国民啓蒙宣伝大臣とは? わかりやすく解説

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国民啓蒙・宣伝大臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:12 UTC 版)

ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事における「国民啓蒙・宣伝大臣」の解説

1933年3月14日ヴィルヘルム街にあるかつて皇室邸宅だったオルデンスパレー(ドイツ語版)に「国民啓蒙・宣伝省」が置かれゲッベルスがその大臣任じられた。ゲッベルス宣伝省を開くに際してその目的次のように定義した。「革命には二つ方法がある。機関銃を持つ者には勝てないと敵が認めるまで、敵を掃射し続けるのが一つ。これは安易な方法である。残る一つ精神革命による国家改造である。この方法なら敵を破壊することなく味方組み入れることができる。最高の勝利は敵の殲滅ではなく、敵に勝者たる我々の賛歌歌わせることなのだ」。 ゲッベルスは他の省庁権能を自らの宣伝省集めて行った内務省からは検閲公休日取り締まり経済省からは広告監督権産業博覧会貿易博覧会開催郵政省からは旅行案内業務外務省からは対外的PRそれぞれ獲得した。また全国劇場管轄下に置いたプロイセン州劇場ゲーリング支配下残された)。 宣伝大臣となったゲッベルス最初大仕事3月21日ポツダム衛戍教会フリードリヒ大王の前で行われた国会開会式ポツダムの日」の準備だった。ゲッベルスはこの式典事細かに定め、それについて日記の中で「こういう大掛かりな国家祝祭に際して些事の中の些事重要なのだ」と述べている。帝政復古主義者であるヒンデンブルクユンカーたちを満足させるべく、プロイセン的・復古主義的にその演出施した。この行事ヒトラーヒンデンブルクユンカー軍部の心を捕らえるのに役立った。この日、ヒトラー並んで立ったヒンデンブルクについてゲッベルスは「この尊敬すべき長老を、今もなお我らの上戴いていることは、なんと幸せなことだろう」と書いている。 米英マスコミによる反ナチ報道高まってくると、ゲッベルスはこれをユダヤ国際資本陰謀見てユダヤ企業対すボイコット運動を行うことをヒトラー進言した。米英マスコミ牛耳るユダヤ資本家たちが反ナチ報道ドイツ在住同胞の安全を危うくすることを知れば報道調子変えるはずという考えからだった。ヒトラー進言受け入れ4月1日シュトライヒャー指揮のもとにユダヤ企業対すボイコット運動を行わせた。 5月10日にはベルリンはじめ全国大学大学生ナチ党員を動員して公私立の図書館からユダヤ人書いた書物などを次々と押収して広場集めさせて焼き払った焚書)。ハインリヒ・マンなどの反ナチ派の本、またカール・マルクスジークムント・フロイトハインリヒ・ハイネなどユダヤ人達の本が焼かれた。この焚書集会ゲッベルス次のように演説した。「過激なユダヤ主知主義終焉した。過去悪しき亡霊正当に火刑処された。これこそ偉大にして象徴的な行為である。今日ほど青年発言権持った時代はかつてなかった。今や学問栄え精神目覚めつつある。この灰の中から新しい精神不死鳥のように舞い上がるであろう」。しかしハインリヒ・ハイネは「本を焼く所では、終いには人間をも焼く」と予言していた。 8月20日ベルリン第10回放送展で「国民ラジオ」がはじめて公開されゲッベルスは「19世紀新聞であったが、20世紀ラジオである」と公言したゲッベルスラジオによる民衆扇動重要性的確に認識していた。各ラジオメーカーにラジオフル生産指示し外国放送聞けない国民ラジオ」を全国28工場大量生産させ、安価な76マルク購入できるようにした。また大衆ラジオ聞く習慣をつけることを偶然に任せず全国各地放送監督所のシステム作って絶え大衆接触させ、パンフレットを出すことで重要な放送知らせ人々公の場所に備え付けられ拡張器ラジオ聴くよう仕向けたそうした努力結果1933年から1934年にかけてドイツラジオ所有家庭数は100万超え1938年までには950達した。