横溝正史による解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 16:03 UTC 版)
昭和2年正月に、横溝正史は神戸で結婚したが、その間に森下雨村は、自宅のある小石川小日向台町に横溝のための借家を用意していた。当時小日向町には延原謙、松野一夫、平林初之輔(のち『太陽』の編集長)らがいて、雨村を中心に「新青年グループ」を形成しており、横溝は「小日向台町に住むことによって、ハッキリと雨村傘下に編入された」という。 博文館に入社して三月ほどのうちに、横溝は博文館で人事の大改革を聞かされた。編集局長の長谷川天渓が退職し、雨村が就任するので、『新青年』を横溝に一任するから相棒を物色せよというものだった。この年の暮に改革は断行され、『農業世界』以外の雑誌の編集長は全て首となった。隠密裏にこの計画は進められ、横溝は「その申し渡しがあったとき、博文館が騒然とし、殺気だったのを私は今でも覚えている」と語っている。しかしこの計画は横槍が入って長谷川退陣が実現せず、雨村が『文芸倶楽部』編集長として雌伏せざるを得ないこととなって挫折した。 こうなると、『新青年』を一任された横溝はかねてから眼をつけておいた渡辺温を引っ張り込んだものの、主力作家としての頼みの綱は乱歩ただひとりとなった。ところが、当時乱歩は夫人に下宿屋をやらせながら「クサリにクサリ切っていた」ときだった。それというのも、乱歩は『新青年』が横溝のモダン主義によって、旧来の味の探偵小説を追い出してしまい、自分はもう『新青年』に顔出しできないと考えていたのである。乱歩はたびたび横溝に、「今の新青年みたいなモダンな雑誌に、ぼくみたいな作家は不向きだろう」との言葉を被害妄想気味に聞かせていたという。 横溝によると当時乱歩は躁鬱気味だったそうで、これは思いもよらぬ話だった。が、ちょうどそのころ、横溝はファーガス・ヒュームの探偵小説『二輪馬車の秘密』を匿名で黒岩涙香風に翻訳し、『新青年』6月増大号に掲載していた。当時博文館では、普通号では編集者がいくら書いても原稿料は出なかったが、増刊や増大号なら原稿料が出たのである。横溝は「そこは同好の士だけに、乱歩はすぐにそれが私であることを看破したにちがいない」ということで、すぐに乱歩はこの『二輪馬車の秘密』の訳筆についての長文の批評を手紙で送って来た。「横溝のやつ、いやにモダンがっていると思ったら、まだこういう趣味も持っているのか」と気を好くしたと見た横溝は、下宿屋「緑館」を経営していた乱歩の家に、読み切りの執筆依頼を持ち込んで行った。
※この「横溝正史による解説」の解説は、「陰獣」の解説の一部です。
「横溝正史による解説」を含む「陰獣」の記事については、「陰獣」の概要を参照ください。
横溝正史による解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 00:26 UTC 版)
『獄門島』は『本陣殺人事件』に引き続いて雑誌『宝石』に連載されたもので、「金田一耕助シリーズ」ものとしては2番目の作にあたる。横溝正史が最初に筆を執ったのは1946年(昭和21年)10月で、最終篇の脱稿は1948年(昭和23年)8月と、足かけ3年、実年月で1年と10か月の長期連載となっていて、横溝は「むろん、私としては初めての経験であった」と振り返っている。 横溝が島を舞台とする小説を書くことを思いついたのは戦争中で、1945年(昭和20年)の春に両親の出身地である岡山県へ疎開したのも、瀬戸内海の島が近いというのがひとつの理由であった。しかし「元来出不精で乗り物恐怖症」のため、疎開中にどの島にも足を運ぶことはなかった。にもかかわらず本作で小島の封建的な風習、風物を描くことができたのは、疎開先の部落に、かつて瀬戸内海の島で青年学校の教師をしていた人がいたからだと語っている。また、島を舞台に書きたいという願望は、遠くは江戸川乱歩の『パノラマ島奇譚』や『孤島の鬼』に端を発しているが、近くはカーター・ディクスンの『プレーグ・コートの殺人』の影響であり、「プレーグ・コートは別に島ではなく、ロンドン郊外にある中世風の旧家である。だから、これを島にもっていっても、いっこう差支えのないような雰囲気なのである。」と述べている。 