カトリック画家として
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少年・長谷川龍三は1914年、17歳の暁星中学5年の夏休みに北海道北斗市のトラピスト修道院で一夏を過ごした。午前4時に起床し、午後9時の祈りが終わると就寝するという生活。労働修道士にまじって牧草を刈ったり、厨房の仕事や掃除など献身的な生活を続けながら、中沢神父様からカトリックの教えを授かり、同宿した詩人の三木露風からは芸術の尊厳について話を聞かされていたという。そうした体験を経て、その年のクリスマスを前に暁星学校でハンベルクロード神父から受洗し、洗礼名は画家の守護聖人であるルカだった。 東京美術学校日本画科に入学すると、3年生のとき《南蛮寺》を制作、翌年第2回帝展に《エロニモ次郎祐信》を出品し、路可はカトリック画家としての歩みを始める。また、美校在学中、露風には《聖ドミニコ像》(日本画)を白陵号でを贈っている。卒業制作は細川ガラシアを描いた《流さるる教徒》で、この作品から路可という雅号を名乗るようになる。現在、上記《南蛮寺》と共に東京芸術大学大学美術館に収蔵されている。 東京美術学校卒業後からまもなく、23歳で路可は欧州航路でフランスへと渡る。これは憧れのパリに行って、念願だった西洋絵画の技法を学ぶつもりで旅立ったのだろう。渡仏した1921年の冬、暁星中学校の先輩岩下壮一から、在欧中の戸塚文郷、小倉信太郎と共に呼び寄せられ、ロンドンで「ボンサマリタン」という修道会を設立する動きと行動を共にしたことがある。早朝からのミサ、労働、夕方の長いお祈りとともに日本への布教を考える毎日だったが、ラテン語の習得に悩む路可に対して、戸塚から「君は君の芸術をもって神様の光栄のために働きたまえ、フラ・アンジェリコのように。」と諭され、岩下からも「君は芸術家として立派に布教できるのだから、神父の職を得て布教につくすより、むしろ専門にカトリック美術を勉強し、芸術をもって生涯を送った方がよい。立体派、キュービズムに影響されずにイタリアの正統画風を学ぶべきだ。」と忠告され、パリへ帰り、芸術活動に専念することになる。 パリに戻った路可は洋画の作品を次々と発表し、サロン・ナショナルやサロン・ドートンヌに入選するほどに頭角を現すが、西域壁画の模写の仕事と「アール・デコ」という新しい美術の潮流に接したことで壁画への興味が生まれ、また岩下の「イタリアの正統画風学ぶべき」という言葉に従うかのように、フレスコ画をフォンテーヌブローの「フレスコ研究所」でポール・アルベール・ボードワンについて修得する。 路可の帰国した1927年は、小田急小田原線の開通した年でもある。小田急電鉄創設者利光鶴松が、長女(伊東)静江の意を受けて東京府下狛江に私的聖堂(後にカトリック喜多見教会となる。)を建設した際、その壁画制作を路可が依頼された。会堂は1928年7月に竣工し、内陣および側壁に長谷川路可による日本最初のフレスコ壁画《聖母子・教会の復活と聖ミカエル・殉教者と聖ザビエル》と《天地創造》が壁面を飾った。この壁画のうち内陣の《聖母子ほか》の壁画だけが、1978年、聖堂の移転改築の際に路可の弟子の宮内淳吉の手によりストラッポされ、喜多見駅前の新しいカトリック喜多見教会小聖堂に10年後に復元された。壁画完成後、路可は大和絵画家らしく『喜多見教会縁起絵巻』という長尺の絵巻物も制作し、1929年の第9回《新興大和絵会展》に出品している。このことがきっかけで、1929年、小田急江ノ島線開通に際して南林間駅前に伊東静江が開いたミッション・スクール大和学園高等女学校の図画担当講師に招聘された。2013年7月、カトリック喜多見教会の閉鎖に際し、《聖母子ほか》と《喜多見教会縁起絵巻》は学校法人大和学園聖セシリア(大和市)に寄贈され、現在同学園が所蔵している。 1928年に黒澤武之輔、木村圭三、佐々木松次郎、近藤啓二、小倉和一郎とともに理事として「カトリック美術協会」を結成。1932年の第1回「カトリック美術協会展」より、渡伊前年の第10回展までほぼ連続して日本画を出品し、中心的な役割を果たした。鵠沼時代の路可は、鎌倉の天主公教会大町教会(現・カトリック由比ガ浜教会)に在籍し、片瀬の山本家の仮聖堂でのミサにも出席した記録がある。1937年、この地にカトリック片瀬教会が建設されることになった。聖堂の建物は純日本風の建築様式にすることになった。一見寺社風の聖堂が1939年の「聖ヨゼフの祝日(3月19日)」に献堂された。この時点で路可は既に目白へ移っていたが、聖壇両脇の床の間を飾る《エジプト避行》、《ルルドの聖母》(これは1946年路可筆の《聖家族》に架け替えられた)の掛け軸と、礼拝室両側に《十字架の道行き》の14面の色紙、さらに司教館玄関に飾られている扇面《宣教師》を描いている。