時代の中で――鏡子の家
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「三島由紀夫」の記事における「時代の中で――鏡子の家」の解説
前年8月の『潮騒』 (The Sound of Waves) の初英訳刊行に続き、戯曲集『近代能楽集』 (Five Modern Noh Plays) も1957年(昭和32年)7月にクノップ社から英訳出版されたことで、三島は同社に招かれて渡米した。その際に現地の演劇プロデューサーから上演申し込みがあり、実現に向けて約半年間ニューヨークに辛抱強く滞在したが、企画が難航して延期となってしまった。その間の12月21日、三島は疎遠となっていた吉田満(ニューヨーク駐在中)と久しぶりに再会しワシントン・アーヴィングの旧邸など各所を一緒に散策した。三島は吉田との雑談の中で、アメリカ人に対する辛辣な批判をし、また自身の来年に向けての結婚宣言をしていたという。 無為で孤独なホテルでのニューヨークの年越しに耐えられず、正月をマドリード、ローマを経由し過ごして帰国した三島は、これから先の人生を一人きりでは生きられないことを痛感し、結婚の意志を固くした。折しも、ニューヨーク滞在中に父・梓が病気入院し、帰国後の2月にも母・倭文重が癌と疑われた甲状腺の病気で手術したことも、それに拍車をかけた。 1958年(昭和33年)3月に、幼馴染の湯浅あつ子から見せられた女子大生・杉山瑤子(日本画家・杉山寧の長女)の写真を一目で気に入った三島は、4月にお見合いをし、6月1日に川端康成夫妻を媒酌人として明治記念館で瑤子との結婚式を挙げ、麻布の国際文化会館で披露宴が行われた。同年8月には雑誌に連載開始された小高根二郎の「蓮田善明とその死」を読み始め、11月末からはボディビルに加えて中央公論社の嶋中鵬二と笹原金次郎の紹介により、第一生命の道場で本格的に剣道も始めた。 同年3月には、ニューヨーク滞在中から構想していた書き下ろし長編『鏡子の家』の執筆も開始されていた。この作品は4人の青年と1人の〈巫女的な女性〉を主人公とし、〈「戦後は終つた」と信じた時代の、感情と心理の典型的な例〉を描こうとした野心作であった。時代背景は高度経済成長前の2年間で(昭和29年4月から昭和31年4月まで)、三島自身の青春と「戦後」と言われた時代への総決算でもあった。 翌1959年(昭和34年)9月20日の『鏡子の家』刊行までの約1年半の間、戯曲『薔薇と海賊』の発表、結婚、国内新婚旅行、エッセイ『不道徳教育講座』、評論『文章読本』の発表、新居建設(設計・施工は清水建設の鉾之原捷夫)など多忙であった。大田区馬込東一丁目1333番地(現・南馬込四丁目32番8号)に建設したビクトリア風コロニアル様式の新居へは5月10日に転居し、6月2日に長女・紀子が誕生した。ちょうどこの当時、新安保条約の採決を巡る大規模なデモ隊が国会周辺で吹き荒れ、三島はそれを記者クラブのバルコニーから眺めた。 三島の渾身作『鏡子の家』は1か月で15万部売れ、同世代の評論家の少数からは共感を得たものの、文壇の評価は総じて辛く、三島の初めての「失敗作」という烙印を押された。三島の落胆は大きく、この評価は作家として彼が味わった最初の大きな挫折(転機)だった。 同年11月、三島は大映と映画俳優の専属契約を結び、翌1960年(昭和35年)3月に公開された『からっ風野郎』(増村保造監督)でチンピラ的なヤクザ役を演じたが、その撮影中には頭部をエスカレーターに強打して入院する一幕もあった。同年1月には、都知事選挙を題材とした「宴のあと」も『中央公論』で連載開始するが、モデルとした有田八郎から9月に告訴され、プライバシー裁判の被告となってしまった(詳細は「宴のあと」裁判を参照)。 1961年(昭和36年)1月は、二・二六事件に題材をとり、のちに自身で監督・主演で映画化する「憂国」を『小説中央公論』に発表。2月には、その雑誌に同時掲載された深沢七郎の「風流夢譚」を巡る嶋中事件に巻き込まれ、推薦者と誤解されて右翼から脅迫状を送付されるなど、2か月間警察による護衛下での生活を余儀なくされた。 同年9月から、写真家・細江英公の写真集『薔薇刑』のモデル(被写体)となり、三島邸で撮影が行われた。写真発表は翌1962年(昭和37年)1月に銀座松屋の「NON」展でなされ、その鍛え上げられた肉体をオブジェとして積極的に世間に披露した。こうした執筆活動以外における三島の一連の話題がマスメディアに取り上げられると共に、文学に関心のない層にも大きく三島の名前が知られるようになった。 