さらにその後には労働者層への普及のためにより小型で安い物が売りだされ、ドイツのほぼ全家庭にラジオ普及する至った9月25日にはライヒ文化院法が公布され宣伝相たるゲッベルスの下に全国著述院(ドイツ語版)、全国新聞院(ドイツ語版)、全国ラジオ院(ドイツ語版)、全国音楽院全国演劇院(ドイツ語版)、全国映画院(ドイツ語版)、全国造形芸術院の7つ全国文化院が創設されドイツあらゆる精神的創造者該当する全国文化院に加入することを義務付けられゲッベルス宣伝相による監視検閲受けたユダヤ人適格性を欠くとされて文化面からどんどん排除されていった外務省から対外PR獲得していたため、9月下旬には外相ノイラート男爵とともにジュネーヴ国際連盟世界軍縮会議英語版)に参加したが、国際連盟脱退決意したヒトラーによりすぐに呼び戻された。 エルンスト・レームゲッベルス比較親密間柄であったレームの死の2週間前までゲッベルスレーム活発に接触していた。またオットー・シュトラッサー証言によればゲッベルスレームの「謀議」に加わっていたというが、その話に確証はないとされるいずれにしても粛清の日が近づいてくるとゲッベルスレーム突撃隊近くにいることに危険を感じて距離をとるようになり、ヒトラー側近くに身を置くうなった1934年6月30日からはじまったレーム以下突撃隊幹部粛清長いナイフの夜」の際にもゲッベルスヒトラー寄り添って同行したヒトラーとともにミュンヘン飛びヒトラー粛清行っている時にも何も異議を唱えることはなかった。7月10日ラジオ演説ゲッベルス6月30日粛清を「病的な野心家一味反乱電撃的鎮圧した」として正当化し外国の「センセーショナルな虚偽報道」を「ドイツ国民は吐気嫌悪の情をもって背を向ける」と批判している。 同年8月2日ヒンデンブルク死去するヒンデンブルクを「史上最大ドイツ人一人」と賞賛する記事新聞埋め尽くし大々的葬儀行った。またゲッベルスラジオ大統領職首相職統合されヒトラーは「総統ドイツ国首相」となることを発表した8月19日にはそれについての国民投票行い賛成票は88.9%にも達したゲッベルスニュルンベルク党大会にはあまり関心がなかったようでそれに関する彼の日記記述少ない。レニ・リーフェンシュタール監督した記録映画『意志の勝利』知られる1934年9月党大会ゲッベルスではなくシュペーアが主に準備をした。この党大会ゲッベルスは「願わくば我々の情熱の炎が永遠に燃え続けるように。この炎のみが現代の政治プロパガンダ創造性に富む芸術に光と温もり与えるのだ。この芸術国民心の底より発し、その活力源である国民のもとに常に還元されなければならない武力による権力も結構だが、国民の心をつかみ、引き付ける方が一層望ましくもあり効果的である」と演説している。また翌1935年5月1日にはレニ『意志の勝利』に最高評点の「国民映画賞」を授与した1936年6月ニューヨークヤンキー・スタジアムドイツ人ボクサーマックス・シュメリングとアメリカ黒人ボクサージョー・ルイスの試合が行われたが、「ジョー・ルイス老いぼれボクサー苦も無く片付けるだろう」という大方の予想反してシュメリングが勝利した。これは「ドイツ人の非アーリア人種対す勝利」としてナチス国家的慶事となったゲッベルスもちろんのことヒトラーもシュメリングに祝電送っている。またゲッベルスはシュメリングの帰国に際して古代ローマ凱旋将軍のように出迎えるよう手配した1936年8月ベルリンオリンピックは、ゲッベルス演出総指揮取り一大宣伝ショーとして大きな成功収めた。特に世界注目集めたのはカール・ディーム(ドイツ語版博士発案ギリシアからバルカン諸国オーストリア経てドイツ聖火を運ぶ走者リレー聖火リレー)を初め演出したことである。 またこのオリンピック間中多く観光客国外からやってくることに鑑みホテルカフェ海水浴場など観光客立ち寄りそうな場所から「ユダヤ人立ち入り禁止」の掲示取り払うことを徹底した国内外悪名高いシュトライヒャー反ユダヤ主義新聞デア・シュテュルマー』も売店での販売禁止したこうした処置おかげでこの時期ドイツ訪問した観光客多くドイツ好印象を持つ者が多かったという。ゲッベルス8月2日日記にはオリンピックを「ヘンデルハレルヤ(メサイア (ヘンデル))。偉大な感動的な祭典」と記し続けて首相官邸長い間総統無駄話。彼は日本賞賛し、ロシアには厳しい。その通りだ。」と書いている。 1937年には、ドイツの映画会社最大手ウーファナチ党買収し事実上ゲッベルス所管することとなった(さらに1942年には完全国営化)。