カトリック王フェルナンドの征服とは? わかりやすく解説

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カトリック王フェルナンドの征服

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/12 01:24 UTC 版)

ナバラ王国」の記事における「カトリック王フェルナンドの征服」の解説

カトリックフェルナンドは、カタリナ長男フアン結婚させようとしたが、彼女は南フランス広大な領地有するペリゴール伯兼アルブレ伯ジャンジャン・ダルブレ)との結婚選んだ1494年)。カトリックフェルナンドはそれに懲りずにナバラに対して長く抱いてきた計画諦めずカタリナ従妹である自身姪孫ジェルメーヌ再婚したジェルメーヌの父ジャン・ド・フォワは、兄の遺児カタリナ差し置いてナバラ王位要求したこともあった)。ナバラフランス対す神聖同盟への加盟拒んで中立宣言しフェルナンド軍の国内通過妨害しようしたため、後にフェルナンド将軍ファドリケ・デ・トレド(第2代アルバ公)を1512年ナバラ侵攻のために派遣したジャン・ダルブレ逃れパンプローナエステーリャオリテサングエサ、およびトゥデラ占領された。ナバラ王家および神聖同盟すべての敵対者教会から破門されたため、ナバラ人々は、フェルナンド1515年6月15日王国領を獲得した宣言した王国領のうちピレネー山脈北側については、フェルナンド寛大にも敵に譲ったカトリックフェルナンドジャン・ダルブレ破った後、1515年ナバラ大部分を自領に加えた1511年または1516年に、スペインナバラ、すなわち王国領の大部分にあたるピレネー山脈南側部分は、最終的にフェルナンドによって併合された。後にフェルナンドは、この王国領を娘のカスティーリャ女王フアナ1世譲ったこのためスペインナバラアラゴンではなくカスティーリャ統治下にあると理解されることになった。ただし、スペイン側ナバラ副王領として統治され、公式には1833年までスペイン王国併合されなかった。

※この「カトリック王フェルナンドの征服」の解説は、「ナバラ王国」の解説の一部です。
「カトリック王フェルナンドの征服」を含む「ナバラ王国」の記事については、「ナバラ王国」の概要を参照ください。

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