料理の鉄人 番組の開始から終了に至るまで

料理の鉄人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/16 14:24 UTC 版)

番組の開始から終了に至るまで

元々はフジテレビ局内で「プライムタイム枠で、従来の料理番組(レシピ紹介)のスタイルとは全く異なる新しい料理番組を作ろう」というアイデアが持ち上がり、同時期に田中経一から本番組の企画が持ち込まれたことが番組誕生のきっかけとされている。当初はキッチンスタジアムのセットや鹿賀丈史の大袈裟な衣装[注 26]ミシュランガイド等に代表される既存の料理界の権威に対するパロディ要素を多分に含んだ企画となっていた[18]

1993年10月放送開始。この当時は日曜22時30分からの30分の放送であった。その後、1994年4月、『ワーズワースの庭で』(後に『ワーズワースの冒険』として改題リニューアル)と放送を交換する形で、金曜23時からの45分の放送となった。

1995年には23時台の放送でありながら20%弱の平均視聴率を稼ぎゴールデンタイムの番組にも勝る結果になった。最高視聴率は、1995年3月31日に放送されたスペシャル「完全なる料理の鉄人 香港決戦」で23.2%。1995年にはATP賞グランプリを獲得したほか、海外での放映もスタートしエミー賞にもノミネートされるなど番組は絶頂期を迎える。当初「既存の料理界の権威のパロディ」として始まったはずの番組が、人気の高まりにつれ番組自体が権威と化し、多くの料理人が出演を希望するようになるという、番組スタッフにとっては皮肉な、そして、嬉しい悲鳴を上げる程の現象も起きた[18]

しかし1996年の年明け早々、番組の看板の一人である和の鉄人・道場六三郎が降板した影響により徐々に視聴率が低下。更に1999年単独スポンサーだった日産自動車の経営不振と、これに伴うルノーとの資本提携カルロス・ゴーン最高執行責任者就任・経営再建計画「日産リバイバルプラン」の発表により単独スポンサーを降板(その後は筆頭提供)し、番組の制作費がシビアとなったことや出演者のスケジュール調整の問題もあり、番組継続に頭を抱えるようになった。第4のジャンルとして「イタリアン」を加えるなどのテコ入れも図ったが、視聴率的には二桁をキープしてきてはいたものの以前と比較すると落ち込み、1999年9月に6年にわたるレギュラー放送の終止符を打った。その後は特番という形で不定期放送することになったものの、2002年の特番が最後の放送となった。

その後2012年10月より、タイトルを海外版と同じ『アイアンシェフ』に改めて、13年ぶりにレギュラー放送で復活した[19]。解説の服部以外メンバーは総入れ替えとなった。しかし前評判とは裏腹に視聴率は伸びず、わずか半年で終了した。