俳句屏風を作品に用いようと思いついたのも戦争中のことで、博文館を辞めるきっかけとして家を建てた際に友人から新築祝いに贈ってもらった「鶯の身をさかしまに初音かな」等3枚の俳画の色紙が貼られている屏風を疎開先に持ち込んで、これ小説にならないかな、ヴァン・ダインの『ビショップ』(『僧正殺人事件』)のようにやれないかと思いついたと語っている。 横溝は大方の構想がまとまったところで友人にそれを聞いてもらう習慣だったが、疎開先ではもっぱら夫人に話していた。この『獄門島』でもそうしたところ、夫人が「ひとりずつ犯人なのね」と応じた。横溝は「そんなの馬鹿にされる」と怒ったものの、「今までなかったから面白いのではないか」と考え直し、「怪我の功名」で『獄門島』の犯人が出来上がったという。 作中の「釣鐘の力学」のトリックについては海野十三、曹洞宗の知識については千光寺の末永和尚に教示を仰いでいる。 横溝には神戸二中時代に西田徳重という探偵小説マニアの友達がいたが、中学卒業後の秋に早世してしまった。横溝はその縁で兄の西田政治と文通するようになっていた。横溝は8月15日の日本敗戦後、疎開先ですることがなく、「本格探偵小説の鬼であった」といい、小さなトリックを、つぎからつぎへと思いついては悦に入っていた。さきの西田兄弟はそろって本格探偵小説ファンで、兄の政治は「GIが売り払っていった古本が、古本屋に山のようにある」と、ポケット・ブックを疎開先にあとからあとから送ってくれた。横溝の本格熱はますます加熱し、「西田政治さんの送ってくれた本の中にアガサ・クリスチーの『そして誰もいなくなりました』があった。これがのちの私の『獄門島』になった。」と語っている。戦後の長編第1作として横溝は『本陣殺人事件』を執筆するが、これは試験的作品であり、「したがって私がはじめから自信をもって着手した、本格探偵小説は第2作の『獄門島』以降ということになるのであろう」としている。 有名な「きちがいじゃが仕方がない」については、エラリー・クイーンの『Yの悲劇』における「なぜ凶器がマンドリンだったのか」というサブトリックの真相に感心し、メイン・トリック以外にああいう細かいトリックを散りばめると効果的だと思ったため考案したと横溝は述べている。
※この「横溝正史による解説」の解説は、「獄門島」の解説の一部です。
「横溝正史による解説」を含む「獄門島」の記事については、「獄門島」の概要を参照ください。
横溝正史による解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 23:49 UTC 版)
「悪魔が来りて笛を吹く」の記事における「横溝正史による解説」の解説
横溝正史が雑誌『宝石』の求めに応じて本作の第1稿を起したのは1951年(昭和26年)9月のことで、完結篇を書きあげたのは2年後の1953年(昭和28年)の同じ9月のことだった。「時日も20日前後のことで、稿を起した日も、書き上げた日も、ともに、秋雨のしとど降る日であったと憶えている」と振り返っている。 この小説が完結するまでまる2年と1か月を要したのは、『宝石』に合併号が出たり横溝が病気休載したりしたことからで、このため連載回数は計21回とかなり長いものとなった。連載終了と同時に城昌幸編集長からは単行本化の慫慂をうけたというが、連載の長さと雑誌の都合で1回の枚数が違ってきたりしたため、テンポに狂いがありそうな気がした横溝はひとまず保留していた。 しかし、一度書きあげたものに手を加えるのは容易でないことと、読みなおしてテンポにそれほど狂いがなかったので、ごく僅少の手を加えるのみで1954年(昭和29年)3月に単行本化することにした。横溝は「こんなことならもっと早く出版してもよかったのにと、いまさらながら苦笑ものである」と述懐している。 横溝によると、本作のテーマの胚種が頭に芽生え始めたのは、1948年(昭和23年)8月に岡山の疎開地から成城に帰って間もないころのことだという。そのころ、横溝邸を訪れた葛山二郎から、葛山が帝銀事件(同年1月26日発生)の犯人のモンタージュ写真に似ている、として容疑者として密告されて困った、という話を聞かされる。同じころ、某子爵が失踪し、その後に自殺体で発見されるという事件があり、その子爵もやはりモンタージュ写真と似ていたため取り調べを受けたことがある、と報じられた。