料理の鉄人
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『料理の鉄人』(りょうりのてつじん)は、1993年10月10日から1999年9月24日までフジテレビ系列などで放送されていた料理をテーマとしたバラエティ番組。
注釈
- ^ なお、1993年10月10日放送の第1回(鮭対決)の制限時間は90分間だった。翌週10月17日放送の第2回(フォアグラ対決)より60分間に変わった。
- ^ ただし、1993年10月31日放送のフグ対決では、主宰の試合開始宣言の後、ふぐ調理師の有資格者がその場で、毒を含む部分と食用が許可された部分を分離する処理を行い、その後改めて、福井アナの合図により60分間の試合が開始された。
- ^ この時は両者に調理中アクシデントが発生し納得がいく料理を作れなかったためこのような措置が取られた。
- ^ 加賀田京子、小林カツ代、崔玉芬の3名に敗退、ただし加賀田とはその後再対戦で勝利している。陳の対女性挑戦者との対戦記録は8勝3敗となっている。
- ^ ただし、特番で1敗している。
- ^ 5連勝以上だと4回達成している。
- ^ 坂井ととろろ芋対決で対戦した藤井宗哲の妹。藤井も登場。
- ^ 小林カツ代の息子。
- ^ 1回目の8連勝の時は道場とのタッグマッチでの勝利を挟む。
- ^ a b 三兄弟の長男サルヴァトーレ・クオモと次男ラッファエレ・クオモのタッグ。
- ^ 1995年末に山陰中央テレビ制作、中国・四国ブロックネット5局にて放映されたオマージュ番組『決定!鉄人の鍋』の優勝者。「鉄人甲子園」岡山県代表として出場。
- ^ 放送4ヶ月後の1997年5月15日、不慮の転落事故(店舗内の階段で転倒し、頭部を負傷)により37歳の若さで急逝。鉄人への挑戦者の中では最初の物故者となり、後述の1999年9月に放送された世界最強シェフ決定戦の際には会場の挑戦者席に遺影が飾られた。
- ^ 当時の夫は元プロ野球選手で、当時大阪近鉄バファローズの二軍投手コーチを務めていた小林繁。シーズン中の放送だったが、小林本人も実況席ゲストとして出演していた。
- ^ 個人戦での記録。ただし間にタッグマッチでの1敗を挟む。
- ^ 2012年12月31日放送分「アイアンシェフ」の成績を加えると、40戦34勝5敗1分 通算勝率85.0%となる。
- ^ 神田川も中村と同じく「なだ万」の出身であり、奇しくも「なだ万」出身者同士の対戦となった。
- ^ この対決のテーマ食材選定と発表も、主宰ではなく道場が行っている。
- ^ ただし、復活版アイアンシェフで、和のアイアンシェフ黒木純も初戦黒星となっている。またこの日の対戦相手の萩原はリターンマッチで2回目の出演だった。
- ^ 後身の『アイアンシェフ』でも「鹿賀主宰は亡くなった」という設定になっており、2012年10月26日放送の初回2時間SPでは、冒頭で主宰の玉木宏が、初代主宰の鹿賀の墓を訪れていたシーンが存在した。当然、鹿賀は2022年7月現在も存命である。
- ^ 特番も含む。レギュラー放送での通算成績は2勝1敗。陳と中村に勝利、坂井に敗れている。
- ^ 陳に対しては団体戦での勝利。ただしこの団体戦は同票かつ同点の結果となったが鹿賀の独断で最終判定がなされた。
- ^ タコが食材の対戦では番組初期に陳も程に敗れている。
- ^ 坂井に敗れた2敗のうち1回は団体戦での敗北。またこの団体戦では陳と宮本荘三とチームを組んでの出演だった。
- ^ 山野辺自身も福島県の出身である。
- ^ 基本的にLUNA MATTINOの衣装が使われていた。
- ^ うち1勝は引き分け再試合での勝利。
- ^ このシーンはもう使用されていない
- ^ なお、政見放送という性質上、これはこの番組のネット局であったテレビ静岡以外の在静民放3局と静岡県内のNHK総合テレビでも放送された。
- ^ 日曜日時代は、当該時間帯で日本テレビ系列の『オシャレ30・30』を1週遅れで放送していた関係で、30分遅れの23:00 - 23:30に放送していた。その後1994年4月の金曜23時に移行と共にフジテレビ系列シングルネット化され、同時ネットとなった。
- ^ 『ニュースJAPAN』初回放送の拡大部分でも提供。
- ^ その前はJT(1996年12月6日のみ時間帯の都合でセコム)のCMを放送していた