エピソード

  • 番組初期の頃は挑戦者も慣れていないせいか、制限時間に間に合わず、納得いく料理を作れなかった挑戦者も見られた。当時はまだ番組のルール自体も不安定で、当初は皿・包丁・まな板といった料理器具の持込すら許されていなかったことも影響していたと言われる[20]。しかし、後には番組のルールが確立し、挑戦者のレベルも飛躍的に向上したため、そうした事は見られなくなった。
  • 番組本などの回想を確認する限り、どの鉄人と戦うかは、特に挑戦者からの希望がない限りはオファーの段階から基本的に事前に決まっていた。主宰の呼びかけによって3人の鉄人が勢揃いする映像が有名だが、番組収録時には対戦のある鉄人のみがスタジオに来ており、登場シーンは使い回しの勢揃い映像と、実際に収録する1人だけ立っている鉄人の映像を巧みに編集していた。挑戦者によっては勢揃いの場合もあり、指名されなかった鉄人の帰り間際のコメントが番組内で紹介されたこともある。陳や坂井は自らが負け続けた時など、「自分だったらどうするか」とシミュレーションするため他の鉄人の対戦によく立ち会っていたという[21]
  • 一方で番組初期の頃は、番組自体の知名度が低かった上に「料理人同士が対決する」というコンセプトが必要以上に警戒されたため、予定していた挑戦者が収録直前になって番組出演を辞退したり、収録自体をすっぽかしたりするケースも多かったという[22]。しかし番組がメジャーになると逆に「挑戦者に選ばれるだけでステータスが上がる」となったため、前述の通り出演希望者が多数現れる状態となった[18]
  • フレンチの鉄人が石鍋から坂井に交代した時期が上記の通り初期の番組知名度が低い時期(日曜の放送枠)であった事と、石鍋のレギュラー期間が3ヶ月間と短期だったため、初代のフレンチの鉄人が坂井だと思っていた視聴者もいた。後に特番等にゲスト出演したり番組内で紹介されて石鍋の存在が周知されていった。
  • 番組の冒頭においては司会の鹿賀が挑戦者の名前や経歴などを紹介し、この時に挑戦者の年齢も紹介するのが基本であったが、挑戦者が女性である場合は、(全員ではないが)挑戦者の年齢を言わないことが多く、1996年11月1日放送の回では、女性挑戦者の年齢を「ン~歳」と表現した演出もあった。
  • 道場は神田川の弟子との甘鯛対決の際に番組最多の8品を作ると宣言していたが、結局間に合わずタイムアップ後も作業を行っていた。当然神田川サイドからの抗議をうけ、話し合いの結果(オンエア上はカット)間に合わなかった料理をカットすることとなった。だが、残りの料理の出来は大きく評価され(豆腐にフォアグラ、トリュフを混ぜ、それを甘鯛で包んで蒸すという道場らしい独創性が冴え渡っていた)勝利をおさめた。
  • 中村はキャビア対決の時に「キャビアをおいしく食べるのはこの方法しかない」として、キャビアに合う食材、料理を用意してその上にキャビアをのせて食べるという料理を(実質この1品のみ)作って勝利したことがある。
  • 平野寿将は陳とのウニ対決の際に「8品作る」と宣言していたが、これは単なるリップサービスで結局作ったのは4品、試合も完敗であった。
  • ちゃんこ鍋を得意とする挑戦者が登場したが、時間が間に合わないという理由で鍋料理は作らなかった。
  • 料理対決では高級食材がふんだんに使用され、6年間で使われた食材の総額は実に8億4335万4407円にも及んだ。これには最終回に出演した元総理大臣・橋本龍太郎も「こんなにお金が出ているんだったらもっと食べたかったのに」と苦笑いと驚嘆の意を示した。ちなみに番組中、最も値段の高かったテーマ食材は燕の巣で、この回では1グラム1000円とも言われる燕の巣が280万円分用意された。前述のキャビアも最高級のベルーガキャビア1.8kgが2缶用意され、総額200万と紹介された。器にスポットを当てた回もあり、大根対決では総額1億円相当の有田焼[注 27]が、ほろほろ鳥対決では総額2500万円相当のウェッジウッドが用意された。
  • 料理は主宰の鹿賀、審査員の人数分に加え、ディスプレイ用(試合終了後に各々の料理を紹介する場面)を作る。『とんねるずのハンマープライス』でディスプレイ用料理を食べることができる権利(正式名称は料理の鉄人スタジオ残飯処理権)が出品された事もあった。なお、ディスプレイ用料理は撮影後に廃棄される。
  • 主宰役の鹿賀丈史にとって、見事なまでの当たり役だったため、美食アカデミーが実在、または相当な美食家と思われた事も多かったそうである。番組の人気と共に行き付けのレストラン等やロケ先のレストラン等の店員に鹿賀が注文したメニューの判定をして欲しいと言われ、鹿賀本人が恥ずかしい思いをしたという。本人は「鹿賀にはこれしかないと思われると困る」と嘆いていた。好き嫌いがないのが主宰役として重要なポイントではあるが、「うどん対決」において「うどんが嫌いです」と漏らしている。