『ロスチャイルド家』など反ユダヤ主義プロパガンダ映画から『ミュンヒハウゼン』など娯楽映画に至るまで次々と映画制作させた。 1937年には、昨年日独防共協定を結び同盟国となった日本の映画製作者川喜多長政と、ドイツの映画製作者アルノルト・ファンクによる合作で、原節子早川雪洲、ルート・エヴェラー(ドイツ語版)などが主演する映画新しき土』(ドイツ語題『Die Tochter des Samurai(侍の娘)』)を制作することを許可し、またその制作支援したゲッベルス日記もこの映画について触れている。「独日合作映画サムライの娘』の封切映画撮り方は素晴らしい。日本の生活や考え方理解するのに良いし、筋もまずまずだ。しかし我慢できないほどに長い。それが残念だ1937年7月ゲッベルスは、アドルフ・ツィーグラー(ドイツ語版)に指示してナチ党政権が「退廃芸術」として批判していたモダンアート表現主義抽象絵画作品集めさせ、7月19日見せしめとしての退廃芸術展覧会」を開かせた。アドルフ・ツィーグラーは「ドイツ国民よ。来たれ。そして自ら判断せよ」と開幕演説している。シャガールクレーキルヒナーノルデゴッホピカソブラックセザンヌなどの絵が晒された。展覧会には誇張するために狂人の絵も展示されていた。このうちキルヒナー自分作品退廃芸術指定され、この展覧会晒されたことに強いショックを受け、自殺している。 1938年11月7日に駐パリドイツ大使館ユダヤ人青年ヘルシェル・グリュンシュパンドイツ大使館員を暗殺した事件受けて11月9日夜にドイツ全土発生した反ユダヤ主義暴動水晶の夜」はゲッベルス突撃隊動員して行ったものだといわれる。しかしドイツ経済への打撃大きく事件後、航空省行われた事件処理会議四カ年計画全権責任者としてドイツ経済最終的責任を負うヘルマン・ゲーリングから批判受けている。この件でゲッベルスユダヤ人問題からの撤退余儀なくされたという。代わりにゲーリングユダヤ人問題全権責任者となったナチ党政権誕生から年を経るごとに、ヒトラー体制強固になっていったが、それと反比例してゲッベルス権力重要性低下していった。この頃ドイツ大規模な再軍備失業者なくなり景気回復国民実感されるようになっていた。国民のほとんどはヒトラー政権に不満を持っていなかった。つまりゲッベルスがわざわざ宣伝啓蒙しなくても国民ヒトラー支持していたのである。そのためゲッベルスナチ党がいまだ野党あるかのような趣の新聞出したり、集会を開くことがあった。「世界革命扇動するユダヤ人」だとか「コミンテルン外人部隊」だとかの攻撃によって党や国が滅亡寸前かのように描く記事がその典型である。敵の存在作らない自分存在価値がなくなる一方だったためである。 1939年3月にはヒトラー50歳の誕生日に『人間ヒトラー』という本を出版して献上することを計画していたが、ヒトラーから止められた。ヒトラー国民自分私生活関心持って欲しくなかったらしく、また自分伝記作者としてふさわしいと考えていたのはゲッベルスではなかったといわれる1939年8月20日独ソ不可侵条約締結されるゲッベルス宣伝省はただちに「ボルシェヴィキ攻撃キャンペーン当分の間中止すべし」との指令あらゆる報道機関に対して発した。これによりナチ党政権誕生以来一日として止むことはなかった反ソ報道がぱたりと消えた8月25日ミュンヘン放送で『モスクワ糾弾する世界独裁コミンテルン計画』というラジオ番組放送予定になっていたが、これも放送間際中止させ、代わりにロシア音楽30分間流している。ゲッベルスは『デア・アングリフ』においてソ連との連携について「二大民族は共通の外交政策の上立ってきたのである。これには長い伝統的な友情作り出した相互理解という基盤があるからなのだ」と論じたが、それ以上の詳しい説明はしなかった。この反ソ報道消滅という状態は独ソ戦開戦まで続くことになる(ソ連も同様でこれを機にナチ報道一斉に消滅した)。

※この「国民啓蒙・宣伝大臣」の解説は、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の解説の一部です。
「国民啓蒙・宣伝大臣」を含む「ヨーゼフ・ゲッベルス」の記事については、「ヨーゼフ・ゲッベルス」の概要を参照ください。

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