このことから横溝は、モンタージュ写真の人物Xと似ている人間A、同じく似ている人間Bがいたとすると、AとBも互いに似ている(A=X B=X ∴A=B)、というアイデアを思いついた。このとき『宝石』誌上で『落陽殺人事件』の題名で予告を行っている。しかし、うまくまとまらず、連載は開始されなかった。探偵小説を考える場合に、『本陣殺人事件』や『獄門島』のように、まずトリックを先に考えて、あとからそれにふさわしいシチュエーションを構成していくやり方と、『犬神家の一族』のように先にシチュエーションができたものがあるが、いずれにしても最初の一行を書く前に両方がまとまっており、それがうまく溶け合っていなければ、しっかりとしたものが書けない。ところが、本作においてはシチュエーションはあらかたできあがっており、トリックも一番大きなものだけはあるが、このトリックとシチュエーションを結び付けるところで脳細胞がサボタージュを起こしてしまい、不本意ながら連載を延期せざるを得なくなってしまった。「担当者武田武彦君には大きな迷惑をかけてしまった」と振り返っている。その後もあたため続けていたこのテーマが結実しはじめたのは、昭和26年夏のことだった。 夏のことで、硝子戸を開けっぱなしにして横溝が物思いにふけっていると、夜毎フルートの音が聞こえてくる。家人に聞くと、「隣家の植村さんの御令息泰一君が練習していらっしゃるのだ」ということだった。横溝はこのときの様子を、「隣家といってもテニス・コートひとつへだてているのだから、相当はなれているのだが、そして、それだけ離れて聞いているのでいっそう身にしみてよかったのだが」とし、「私はこのフルートの音に魅了されたのである」と語っている。 このフルートの音と『落陽殺人事件』のテーマを結び付けることを思い立ち、本作の第1弾とした横溝は、息子に命じて上述の植村泰一が練習しているフランツ・ドップラーの『ハンガリー田園幻想曲』のレコードを買ってこさせ、何度か聞いた上に泰一にも聞いてもらった。また息子の友人でフルート作曲に興味を持っている笹森健英にも来てもらって、両者からいろいろとフルートの知識を受けた。 このとき横溝は笹森に『悪魔が来りて笛を吹く』の曲を作曲してもらって、適当なところへ譜面を挿入するつもりだった。ところが横溝いわく「付け焼刃の悲しさには、フルートについてとんでもない錯誤を演じてしまい、しかも雑誌連載中そこを訂正すると、いっぺんにトリックが暴露する恐れがあるので、結局、譜面を挿入することは見合わせなければならなくなった」という。その後その部分は単行本化にあたって訂正されたが、結局譜面挿入は諦めている。 横溝が「フルートについてとんでもない錯誤を演じてしまい」と語っているのは、右手と左手を間違って書いてしまったことである。横溝は最後に楽譜を付けようと作曲を頼んだところ、笹森に「右手の指2本ないんじゃ作曲しようがない」と言われたといい、「途中でそう言われたんでガッカリしちゃってね、途中から左でしたって書くわけにもいかないもんね」とこの失敗を笑っている。 本作は華族階級の「斜陽」を描いているが、横溝には「トリックと同時にこういう斜陽の世界を書きたい」との思いがあったという。ちょうど太宰治の名前が出たころで、『落陽殺人事件』との当初の題名で「落陽」としたのも、「斜陽じゃ太宰の翻案みたいだから」という理由によった。執筆については「ぼくは歌舞伎のファンですから、歌舞伎でよく、世界って言いますね。今度は斜陽書いてみようかとか、今度農村書いてみようとか。」と本作取り組みのきっかけについて語っている。
※この「横溝正史による解説」の解説は、「悪魔が来りて笛を吹く」の解説の一部です。
「横溝正史による解説」を含む「悪魔が来りて笛を吹く」の記事については、「悪魔が来りて笛を吹く」の概要を参照ください。
横溝正史による解説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:24 UTC 版)