  • 当初、番組名は『竈(かまど)の達人』の予定であったが、『竈』という文字が読みづらい事、また『竈』が常用漢字でないため新聞に掲載できなかったこともあり、最終的には『料理の鉄人』という番組名に変更された。
  • 当初は採点の詳細は未発表であったが、視聴者からの強い要望で、1995年10月以降は審査員個々の採点結果が開示されるようになった。
  • 食材(しょくざい)という言葉はこの番組によって一般化し、1998年の『広辞苑』(第五版)に収められた(中国語にはこの語はない)。
  • 番組初期の頃、調理業界では番組に対して「プロを愚弄するような番組だ」「業界をダメにする」などの批判があり、鉄人達に対する風当たりも強かった。しかし番組の人気が上がった事実や、周囲に「本当にたった1時間でその場で知らされた素材を調理している」事等が認知されると、高い評判へと変わったという。
  • 他の料理番組や雑誌にまでブームが及び『SMAP×SMAP』『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』など、他のバラエティー番組でもタレントが料理に挑戦するコーナーが続出した。なお、演出を手がけた田中経一はその後テレビ朝日にて、この番組と同じく料理をテーマにした『愛のエプロン』や、ほぼ同じ趣向の番組『魂のワンスプーン』(TBS)の演出も手がけている。
  • スタジオのセットはロンドンのハロッズの食品売り場をイメージしたものである。
  • かつてひらまつグループが経営していたイタリア料理店「ヴィノッキオ」のシェフであったが、同乗者が死亡した交通事故をきっかけに消息を絶った山田宏巳が挑戦者として登場。陳との「キャベツ対決」で勝利の後メディアからの注目を浴び、「リストランテ・ヒロ」をオープンさせて料理界に復帰し、どん底からの復活として大きな話題となったものの、2006年4月大麻所持で逮捕された。その後、彼は再び料理界への再復帰を果たし、2013年2月15日放送の『アイアンシェフ』ではノミニーとして登場し、中華のアイアンシェフ・脇屋友詞との「キャベツ対決」を制した。
  • かつてイタリア料理界の巨匠ジャンフランコ・ヴィッサーニの店で料理長を務めながらも、日本では自分の腕を発揮できる店がないという理由で料理界から離れ、トラックの運転手をしていた小林幸司も、同じく挑戦者として陳との「カボチャ対決」で勝利し、後に「リストランテ・マリーエ」の料理長として料理界に復帰した。その後、小林の師であるヴィッサーニも『鉄人ワールドカップ』(後述)に出場し、道場との「カモ対決」で名勝負を展開した。
  • 大阪在住の追立久夫が挑戦者として出演した回は、1995年1月20日に放送された。ところが、放送日の3日前に阪神・淡路大震災が発生し、追立本人の地元である大阪の系列局の関西テレビでは、関西地区のみに向けて放送する報道特別番組に差し替えたためこの回が放送されず、追立は無念の思いを隠せなかったという。
  • 2006年秋には東京電力のオール電化キッチンの宣伝に陳(同年春から出演)・坂井・道場が出演し、1人ずつでIHクッキングヒーターの使い心地を試すバージョンが製作された。印刷物や看板では3人が鉄人シェフを模したコスチュームで登場している。
  • 番組で使用されたBGMは、テーマ曲がハンス・ジマースコアを手掛けた映画『バックドラフト』のサウンドトラックから抜粋された。その他のほとんどはマイケル・ナイマン作曲の『英国式庭園殺人事件』『ZOO』『数に溺れて』『コックと泥棒、その妻と愛人』のサウンドトラックから抜粋。他に『グローリー』『エアフォース・ワン』『アルマゲドン』『∀ガンダム』『信長の野望シリーズ』『三國志シリーズ』などの曲も使われた。
  • 収録の合間の待機時間などには、スタッフが自由につまみ食いができたそうで、実況と解説の立場として試食ができない服部と福井アナも、それぞれマイスプーンを持参し、料理を味わう事ができたそうである。
  • 1999年5月21日放送の回では、鉄人の勝率の急激な落下、特に1999年2月26日からの3か月間は3連敗を含む鉄人の3勝6敗[注 28]という史上最悪の記録を受け、主宰である鹿賀が進行をボイコットする事態となった。その回で行われた、挑戦者・スパノ・ステルビオと鉄人・陳の乳飲み豚対決は、服部幸應が通常の解説を兼ねて、主宰代理を務めた。結果発表の際、主宰・鹿賀がワイングラスを片手にスタジアムの袖から発表を見守った。そして、鉄人・陳の勝利がコールされると、ワインを一口飲み、安堵の表情で小さく拍手を送った。
  • 中期以降は著名人からの推薦で参戦する挑戦者も増えだし、挑戦者がキッチンスタジアムに入場する際はその推薦者も同行していたが、推薦者は実況席や試食審査には参加せずスタジアムの袖から観覧するのみの扱いだった。

