「宴のあと」裁判
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三島は、日本で最初のプライバシーの侵害裁判の被告となった。もの珍しさから、「プライバシーの侵害」という言葉は当時、流行語となった。 1961年(昭和36年)3月15日、元外務大臣・東京都知事候補の有田八郎は、三島の『宴のあと』という小説が自分のプライバシーを侵すものであるとして、三島と出版社である新潮社を相手取り、損害賠償100万円と謝罪広告を求める訴えを東京地方裁判所で起こした。主任弁護士は森長英三郎(田中伸尚『一粒の麦死して』参照)。 有田八郎から訴えられた際に三島は、『宴のあと』について、〈私はこの作品については天地に恥じない気持ちを持っている〉と主張し、〈芸術作品としても、言論のせつどの点からも、コモンセンスの点からも、あらゆる点で私はこの作品に自信を持っている〉と述べている。翻訳者のドナルド・キーン宛ての手紙でも、〈この訴へには絶対に勝つ自信があります〉と語っていた。ちなみに作品が『中央公論』に連載される前には、〈何とかチャンと良識に背いたものが書ければ、と念じてゐる〉とも述べ、〈姦通の話を書いても、殺人の話を書いても、どこか作家の良識臭がにじみ出てしまふ現代に、せい一杯の抵抗ができればよいが〉と抱負を語っていた。 プライバシー裁判においてなされた三島による『宴のあと』の主題の説明は以下のようにまとめられている。 人間社会に一般的な制度である政治と人間に普遍的な恋愛とが政治の流れのなかでどのように展開し、変貌し、曲げられ、あるいは蝕まれるかという問題いわば政治と恋愛という主題をかねてから胸中に温めてきた。それは政治と人間的真実との相矛盾する局面が恋愛においてもっともよくあらわれると考え、その衝突にもっとも劇的なものが高揚されるところに着目したもので、1956年に戯曲「鹿鳴館」を創作した頃から小説としても展開したいと考えていた主題であった。(中略)(有田八郎の)選挙に際し同夫人が人間的情念と真実をその愛情にこめ選挙運動に活動したにもかかわらず落選したこと、政治と恋愛の矛盾と相剋がついに離婚に至らしめたこと等は公知の事実となっていた。(中略)ここに具体的素材を得て本来の抽象的主題に背反矛盾するものを整理、排除し、主題の純粋性を単純、明確に強調できるような素材のみを残し、これを小説の外形とし、内部には普遍的妥当性のある人間性のみを充填したもので、登場人物の恋愛に関係ある心理描写、性格描写、情景描写などは一定の条件下における人間の心理反応の法則性にもとづき厳密に構成したものである。 — 「被告等の積極的主張」(「『宴のあと』事件」判決) 裁判は、「表現の自由」と「私生活をみだりに明かされない権利」という論点で進められたが、1964年(昭和39年)9月28日に東京地方裁判所で判決が出て、三島側は80万円の損害賠償の支払いを命じられた(ただし謝罪広告の必要はなし)。このときに伊藤整も傍聴していた。三島は、芸術的表現の自由が原告のプライバシーに優先すると主張したが、第一審、東京地裁の石田哲一裁判長は判決において以下の論述を出した。 「小説なり映画なりがいかに芸術的価値においてみるべきものがあるとしても、そのことが当然にプライバシー侵害の違法性を阻却するものとは考えられない。それはプライバシーの価値と芸術的価値の基準とはまったく異質のものであり、法はそのいずれが優位に立つものとも決定できないからである。たとえば、無断で特定の女性の裸身をそれと判るような形式、方法で表現した芸術作品が、芸術的にいかに秀れていても、通常の女性の感受性として、そのような形の公開を欲しない社会では、やはりプライバシーの侵害であって、違法性を否定することはできない」 石田裁判長は、「言論、表現の自由は絶対的なものではなく、他の名誉、信用、プライバシー等の法益を侵害しないかぎりにおいてその自由が保障されているものである」との判断を示し、「プライバシー権侵害の要件は次の4点である」と判示した。 