カトリック画家としてとは? わかりやすく解説

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カトリック画家として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:05 UTC 版)

長谷川路可」の記事における「カトリック画家として」の解説

少年長谷川龍三は1914年17歳暁星中学5年夏休み北海道北斗市トラピスト修道院一夏過ごした午前4時起床し午後9時の祈りが終わると就寝するという生活。労働修道士まじって牧草刈ったり、厨房仕事掃除など献身的な生活を続けながら、中沢神父様からカトリック教え授かり同宿した詩人三木露風からは芸術尊厳について話を聞かされていたという。そうした体験経て、その年のクリスマス前に暁星学校でハンベルクロード神父から受洗し洗礼名画家守護聖人であるルカだった。 東京美術学校日本画科に入学すると、3年生のとき《南蛮寺》を制作翌年第2回帝展に《エロニモ次郎祐信》を出品し、路可はカトリック画家としての歩み始める。また、美校在学中、露風には《聖ドミニコ像》(日本画)を白陵号でを贈っている。卒業制作細川ガラシア描いた《流さるる教徒》で、この作品から路可という雅号名乗るうになる。現在、上記南蛮寺と共に東京芸術大学大学美術館収蔵されている。 東京美術学校卒業後からまもなく、23歳で路可は欧州航路フランスへと渡る。これは憧れパリ行って念願だった西洋絵画技法を学ぶつもり旅立ったのだろう。渡仏した1921年の冬、暁星中学校先輩岩下壮一から、在欧中の戸塚文郷、小倉信太と共に呼び寄せられ、ロンドンで「ボンサマリタン」という修道会設立する動き行動を共にしたことがある。早朝からのミサ労働夕方長いお祈りとともに日本への布教考え毎日だったが、ラテン語習得に悩む路可に対して戸塚から「君は君の芸術をもって神様光栄のために働きたまえ、フラ・アンジェリコのように。」と諭され、岩下からも「君は芸術家として立派に布教できるのだから、神父の職を得て布教につくすより、むしろ専門カトリック美術勉強し芸術をもって生涯送った方がよい。立体派キュービズム影響されずにイタリア正統画風を学ぶべきだ。」と忠告されパリへ帰り芸術活動専念することになる。 パリ戻った路可は洋画作品次々と発表し、サロン・ナショナルやサロン・ドートンヌ入選するほどに頭角を現すが、西域壁画の模写仕事と「アール・デコ」という新し美術潮流接したことで壁画への興味生まれ、また岩下の「イタリア正統画風学ぶべき」という言葉に従うかのようにフレスコ画フォンテーヌブローの「フレスコ研究所」でポール・アルベール・ボードワンについて修得する。 路可の帰国した1927年は、小田急小田原線開通した年でもある。小田急電鉄創設者利光鶴松が、長女伊東静江意を受け東京府下狛江に私的聖堂(後にカトリック喜多見教会となる。)を建設した際、その壁画制作を路可が依頼された。会堂1928年7月竣工し内陣および側壁長谷川路可による日本最初フレスコ壁画聖母子教会復活と聖ミカエル殉教者と聖ザビエル》と《天地創造》が壁面飾った。この壁画のうち内陣の《聖母子ほか》の壁画だけが、1978年聖堂移転改築の際に路可の弟子宮内淳の手によりストラッポされ、喜多見駅前の新しカトリック喜多見教会聖堂10年後に復元された。壁画完成後、路可は大和絵画家らしく『喜多見教会縁起絵巻』という長尺絵巻物制作し1929年第9回新興大和絵会展》に出品している。このことがきっかけで、1929年小田急江ノ島線開通に際して南林間駅前に伊東静江開いたミッション・スクール大和学園高等女学校図画担当講師招聘された。2013年7月カトリック喜多見教会閉鎖際し、《聖母子ほか》と《喜多見教会縁起絵巻》は学校法人大和学園聖セシリア大和市)に寄贈され、現在同学園が所蔵している。 1928年黒澤武之輔、木村圭三、佐々木次郎近藤啓二、小倉一郎とともに理事としてカトリック美術協会」を結成1932年第1回カトリック美術協会展」より、渡伊前年第10回展までほぼ連続して日本画出品し中心的な役割果たした鵠沼時代の路可は、鎌倉天主公教会大町教会(現・カトリック由比ガ浜教会)に在籍し片瀬山本家の仮聖堂でのミサにも出席した記録がある。1937年、この地にカトリック片瀬教会建設されることになった聖堂建物は純日本風建築様式にすることになった一見寺社風の聖堂1939年の「聖ヨゼフの祝日3月19日)」に献堂された。この時点で路可は既に目白移っていたが、聖壇両脇床の間を飾る《エジプト避行》、《ルルドの聖母》(これは1946年路可筆の《聖家族》に架け替えられた)の掛け軸と、礼拝室両側に《十字架の道行き》の14面の色紙、さらに司教館玄関飾られている扇面宣教師》を描いている。