そのため、週刊誌などで普段の自身の日常生活や健康法を披露する機会も増えた。遅く起きる三島の朝食は、午後2時にトーストと目玉焼き、グレープフルーツ、ホワイト・コーヒーを摂り、午後7時頃の昼食には週3回はビフテキと付け合わせのジャガイモ、トウモロコシ、サラダをたっぷりとウマの如く食べ、夜中の夕食は軽く茶漬けで済ますのが習慣だった。 また、三島はカニの形状が苦手で、「蟹」という漢字を見るのも怖くてダメだったが、むき身の蟹肉や缶詰の蟹は食べることができ、蟹の絵のパッケージは即座に剥がして取っていたという。酒は家ではほとんど飲まないが、煙草はピースを1日3箱くらい吸っていた。 1963年(昭和38年)には、三島が所属していた文学座内部での一連の分裂騒動があり、杉村春子と対立する福田恆存が創立した「劇団雲」への座員29人の移動後にも、文学座の立て直しを試みた三島の『喜びの琴』を巡って杉村らが出演拒否するという文学座公演中止事件(喜びの琴事件)が起こり、再びトラブルが相次いだ。 この時期には、安保闘争や東西冷戦による水爆戦争への危機感が強かった社会情勢があり、そうした政治背景を反映して、『鏡子の家』から繋がる〈世界崩壊〉〈世界の終末〉の主題を持つ『美しい星』や『帽子の花』、評論『終末観と文学』などが書かれ、イデオロギーを超えた純粋な心情をテーマにした『剣』や評論『林房雄論』も発表された。 1964年(昭和39年)初めには『浜松中納言物語』を読み、『豊饒の海』の構想もなされ始め、同年10月の東京オリンピックでは、新聞各紙の特派員記者として各種競技を連日取材した。開会式では、〈小泉八雲が日本人を「東洋のギリシャ人」と呼んだときから、オリンピックはいつか日本人に迎へられる運命にあつたといつてよい〉と述べ、天皇陛下の立派な開会宣言に感無量となり、聖火台に点火する最終聖火ランナーの〈白煙に巻かれた胸の日の丸〉への静かな感動と憧れを、〈そこは人間世界で一番高い場所で、ヒマラヤよりもつと高いのだ〉と三島はレポートした。 坂井君は聖火を高くかかげて、完全なフォームで走つた。ここには、日本の青春の簡素なさはやかさが結晶し、彼の肢体には、権力のほてい腹や、金権のはげ頭が、どんなに逆立ちしても及ばぬところの、みづみづしい若さによる日本支配の威が見られた。この数分間だけでも、全日本は青春によつて代表されたのだつた。 — 三島由紀夫「東洋と西洋を結ぶ火――開会式」 この時期には他にも、『獣の戯れ』、『十日の菊』(第13回読売文学賞戯曲部門賞受賞)、『黒蜥蜴』、『午後の曳航』(フォルメントール国際文学賞候補作)、『雨のなかの噴水』、『絹と明察』(第6回毎日芸術賞文学部門賞)など高評の作品も多く発表し、待望だった『近代能楽集』の「葵上」「班女」も別の主催者によってグリニッジ・ヴィレッジで上演された。 また、『仮面の告白』や『金閣寺』も英訳出版されるなど、海外での三島の知名度も上がった時期で、「世界の文豪」の1人として1963年(昭和38年)12月17日のスウェーデンの有力紙『DAGENUS NYHETER』に取り挙げられ、翌1964年(昭和39年)5月には『宴のあと』がフォルメントール国際文学賞で2位となり、『金閣寺』も第4回国際文学賞で第2位となった。国連事務総長だったダグ・ハマーショルドも1961年(昭和36年)に赴任先で事故死する直前に『金閣寺』を読了し、ノーベル財団委員宛ての手紙で大絶賛した。 なお、1963年度から1965年度のノーベル文学賞の有力候補の中に川端康成、谷崎潤一郎、西脇順三郎と共に三島が入っていたことが2014年(平成26年)から2016年(平成28年)にかけて開示され、1963年度で三島は「技巧的な才能」が注目されて受賞に非常に近い位置にいたことが明らかとなった。しかし、1966年度の候補者に三島の名はなかった。 三島が初めて候補者に名を連ねた1963年度の選考において委員会から日本の作家の評価を求められていたドナルド・キーンは、実績と年齢順(年功序列)を意識して日本社会に配慮しながら、谷崎、川端、三島の順で推薦したが、本心では三島が現役の作家で最も優れていると思っていたことを情報開示後に明かしている。1961年(昭和36年)5月には川端が三島にノーベル賞推薦文を依頼し、彼が川端の推薦文を書いていたこともある。その3年前の1958年(昭和33年)度には、谷崎の推薦文も三島が書いていた。
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