私生活上の事実、またはそれらしく受け取られるおそれのある事柄であること 一般人の感受性を基準として当事者の立場に立った場合、公開を欲しないであろうと認められるべき事柄であること 一般の人にまだ知られていない事柄であること このような公開によって当該私人が現実に不快や不安の念を覚えたこと 『宴のあと』がプライバシー侵害に該当するという判決について三島は、〈言論人全体〉ひいては〈小説といふものを手にする読者全体〉に対する〈侮蔑〉であり、〈見のがしがたい非論理的な帰結〉だとして、〈悪徳週刊誌退治といふ「社会的正当性」のために、文学作品が利用され、おとしめられ、同一水準に扱はれた、もつとも非文化的な事例〉だとして抗議した。 この判決の底には明治政府以来の芸術に対する社会的有効性による評価、芸術(文学)の自律性の蔑視、芸術の全体性の軽視その他の、近視眼的見解が横溢していゐる。文学作品その他として評価せず、部分を以て、ワイセツだとか、人を傷つけたとか言つて判断するのは、チャタレー裁判以来少しもかはらぬ通弊であるが、今度の裁判では、純民事訴訟的見地から、財産権人格権保護の立場にのみ立つて、判決したといふ遁辞があるかもしれない。 — 三島由紀夫「私だけの問題ではない――小説『宴のあと』判決に抗議する」 三島側は10月に控訴するが、この翌年の1965年(昭和40年)3月4日に有田が死去したため、1966年(昭和41年)11月28日、有田の遺族と三島・新潮社との間に和解が成立して、無事に無修正で出版できることになった。三島は一連の経過を振り返って、〈日本最初のプライバシー裁判としては「宴のあと」事件は、まことに不適切な、不幸な事件であつた〉としている。 もしこれが、市井の一私人が、低俗な言論の暴力によつて私事をあばかれたケースであつたとしたら、プライバシーなる新しい法理念は、どんなに明確な形で人々の心にしみ入り、かつ法理論的に健全な育成を見たことであらう。原告被告双方にとつて、この事件は、プライバシーの権利なるものを、社会的名声と私事、芸術作品の文化財的価値とその批評的側面などの、さまざまな微妙な領域の諸問題へまぎれ込ませてしまつた不幸な事件であつたといふ他はない。本来、プライバシーなどといふ、近代社会の明快なプラクティカルな概念は、こんな微妙で複雑な文化的価値の較量の問題などをはらみやうもなく、一方で、私はまたしばしば、日本の風土や風俗習慣と、継受法的概念との、抜きがたい違和をも感じたのであつた。(中略)しかしこのたびの和解によつて、五年間ヤミに埋もれてゐた作品が、再び日の目を見て、誠実な読者の公正な判断に委ねられる機会を得るといふことは、口につくせない喜びである。 — 三島由紀夫「『宴のあと』事件の終末」 当初、この件で友人である吉田健一(父親・吉田茂が外務省時代に有田の同僚であった)に仲介を依頼したもののうまくいかず、吉田健一が有田側に立った発言をしたため、のちに両者は絶交に至る機縁になったといわれている。 三島は、自決1週間前に行った古林尚との対談「三島由紀夫 最後の言葉」において、この裁判で裁判というものを信じなくなったと語っている。それは、法廷で弁護人から「三島に署名入りで本(有田八郎著『馬鹿八と人はいう』)をやったか」と質問が出たとき、有田が「とんでもない、三島みたいな男にだれが本なんてやるもんか…(後略)」と答え、弁護人が、「もしやっていらっしゃったら、ある程度三島の作品を認めたか、あるいは書いてもらいたいというお気持があったと考えてよろしいですね?」と念押しされ、「そのとおりですよ」と、断固として本は三島に渡していないと主張したが、三島は有田から、「三島由紀夫様、有田八郎」と署名された本をもらっていた。それを三島側が提示すると、傍聴席が驚いたという。 三島は、「宴のあと」裁判が陪審制度だったら、自分は勝っていただろうと振り返って述べている。裁判所の判断は、有田が老体であるとか、社会的地位や名声を配慮して有田に有利に傾き、民事裁判にもかかわらず刑事訴訟のように、被告は「三島」と呼び捨てにし、ときどき気がついて「さん」付けになるものの、ほぼ呼び捨てだったという。
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