注釈

  1. ^ なお、1993年10月10日放送の第1回(対決)の制限時間は90分間だった。翌週10月17日放送の第2回(フォアグラ対決)より60分間に変わった。
  2. ^ ただし、1993年10月31日放送のフグ対決では、主宰の試合開始宣言の後、ふぐ調理師の有資格者がその場で、毒を含む部分と食用が許可された部分を分離する処理を行い、その後改めて、福井アナの合図により60分間の試合が開始された。
  3. ^ この時は両者に調理中アクシデントが発生し納得がいく料理を作れなかったためこのような措置が取られた。
  4. ^ 正確な所在地は千代田区平河町
  5. ^ 加賀田京子、小林カツ代、崔玉芬の3名に敗退、ただし加賀田とはその後再対戦で勝利している。陳の対女性挑戦者との対戦記録は8勝3敗となっている。
  6. ^ ただし、特番で1敗している。
  7. ^ 5連勝以上だと4回達成している。
  8. ^ 坂井ととろろ芋対決で対戦した藤井宗哲の妹。藤井も登場。
  9. ^ 小林カツ代の息子。
  10. ^ 1回目の8連勝の時は道場とのタッグマッチでの勝利を挟む。
  11. ^ a b 三兄弟の長男サルヴァトーレ・クオモと次男ラッファエレ・クオモのタッグ。
  12. ^ 1995年末に山陰中央テレビ制作、中国・四国ブロックネット5局にて放映されたオマージュ番組『決定!鉄人の鍋』の優勝者。「鉄人甲子園」岡山県代表として出場。
  13. ^ 放送4ヶ月後の1997年5月15日、不慮の転落事故(店舗内の階段で転倒し、頭部を負傷)により37歳の若さで急逝。鉄人への挑戦者の中では最初の物故者となり、後述の1999年9月に放送された世界最強シェフ決定戦の際には会場の挑戦者席に遺影が飾られた。
  14. ^ 当時の夫は元プロ野球選手で、当時大阪近鉄バファローズの二軍投手コーチを務めていた小林繁。シーズン中の放送だったが、小林本人も実況席ゲストとして出演していた。
  15. ^ 個人戦での記録。ただし間にタッグマッチでの1敗を挟む。
  16. ^ 2012年12月31日放送分「アイアンシェフ」の成績を加えると、40戦34勝5敗1分 通算勝率85.0%となる。
  17. ^ 神田川も中村と同じく「なだ万」の出身であり、奇しくも「なだ万」出身者同士の対戦となった。
  18. ^ この対決のテーマ食材選定と発表も、主宰ではなく道場が行っている。
  19. ^ ただし、復活版アイアンシェフで、和のアイアンシェフ黒木純も初戦黒星となっている。またこの日の対戦相手の萩原はリターンマッチで2回目の出演だった。
  20. ^ 後身の『アイアンシェフ』でも「鹿賀主宰は亡くなった」という設定になっており、2012年10月26日放送の初回2時間SPでは、冒頭で主宰の玉木宏が、初代主宰の鹿賀の墓を訪れていたシーンが存在した。当然、鹿賀は2022年7月現在も存命である。
  21. ^ 特番も含む。レギュラー放送での通算成績は2勝1敗。陳と中村に勝利、坂井に敗れている。
  22. ^ 陳に対しては団体戦での勝利。ただしこの団体戦は同票かつ同点の結果となったが鹿賀の独断で最終判定がなされた。
  23. ^ タコが食材の対戦では番組初期に陳も程に敗れている。
  24. ^ 坂井に敗れた2敗のうち1回は団体戦での敗北。またこの団体戦では陳と宮本荘三とチームを組んでの出演だった。
  25. ^ 山野辺自身も福島県の出身である。
  26. ^ 基本的にLUNA MATTINOの衣装が使われていた。
  27. ^ 評価額3000万円の物もあり、塩をたっぷり盛られた後にバーナーで炙られるという使われ方をされた。調理中にガラスの器(これは普通の食器)が割れる場面もあり、関係者をハラハラさせる中での対決となった。
  28. ^ うち1勝は引き分け再試合での勝利。
  29. ^ このシーンはもう使用されていない
  30. ^ なお、政見放送という性質上、これはこの番組のネット局であったテレビ静岡以外の在静民放3局と静岡県内のNHK総合テレビでも放送された。
  31. ^ 日曜日時代は、当該時間帯で日本テレビ系列の『オシャレ30・30』を1週遅れで放送していた関係で、30分遅れの23:00 - 23:30に放送していた。その後1994年4月の金曜23時に移行と共にフジテレビ系列シングルネット化され、同時ネットとなった。
  32. ^ ニュースJAPAN』初回放送の拡大部分でも提供。
  33. ^ その前はJT1996年12月6日のみ時間帯の都合でセコム)のCMを放送していた