横溝によると、1946年(昭和21年)3月初めから想を練り始め、4月15日に第一回を脱稿。完結編脱稿が1947年(昭和22年)2月10日のことで、約1年を費やした作品である。横溝はこれと並行して同じ探偵小説雑誌『宝石』の創刊号からやはり8回連載で『本陣殺人事件』を書いている。 横溝は戦後、「出来るだけ論理的な探偵小説を」と志向し、この二作でこれに取り組んだというが、「果して、自分が意気込んだほど、論理的な探偵小説になっているか、いささか自分としても心許ない」と吐露している。この小説は誌上で「犯人探しの懸賞付き」という趣向となったため、「自縄自縛におちいったかたちで、途中の苦しみはたいへんであった」という。ことに苦しんだのは枚数だった。『ロック』の山崎編集長の当初の申し込みは「一回四十枚、六回続き」というものだったが、「いくら書いていっても終わりにならないので、ついに予定より二回伸ばしてもらい、その二回だけで百八十枚という長さになってしまった」そうで、横溝は「近頃のような頁数の少い雑誌で、よくもここまでわがままを通させてくれたものだと、私はふかく山崎君に感謝している」と振り返っている。 横溝は当時岡山県の田舎に疎開していたが、1945年(昭和20年)の秋に石川淳一という同じ神戸出身の青年がこの村に復員してきた。石川青年は音楽学校声楽科の生徒で、一家が横溝の近所に疎開していたため、こちらへ復員してきたのだった。石川青年は以前より横溝小説のファンで、よく横溝の家に遊びに来ていた。 あるとき、この石川青年が「江戸川さんの小説に、死体をピアノの中へ隠すところがありますね。あれは小説としては面白いけれど、われわれ専門家から見ると、やはり変ですね。ピアノの中には絶対に人はかくせませんよ。」と言った。横溝はこれに、「それはそうでしょうけれど、読者は専門家ばかりじゃありませんから、一応面白ければそれでいいのじゃありませんか。作家というものは、同じ死体をかくすにしても、なるべく風変わりなものを狙うものです。トランクだの長持じゃ、読者がもう食傷していますからね。特に、音楽の方で、ピアノ以外に、何か面白い死体のかくし場所はありませんか。」と返したところ、石川青年はにわかに膝を乗り出し、「私は一度コントラバス・ケースに入ってみたことがあるんですが、きれいに立って入れるんです。探偵作家がどうしてあれを利用しないのか、やはりご存じないんでしょうね。」と答えるのだった。横溝はこの話を面白いとは思ったが、その時はまだ小説の材料にするとまでは思いつかなかったという。 それから間もなく、『ロック』の山崎編集長から6回ものの長編依頼があった。もともと小栗虫太郎が同誌第3号から新連載『悪霊』を執筆する予定であったのだが、1946年2月10日に小栗が急死したため、ピンチヒッターが必要になったからである。横溝はほかに同じ6回ものの『本陣』の連載を抱えていたので、よほど断ろうかと思ったが、依頼文に小栗虫太郎急逝に途方に暮れている、その穴埋めにぜひ書いてくれとの一句があり、これが横溝の胸を刺し貫いた。横溝は1933年(昭和8年)に、『新青年』7月号の締切間近に喀血して、小栗にこれを穴埋めしてもらっていたからであり、1941年(昭和16年)ごろにふたりでおでん屋で飲んだ時に、横溝は「今度お前さんが病気をするようなことがあったら、私がかわって書いてあげる」と小栗に約束していたのである。こういったいきさつで、横溝は「これはどうしても書かねばならぬ」と決心したという。 そこで横溝は件の石川青年に、「この間お話しのコントラバスのアイディヤ貰い受けたし、なお、いろいろ御教示にあずかりたいこともあるから、おひまの節御来訪賜りたい」とハガキを出して、クロフツの『樽』を読み返しながら筋のまとめにかかった。腹案がまとまってきたころに石川青年がやってきて、音楽上の助言を与えてくれた上に、ふと戦争中イタリヤの楽壇で『椿姫』を演じた時のエピソードを話してくれたので、これで筋を仕上げた横溝は山崎編集長に長編依頼受諾の返事を書いたという。 横溝は「そのときの私の気持ちでは小栗君の弔い合戦のつもりであった。それだけにがっちりとしたもの、堂々としたもの、そしてまた、戦後の自分の方針であるところの、論理的な本格ものを書きたかったのである。少くとも、小栗君のピンチヒッターとして恥ずかしくない程度のものにしたかったのである。」と、この作品における意気込みを語り、あわせて石川氏に賛辞を送っている。
※この「横溝正史による解説」の解説は、「蝶々殺人事件」の解説の一部です。
「横溝正史による解説」を含む「蝶々殺人事件」の記事については、「蝶々殺人事件」の概要を参照ください。
- 横溝正史による解説のページへのリンク