国家安全保障
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日本の安全保障
幕府末期時代には幕府陸軍、幕府海軍を創設し、独自で安全保障を担うことになった。明治維新によって近代化した日本は1871年に日本軍が創設された。しかし当初は法整備等もされていないため、横浜に英仏横浜駐屯軍(イギリス軍とフランス軍)の駐留を認めていた。しかし、駐留軍の経費は明治政府側が全て負担していたため、国家主権侵害の恐れがあるため日清戦争前に撤退、独自で日本は安全保障を担っていた。
日清戦争、日露戦争に勝利し、第一次世界大戦にはドイツ帝国とオーストリア=ハンガリー帝国に勝利した日本は国際連盟の常任理事国にもなった。第二次世界大戦によって当初は日本軍が優勢になり、東南アジアを植民地化していたイギリス軍やフランス軍を降伏させ、占領した。その後、日本軍による真珠湾攻撃により太平洋戦争が勃発した。日本はアメリカ軍の圧倒的な強さによって、日本は敗北した。
太平洋戦争での敗戦によって、日本国憲法を制定し、憲法の精神とされた平和主義の下で国権の発動としての武力の放棄をしてきた。冷戦期に突入すると世界は資本主義国により構成された西側諸国とソ連を盟主とした共産主義国との間で二極型の勢力図が形成されていった中で日本はアメリカ合衆国主導による戦後統治の中で資本主義陣営の一員として、米国の同盟国としての役割をはたしていった。当時の日本周辺の極東地域は共産勢力が強く、日本はソ連と中国といった二大共産主義国と隣接する国として資本主義陣営の盟主・米国にとって安全保障上の重要な拠点として認識され、日本国内各地に米軍基地が設けられ資本主義陣営の戦略的橋頭堡とされていた。米軍指導の下で警察予備隊が編成され、以来、途中保安隊、自衛隊への改編を経て今日に至っている。このようななかで独立回復後も日本の安全保障戦略は基本的に米国の世界戦略の元で構築されてきた。
自衛力の保持についての是非は戦後憲法論争や国民世論の中で大きな問題となり、1960年には日米安全保障条約に基づき、日米同盟が締結された。国内世論は戦後の痛手の中で復興の途上にあり、国民感情としても安全保障を論ずることが忌避されるムードがあり、日米同盟締結時であった60年安保、また新日米安保条約締結時の70年安保闘争などを経て時として世論の大きな反対を受けつつも日本国としては専守防衛の理念の下で自衛隊を保有し続けてきた。戦後、長期にわたって政権を担ってきた自由民主党は早い時期から自衛力の保持及び集団的自衛権の保有等の問題をめぐって有事法制や憲法改正を主張してきたが、いまだ第二次世界大戦の記憶が生々しいなか日本社会党ほか護憲勢力の反対を受け、きわめて抑制的な安全保障体制の中で米軍の軍事力による抑止力をもって極東地域における安全保障秩序を維持してきた。その後も最低限の自衛力の必要性については国民世論も大いに見解の分かれる中で社会の中で理解が得られていたといえようが、憲法改正などによる軍事力に対しての抑制的な見解が世論を覆っていたといえる。
しかし、冷戦崩壊の後、米ソ二極対立の陰に隠れてきた民族や宗教的価値観による地域間の対立が表面化するとともに次第にPKOを中心とした平和的な貢献の道が模索される様になり、自衛隊による海外派遣の機会も次第に増えていった。
今日、北朝鮮のミサイルの度重なる発射、中国の軍拡など、以前とは異なる状況下、日本の安全保障においては専守防衛のあり方、日米同盟のあり方、自衛隊の運用の範囲などが大いに議論を生んでおり、憲法を改正し、米国の同盟国としての役割をはたしてきた戦後の歩みを追認するとともに、今後は日米同盟の下でより積極的な軍事的貢献を模索すべきとする改憲論と、現行憲法を堅持し、憲法がうたう平和主義の理想を具現化すべきという護憲論とに二分し、国民世論を二分する事態となっている。
- ^ 『安全保障』 - コトバンク
- ^ “米鉄鋼関税、日本に適用 韓国、EUは除外” (2018年3月23日). 2018年7月14日閲覧。
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