑戦者席に遺影が飾られた。
  14. ^ 当時の夫は元プロ野球選手で、当時大阪近鉄バファローズの二軍投手コーチを務めていた小林繁。シーズン中の放送だったが、小林本人も実況席ゲストとして出演していた。
  15. ^ 個人戦での記録。ただし間にタッグマッチでの1敗を挟む。
  16. ^ 2012年12月31日放送分「アイアンシェフ」の成績を加えると、40戦34勝5敗1分 通算勝率85.0%となる。
  17. ^ 神田川も中村と同じく「なだ万」の出身であり、奇しくも「なだ万」出身者同士の対戦となった。
  18. ^ この対決のテーマ食材選定と発表も、主宰ではなく道場が行っている。
  19. ^ ただし、復活版アイアンシェフで、和のアイアンシェフ黒木純も初戦黒星となっている。またこの日の対戦相手の萩原はリターンマッチで2回目の出演だった。
  20. ^ 後身の『アイアンシェフ』でも「鹿賀主宰は亡くなった」という設定になっており、2012年10月26日放送の初回2時間SPでは、冒頭で主宰の玉木宏が、初代主宰の鹿賀の墓を訪れていたシーンが存在した。当然、鹿賀は2022年7月現在も存命である。
  21. ^ 特番も含む。レギュラー放送での通算成績は2勝1敗。陳と中村に勝利、坂井に敗れている。
  22. ^ 陳に対しては団体戦での勝利。ただしこの団体戦は同票かつ同点の結果となったが鹿賀の独断で最終判定がなされた。
  23. ^ タコが食材の対戦では番組初期に陳も程に敗れている。
  24. ^ 坂井に敗れた2敗のうち1回は団体戦での敗北。またこの団体戦では陳と宮本荘三とチームを組んでの出演だった。
  25. ^ 山野辺自身も福島県の出身である。
  26. ^ 基本的にLUNA MATTINOの衣装が使われていた。
  27. ^ 評価額3000万円の物もあり、塩をたっぷり盛られた後にバーナーで炙られるという使われ方をされた。調理中にガラスの器(これは普通の食器)が割れる場面もあり、関係者をハラハラさせる中での対決となった。
  28. ^ うち1勝は引き分け再試合での勝利。
  29. ^ このシーンはもう使用されていない
  30. ^ なお、政見放送という性質上、これはこの番組のネット局であったテレビ静岡以外の在静民放3局と静岡県内のNHK総合テレビでも放送された。
  31. ^ 日曜日時代は、当該時間帯で日本テレビ系列の『オシャレ30・30』を1週遅れで放送していた関係で、30分遅れの23:00 - 23:30に放送していた。その後1994年4月の金曜23時に移行と共にフジテレビ系列シングルネット化され、同時ネットとなった。
  32. ^ ニュースJAPAN』初回放送の拡大部分でも提供。
  33. ^ その前はJT1996年12月6日のみ時間帯の都合でセコム)のCMを放送していた

出典

  1. ^ 日本放送協会 (2016年11月4日). “『きょうの料理』一挙93本、若き日の“鉄人”たちも!”. NHK番組発掘プロジェクト通信. 2023年3月14日閲覧。
  2. ^ 「中華の鉄人」で活躍、四川飯店グループ会長陳建一さんが死去”. 朝日新聞 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  3. ^ a b 日本テレビ (2023年3月14日). “料理人の陳建一さん、間質性肺炎のため死去 67歳 “中華の鉄人”としてテレビで活躍”. 日テレNEWS. https://news.ntv.co.jp/category/culture/49aa7274efcf4b4b8a5092b85a7b6522 2023年3月14日閲覧。 
  4. ^ フジテレビ「料理の鉄人」 編『料理の鉄人』(初版第1刷)フジテレビ出版、1994年8月10日、58、64ページ頁。ISBN 4-594-01495-X 加賀田にはその後逆リターンマッチを挑み勝利した。
  5. ^ フジテレビ「料理の鉄人」 編『料理の鉄人』(初版第1刷)フジテレビ出版、1994年8月10日、116、121ページ頁。ISBN 4-594-01495-X 
  6. ^ 「料理の鉄人大全」p.87、p.165によれば、この時に坂井は陳に「陳さんが辞めるなら俺も辞める」「やるんだったら二人で一生懸命やろう」と語ったという。
  7. ^ 「料理の鉄人」司会の鹿賀丈史が陳建一さんに追悼コメント「いつも笑顔を絶やさないお人柄でした」”. スポーツ報知 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  8. ^ 《追悼》フレンチの鉄人・坂井宏行シェフが盟友・中華の鉄人へ「大好きでした」”. テレビ朝日 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  9. ^ 和の鉄人・道場六三郎さん、陳建一さんを追悼「僕も92歳で年寄りだから、待っててよ」”. ENCOUNT (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  10. ^ 「料理の鉄人大全」 p161
  11. ^ 「料理の鉄人大全」 p163
  12. ^ 「料理の鉄人大全」 p.103
  13. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.102 - 107の本人へのインタビューでは、「いかにも「なだ万」らしい料理を作っても『料理の鉄人』では勝てない」「あの番組では伝統的な和食は喜ばれない」として、それに気づくまでは苦労したことを吐露している。
  14. ^ 有馬温泉 四季の彩 旅篭|館主・大田忠道”. 2019年5月16日閲覧。
  15. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.120 - 125
  16. ^ 「料理の鉄人 大全」 p.123
  17. ^ 「料理の鉄人」神戸勝彦さん死去 鎧塚俊彦氏ら追悼 - 日刊スポーツ 2019年3月19日
  18. ^ a b c 「料理の鉄人大全」 pp.76 - 79
  19. ^ 料理の鉄人 : 13年ぶり“復活” 10月からレギュラー放送”. 毎日新聞 (2012年9月7日). 2012年9月7日閲覧。
  20. ^ 「料理の鉄人大全」 p.50
  21. ^ 「料理の鉄人大全」 p.151
  22. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.55 - 58
  23. ^ インドネシア出張料理
  24. ^ アーカイブされたコピー”. 2007年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年12月3日閲覧。
  25. ^ フジ『料理の鉄人』がNetflixで復活 アメリカ版は6月に全世界独占配信、ブラジル版・メキシコ版も制作へ Netflixコンペティションショー『アイアン・シェフ~伝説の鉄人を探求~』”. 株式会社フジテレビジョン (2022年5月3日). 2022年5月3日閲覧。
  26. ^ 「料理の鉄人」アメリカ版、Netflixで6月15日から世界190の国と地域で配信”. 日刊スポーツ (2022年5月3日). 2022年5月3日閲覧。
  27. ^ 料理の鉄人 キッチンスタジアムツアー まとめ (セガサターン)/ファミ通.com
  28. ^ a b c セガサターンマガジン 1996年2月23日号 217ページ






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