出典
- ^ 日本放送協会 (2016年11月4日). “『きょうの料理』一挙93本、若き日の“鉄人”たちも!”. NHK番組発掘プロジェクト通信. 2023年3月14日閲覧。
- ^ “「中華の鉄人」で活躍、四川飯店グループ会長陳建一さんが死去”. 朝日新聞 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
- ^ a b 日本テレビ (2023年3月14日). “料理人の陳建一さん、間質性肺炎のため死去 67歳 “中華の鉄人”としてテレビで活躍”. 日テレNEWS 2023年3月14日閲覧。
- ^ フジテレビ「料理の鉄人」 編 『料理の鉄人』(初版第1刷)フジテレビ出版、1994年8月10日、58、64ページ頁。ISBN 4-594-01495-X。加賀田にはその後逆リターンマッチを挑み勝利した。
- ^ フジテレビ「料理の鉄人」 編 『料理の鉄人』(初版第1刷)フジテレビ出版、1994年8月10日、116、121ページ頁。ISBN 4-594-01495-X。
- ^ 「料理の鉄人大全」p.87、p.165によれば、この時に坂井は陳に「陳さんが辞めるなら俺も辞める」「やるんだったら二人で一生懸命やろう」と語ったという。
- ^ “「料理の鉄人」司会の鹿賀丈史が陳建一さんに追悼コメント「いつも笑顔を絶やさないお人柄でした」”. スポーツ報知 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
- ^ “《追悼》フレンチの鉄人・坂井宏行シェフが盟友・中華の鉄人へ「大好きでした」”. テレビ朝日 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
- ^ “和の鉄人・道場六三郎さん、陳建一さんを追悼「僕も92歳で年寄りだから、待っててよ」”. ENCOUNT (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
- ^ 「料理の鉄人大全」 p161
- ^ 「料理の鉄人大全」 p163
- ^ 「料理の鉄人大全」 p.103
- ^ 「料理の鉄人大全」 pp.102 - 107の本人へのインタビューでは、「いかにも「なだ万」らしい料理を作っても『料理の鉄人』では勝てない」「あの番組では伝統的な和食は喜ばれない」として、それに気づくまでは苦労したことを吐露している。
- ^ “有馬温泉 四季の彩 旅篭|館主・大田忠道”. 2019年5月16日閲覧。
- ^ 「料理の鉄人大全」 pp.120 - 125
- ^ 「料理の鉄人 大全」 p.123
- ^ 「料理の鉄人」神戸勝彦さん死去 鎧塚俊彦氏ら追悼 - 日刊スポーツ 2019年3月19日
- ^ a b c 「料理の鉄人大全」 pp.76 - 79
- ^ “料理の鉄人 : 13年ぶり“復活” 10月からレギュラー放送”. 毎日新聞 (2012年9月7日). 2012年9月7日閲覧。
- ^ 「料理の鉄人大全」 p.50
- ^ 「料理の鉄人大全」 p.151
- ^ 「料理の鉄人大全」 pp.55 - 58
- ^ インドネシア出張料理
- ^ “アーカイブされたコピー”. 2007年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年12月3日閲覧。
- ^ “フジ『料理の鉄人』がNetflixで復活 アメリカ版は6月に全世界独占配信、ブラジル版・メキシコ版も制作へ Netflixコンペティションショー『アイアン・シェフ~伝説の鉄人を探求~』”. 株式会社フジテレビジョン (2022年5月3日). 2022年5月3日閲覧。
- ^ “「料理の鉄人」アメリカ版、Netflixで6月15日から世界190の国と地域で配信”. 日刊スポーツ (2022年5月3日). 2022年5月3日閲覧。
- ^ 料理の鉄人 キッチンスタジアムツアー まとめ (セガサターン)/ファミ通.com
- ^ a b c セガサターンマガジン 1996年2月23日号 217ページ
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