この他各地教会のために描いた日本画作品としては、名古屋市カトリック南山教会の《信徒》(1940年)、鹿児島カテドラル・ザビエル教会ザビエル渡来400年記念絵画として描いた臨終の聖フランシスコ・ザビエル》、《少女ベルナデッタに御出現ルルドマリア》、《聖ザビエル日本布教図》(1949年)が知られている。 カトリック画家長谷川路可生涯最大仕事はイタリアチヴィタヴェッキア市の日本聖殉教者教会聖堂内部装飾である。1950年聖年に際してバチカン訪れた路可は、同年8月、既に金山政英駐バチカン代理公使紹介で、松風誠人を介して日本聖殉教者教会壁画制作依頼されており、翌年年頭から下絵制作取りかかった。夏には現地入りし、フレスコ壁画制作着手する清貧重んじる修道院の中の生活である。「朝は未明の鐘とともに起きスパゲッティ繰り返される貧し食卓長い祈りの後のイタリア語談話に耐え、心おきなく語り合う友人もないただ一人日本人として、この長い期間を身にしみて異郷にある思いをした。(朝日新聞昭和32年9月15日)」こうした環境の中で、足場組みなどは現地職人手伝わせたが、祭壇画天井画制作独力で進められた。 こうして祭壇画日本二十六聖人殉教図》と天井画聖母子像》《アッシジ聖フランチェスカ像》《聖フランシスコ・ザビエル像》《聖フェルミナ像》《支倉常長像》などが出来上がったところで、1954年10月10日、コスタンティーニ枢機卿迎えて、路可が後に「生涯最良の日」と記した壁画完成祝別式が挙行された。そこに列席したのはイタリア側はチヴィタヴェッキア・タルクイニア教区長ジュリオ・ビアンコーニ司教、フランチェスコ・ダンジェリ修道院長、ジアチント・アウリッチ元駐日大使宗教否定的だったイタリア共産党チヴィタヴェッキア市長レナート・プッチ、在外外交官など日本側から原田健イタリア大使夫妻井上孝治郎ヴァチカン公使夫妻パリ美術家連盟関口隆志画伯などが参列しまた、高松宮様からはご紋付きの祭壇掛け贈呈された。さらには日伊合作オペラ映画蝶々夫人」に出演するためにローマ滞在していた女優八千草薫東郷晴子歌手田中路子ほか、宝塚歌劇団女優15名が着物姿参列し花を添えたという。その席で路可はフランシスコ会から「ビアン・フェザンス」(傑出した後援者)という称号を受け、またチヴィタヴェッキア市からは名誉市民推挙された。 コスタンティーニ枢機卿はその祝辞の中で、殉教者たち信仰を表す表現深さ少年を含む殉教者示した一途な信仰日本人神秘性称賛し、「祭壇周囲描かれたこの壁画が、感動すべき日本信徒殉教をわれらに知らせたばかりではなく画家イタリアで学んだ技術立派な形でわれらに示したことに注目しなければならない。」と述べ東西文化交流結実し日本画技法フレスコ壁画巧みに融合したこの壁画美術上の卓越さを指摘すると、参列した一堂に深い感銘与えたその後路可は、ウルバニアーナ大学ローマ)の神学部礼拝堂に聖フランシスコ・ザビエル生涯描いたレスコ壁画連作制作し帰国したのは1957年8月だった。 カトリック画家長谷川路可生涯最後の仕事は、長崎市西山刑場跡に建てられ日本二十六聖人記念館における制作である。1966年壁画《聖ザビエル像》を制作したところで心臓病東京女子医大病院入院翌年フレスコ壁画長崎への道》を制作、これが大作としては遺作となった。 路可はその生涯の中で、さまざまな絵画日本画)をバチカン献上し、《切支丹曼荼羅》(1927年)《ゲッセマネ》(1934年)《切支丹絵巻三巻1951年)《暁のマリア》(1967年)は現在バチカン布教民族美術館所蔵されている。1927年長崎司教区のヤヌアリオ早坂久之助師の、日本人として初の司教への叙階表慶した≪切支丹曼荼羅≫は、「日本のカトリック信徒よりローマ法王ピオ11世に贈る」として描かれたもので、大和絵風の画面和装聖母子天女のように降臨し帆船乗って日本にたどり着いた宣教師や、南蛮寺信徒になった人々迫害されキリシタンといった日本の「切支丹」の歴史一枚の絵描きこんだもので、路可のその後スタイル確立したメルクマークとなる代表作である。おそらく大和絵という和の感覚と、キリスト教世界融和することを確信した作品だったろう。最後に献上した≪暁のマリア≫も、天女のようなマリア雲に乗ってイエス抱きながら降臨する作品だった。路可の示した布教した国々にはそれぞれの国の聖母子像があるという考えは、その後、イスラエル・ナザレの受胎告知教会各国聖母子像展示するという企画へとつながり日本からは1968年、路可の下絵を基に「F・M会員が≪聖母子≫という作品作り献上している。なお、バチカンの「布教民族博物館」では、路可の作品がしばしば展示されている。

※この「カトリック画家として」の解説は、「長谷川路可」の解説の一部です。
「カトリック画家として」を含む「長谷川路可」の記事については、「長谷川路可」の概要を参照ください。

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