出典

  1. ^ 日本放送協会 (2016年11月4日). “『きょうの料理』一挙93本、若き日の“鉄人”たちも!”. NHK番組発掘プロジェクト通信. 2023年3月14日閲覧。
  2. ^ 「中華の鉄人」で活躍、四川飯店グループ会長陳建一さんが死去”. 朝日新聞 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  3. ^ a b 日本テレビ (2023年3月14日). “料理人の陳建一さん、間質性肺炎のため死去 67歳 “中華の鉄人”としてテレビで活躍”. 日テレNEWS. https://news.ntv.co.jp/category/culture/49aa7274efcf4b4b8a5092b85a7b6522 2023年3月14日閲覧。 
  4. ^ フジテレビ「料理の鉄人」 編『料理の鉄人』(初版第1刷)フジテレビ出版、1994年8月10日、58、64ページ頁。ISBN 4-594-01495-X 加賀田にはその後逆リターンマッチを挑み勝利した。
  5. ^ フジテレビ「料理の鉄人」 編『料理の鉄人』(初版第1刷)フジテレビ出版、1994年8月10日、116、121ページ頁。ISBN 4-594-01495-X 
  6. ^ 「料理の鉄人大全」p.87、p.165によれば、この時に坂井は陳に「陳さんが辞めるなら俺も辞める」「やるんだったら二人で一生懸命やろう」と語ったという。
  7. ^ 「料理の鉄人」司会の鹿賀丈史が陳建一さんに追悼コメント「いつも笑顔を絶やさないお人柄でした」”. スポーツ報知 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  8. ^ 《追悼》フレンチの鉄人・坂井宏行シェフが盟友・中華の鉄人へ「大好きでした」”. テレビ朝日 (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  9. ^ 和の鉄人・道場六三郎さん、陳建一さんを追悼「僕も92歳で年寄りだから、待っててよ」”. ENCOUNT (2023年3月14日). 2023年3月14日閲覧。
  10. ^ 「料理の鉄人大全」 p161
  11. ^ 「料理の鉄人大全」 p163
  12. ^ 「料理の鉄人大全」 p.103
  13. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.102 - 107の本人へのインタビューでは、「いかにも「なだ万」らしい料理を作っても『料理の鉄人』では勝てない」「あの番組では伝統的な和食は喜ばれない」として、それに気づくまでは苦労したことを吐露している。
  14. ^ 有馬温泉 四季の彩 旅篭|館主・大田忠道”. 2019年5月16日閲覧。
  15. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.120 - 125
  16. ^ 「料理の鉄人 大全」 p.123
  17. ^ 「料理の鉄人」神戸勝彦さん死去 鎧塚俊彦氏ら追悼 - 日刊スポーツ 2019年3月19日
  18. ^ a b c 「料理の鉄人大全」 pp.76 - 79
  19. ^ 料理の鉄人 : 13年ぶり“復活” 10月からレギュラー放送”. 毎日新聞 (2012年9月7日). 2012年9月7日閲覧。
  20. ^ 「料理の鉄人大全」 p.50
  21. ^ 「料理の鉄人大全」 p.151
  22. ^ 「料理の鉄人大全」 pp.55 - 58
  23. ^ インドネシア出張料理
  24. ^ アーカイブされたコピー”. 2007年12月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年12月3日閲覧。
  25. ^ フジ『料理の鉄人』がNetflixで復活 アメリカ版は6月に全世界独占配信、ブラジル版・メキシコ版も制作へ Netflixコンペティションショー『アイアン・シェフ~伝説の鉄人を探求~』”. 株式会社フジテレビジョン (2022年5月3日). 2022年5月3日閲覧。
  26. ^ 「料理の鉄人」アメリカ版、Netflixで6月15日から世界190の国と地域で配信”. 日刊スポーツ (2022年5月3日). 2022年5月3日閲覧。
  27. ^ 料理の鉄人 キッチンスタジアムツアー まとめ (セガサターン)/ファミ通.com
  28. ^ a b c セガサターンマガジン 1996年2月23日号 217ページ






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