五・一五事件
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服役
有罪判決を受けた者は小菅刑務所や豊多摩刑務所に収監された。1934年(昭和9年)紀元節の恩赦があり刑期を1/4減刑。1938年(昭和13年)2月1日、禁錮10年の判決を受けていた山岸宏、中村義雄、村山格之が仮出所[16]。 さらに同年に行われた憲法発布50年祝典による恩赦で刑期を1/4減刑、同年7月4日に禁錮15年の判決を受けていた古賀清志、三上卓、黒岩勇が4年9か月で仮出所した[17]。
報道と世論
事件発生直後の午後5時30分頃から、ラジオの臨時ニュースで首相官邸襲撃が報じられ、事件を伝える新聞各社の号外が当日中に配られた。 事件当夜、翌日の新聞に事件に関する記事の掲載を禁じることが陸軍から要請され、一度は掲載禁止が決定された。しかし既に号外等で報道されている状態で情報を遮断すれば、却って社会の不安を煽るという内務省からの意見を受けて報道が許可される。しかし、犯人の氏名や事件と軍との関係について等は報道が禁じられ、事件後1年間は内務省により報道管制が敷かれた。ただし、当日の読売新聞号外には既に「三上海軍中尉ら18名」と実名報道されている[18]。翌日発行の東京朝日新聞号外では「主犯陸海軍人十七名」と報じているものの、氏名は伏せ字となっている。 報道管制に対し、在京新聞各社は共同で内務省に抗議している。また信濃毎日新聞など地方紙では事件に関して軍部批判を掲載する新聞もあった。
事件の1年後、報道管制が解除され、1933年(昭和8年)5月17日には陸軍省、海軍省、司法省が合同で事件の概要を公表した。この中で犯人達の動機について、政党・財閥・特権階級の退廃を打破し国家の革新を目指した純粋なものである旨が強調され、新聞各紙によって報道された。荒木貞夫陸軍大臣や大角岑生海軍大臣は被告人らに同情的なコメントを発したが、この時点で事件から1年間が経過しており、国民の関心はあまり高くはなかった。
しかし、事件の公判が開始され、純粋に国家について憂い日本の現状を打破するために決起したという法廷での被告人らの主張が報道されると、政党政治や財閥などに不満を抱いていた国民の間で、被告人らに同情しその行為を称揚する世論が盛り上がり、公判を通じて自らの主張を国民に訴えようとした三上中尉らの目論見に沿った展開となっていった。被告人らを赤穂浪士になぞらえたり、称揚する劇が上演され、三上中尉が作詞した「青年日本の歌」が広く歌われ、被告人らを讃える「昭和維新行進曲」のレコードがヒットしたりするなど、被告人らを英雄的に扱う動きが社会現象となった。
公判中の8月には被告人らに対する減刑嘆願運動が全国で盛り上がり始め、大日本生産党、日本国家社会党などの政治団体が中心となって各地で減刑を求める集会が開かれたほか、右派団体とは別に多くの個人が嘆願書を出したり、青年団や企業が署名を集めたりした。 しかし、民間人被告への減刑運動は大きな盛り上がりが見られないまま判決を迎えている。
「話せばわかる」
犬養が殺害される際に、犬養と元海軍中尉山岸宏との間で交わされた「話せばわかる」「問答無用、撃て!」というやり取りはよく知られているが、「話せばわかる」という言葉は犬養の最期の言葉というわけではない。前述の通り、犬養は銃弾を撃ち込まれたあとも意識があったとされている。なお、山岸は次のように回想している。
『まあ待て。まあ待て。話せばわかる。話せばわかるじゃないか』と犬養首相は何度も言いましたよ。若い私たちは興奮状態です。『問答いらぬ。撃て。撃て』と言ったんです。
また、元海軍中尉三上卓は裁判で次のように証言している。
食堂で首相が私を見つめた瞬間、拳銃の引き金を引いた。弾がなくカチリと音がしただけでした。すると首相は両手をあげ『まあ待て。そう無理せんでも話せばわかるだろう』と二、三度繰り返した。それから日本間に行くと『靴ぐらいは脱いだらどうじゃ』と申された。私が『靴の心配は後でもいいではないか。何のために来たかわかるだろう。何か言い残すことはないか』というと何か話そうとされた。
その瞬間山岸が『問答いらぬ。撃て。撃て』と叫んだ。黒岩勇が飛び込んできて一発撃った。私も拳銃を首相の右こめかみにこらし引き金を引いた。するとこめかみに小さな穴があき血が流れるのを目撃した。
しかし、孫の犬養道子はこれらの証言を否定しており、著書『花々と星々と』にて、現場に居た母親の証言を引用する形で、祖父の発言を次のように述懐している。
『まあ、せくな』ゆっくりと、祖父は議会の野次を押さえる時と同じしぐさで手を振った。『撃つのはいつでも撃てる。あっちへ行って話を聞こう。ついて来い』 そして、日本間に誘導して、床の間を背に中央の卓を前に座り、煙草盆をひきよせると一本を手に取り、ぐるりと拳銃を擬して立つ若者にもすすめてから、『まあ靴でもぬげや、話を聞こう』
注釈
出典
- ^ ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典. “五・一五事件” (日本語). コトバンク. 2019年5月15日閲覧。
- ^ a b c d e 小山俊樹、『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』、中公新書
- ^ 海兵52
- ^ 五・一五事件陸海軍大公判記59頁 140頁
- ^ 田崎元武(海兵52)
- ^ 新田目直寿(海兵52)昭和4年11月赤化事件で免官
- ^ 『高松宮日記第2巻』中央公論社、78頁。
- ^ 一年振りに漸く大不祥事の真相明白(大阪朝日新聞1933年5月17日)神戸大学附属図書館新聞記事文庫、2016年8月11日閲覧。
- ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・神戸新聞(昭和8年(1933年)9月20日) 犯罪,刑務所および免囚保護(5-112)
- ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・時事新報(昭和8年(1933年)11月10日) 犯罪,刑務所および免囚保護(5-122)
- ^ 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・中外商業新報(昭和8年(1933年)7月25日) 犯罪,刑務所および免囚保護(5-077)
- ^ 『憲高秘第九〇四號』より「五月事件ニ關スル件報告(通牒)」(昭和七年五月二十日 憲兵司令官 秦眞次)
- ^ 明治大学百年史編纂委員会 『明治大学百年史』 第四巻 通史編Ⅱ、学校法人明治大学、1994年、250-251頁
- ^ 遠山茂樹・今井清一・藤原彰『昭和史』[新版] 岩波書店 〈岩波新書355〉 1959年 91ページ
- ^ “五・一五事件~なぜ、海軍青年将校たちはテロリズムに走ったのか” (日本語). shuchi.php.co.jp. 2021年5月15日閲覧。
- ^ 山岸ら海軍側の三人も仮出所『東京朝日新聞』(昭和13年2月2日夕刊)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 古賀、三上、黒岩が最後に出所『東京朝日新聞』(昭和13年7月6日)『昭和ニュース辞典第6巻 昭和12年-昭和13年』p133
- ^ 読売新聞昭和7年5月15日第三号外
- ^ 『昭和史発掘』
- ^ 『昭和動乱期の回想』
- ^ 血盟団、二・二六事件などの記録提出命令(昭和20年12月16日 朝日新聞)『昭和ニュース辞典第8巻 昭和17年/昭和20年』p345 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 『昭和史探訪2』
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