この他、各地の教会のために描いた日本画の作品としては、名古屋市カトリック南山教会の《信徒》(1940年)、鹿児島カテドラル・ザビエル教会にザビエル渡来400年記念絵画として描いた《臨終の聖フランシスコ・ザビエル》、《少女ベルナデッタに御出現のルルドのマリア》、《聖ザビエル日本布教図》(1949年)が知られている。 カトリック画家、長谷川路可の生涯最大の仕事はイタリアチヴィタヴェッキア市の日本聖殉教者教会聖堂の内部装飾である。1950年、聖年に際してバチカンを訪れた路可は、同年の8月、既に金山政英駐バチカン代理公使の紹介で、松風誠人を介して、日本聖殉教者教会の壁画制作を依頼されており、翌年の年頭から下絵の制作に取りかかった。夏には現地入りし、フレスコ壁画制作に着手する。清貧を重んじる修道院の中の生活である。「朝は未明の鐘とともに起き、スパゲッティの繰り返される貧しい食卓に長い祈りの後のイタリア語の談話に耐え、心おきなく語り合う友人もないただ一人の日本人として、この長い期間を身にしみて異郷にある思いをした。(朝日新聞昭和32年9月15日)」こうした環境の中で、足場組みなどは現地の職人に手伝わせたが、祭壇画、天井画の制作は独力で進められた。 こうして祭壇画《日本二十六聖人殉教図》と天井画《聖母子像》《アッシジの聖フランチェスカ像》《聖フランシスコ・ザビエル像》《聖フェルミナ像》《支倉常長像》などが出来上がったところで、1954年10月10日、コスタンティーニ枢機卿を迎えて、路可が後に「生涯最良の日」と記した壁画完成の祝別式が挙行された。そこに列席したのはイタリア側はチヴィタヴェッキア・タルクイニア教区長ジュリオ・ビアンコーニ司教、フランチェスコ・ダンジェリ修道院長、ジアチント・アウリッチ元駐日大使、宗教に否定的だったイタリア共産党のチヴィタヴェッキア市長レナート・プッチ、在外外交官など日本側からは原田健駐イタリア大使夫妻、井上孝治郎駐ヴァチカン公使夫妻、パリ美術家連盟の関口隆志画伯などが参列し、また、高松宮様からはご紋付きの祭壇掛けが贈呈された。さらには日伊合作オペラ映画「蝶々夫人」に出演するためにローマに滞在していた女優の八千草薫、東郷晴子、歌手の田中路子ほか、宝塚歌劇団の女優15名が着物姿で参列し花を添えたという。その席で路可はフランシスコ会から「ビアン・フェザンス」(傑出した後援者)という称号を受け、またチヴィタヴェッキア市からは名誉市民に推挙された。 コスタンティーニ枢機卿はその祝辞の中で、殉教者たちの信仰を表す表現の深さ、少年を含む殉教者の示した一途な信仰や日本人の神秘性を称賛し、「祭壇の周囲に描かれたこの壁画が、感動すべき日本信徒の殉教をわれらに知らせたばかりではなく、画家がイタリアで学んだ技術を立派な形でわれらに示したことに注目しなければならない。」と述べ、東西の文化交流が結実し、日本画の技法とフレスコ壁画が巧みに融合したこの壁画の美術上の卓越さを指摘すると、参列した一堂に深い感銘を与えた。その後路可は、ウルバニアーナ大学(ローマ)の神学部礼拝堂に聖フランシスコ・ザビエルの生涯を描いたレスコ壁画の連作《制作し、帰国したのは1957年8月だった。 カトリック画家、長谷川路可の生涯最後の仕事は、長崎市の西山刑場跡に建てられた日本二十六聖人記念館における制作である。1966年に壁画《聖ザビエル像》を制作したところで心臓病で東京女子医大病院へ入院、翌年、フレスコ壁画《長崎への道》を制作、これが大作としては遺作となった。 路可はその生涯の中で、さまざまな絵画(日本画)をバチカンに献上し、《切支丹曼荼羅》(1927年)《ゲッセマネ》(1934年)《切支丹絵巻》三巻(1951年)《暁のマリア》(1967年)は現在バチカン布教民族美術館に所蔵されている。1927年、長崎司教区のヤヌアリオ早坂久之助師の、日本人として初の司教への叙階を表慶した≪切支丹曼荼羅≫は、「日本のカトリック信徒よりローマ法王ピオ11世に贈る」として描かれたもので、大和絵風の画面に和装の聖母子が天女のように降臨し、帆船に乗って日本にたどり着いた宣教師や、南蛮寺で信徒になった人々、迫害されるキリシタンといった日本の「切支丹」の歴史を一枚の絵に描きこんだもので、路可のその後のスタイルを確立したメルクマークとなる代表作である。おそらく大和絵という和の感覚と、キリスト教世界が融和することを確信した作品だったろう。最後に献上した≪暁のマリア≫も、天女のようなマリアが雲に乗ってイエスを抱きながら降臨する作品だった。路可の示した、布教した国々にはそれぞれの国の聖母子像があるという考えは、その後、イスラエル・ナザレの受胎告知教会で各国の聖母子像を展示するという企画へとつながり、日本からは1968年、路可の下絵を基に「F・M」会員が≪華の聖母子≫という作品を作り献上している。なお、バチカンの「布教民族博物館」では、路可の作品がしばしば展示されている。
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