鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代とは? わかりやすく解説

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鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:46 UTC 版)

奴隷」の記事における「鎌倉・室町・戦国・安土桃山時代」の解説

自力救済時代である中世日本では、人身売買民衆にとって餓死免れるセーフティーネットとしての面も持つ行為であった身売りすることで近い将来餓死する事だけは避けえたからである。鎌倉時代寛喜の飢饉呼ばれる飢饉発生した際に多く人々自身妻子身売りして社会問題となった。そのため、鎌倉幕府1239年になって人身売買禁止命じとともに例外として飢饉の際の人身売買とそれに伴う奴婢発生黙認する態度示した『吾妻鏡』延応元年4月13日5月1日条)。なお、災禍治った後、親が買い戻すこともみられたが、その際には身売り時よりも相当の高額要求されることが容認されていた。 貞永元年8月10日1232年8月27日)に制定され御成敗式目では奴婢その子供の所有権に関する定めがある。 一、奴婢雜人事右任右大將御時之例、無其沙汰過十箇年者、不論理非不及改沙汰、次奴婢所生男女事、如法意者雖有子細、任同御時之例、男者付父、女者付母也 — 御成敗式目 大永版、奈良女大坂本龍門文善本電子画像集より 御成敗式目室町末期版)にも同様の記述がある。奴婢雑人については(逃亡等により)10年以上放置すれば人返しされなければ無効になることが定められている。 その後元帝国と高麗連合軍壱岐・対馬九州北部侵攻し元寇)、文永の役では、捕らえられ日本人婦女子およそ200人が、高麗王に奴婢として献上された。国内においては鎌倉幕府朝廷は、人身売買勾引行為に対して顔面焼印を押す拷問刑を課したこともあった。しかし、14世紀以降勾引盗犯準ずる扱いとされ、奴婢所有黙認された。南北朝時代として知られる内戦期になると、中央の統制弱まって軍閥化した前期倭寇が、朝鮮中国人狩り行った惣村社会では境界紛争解決にしばしば下手人として奴婢利用した前期倭寇朝鮮半島山東遼東半島での人狩り捕らえた人々手元において奴婢として使役するか、壱岐対馬北部九州奴隷として売却したが、琉球にまで転売された事例もあった。後期倭寇はさらに大規模な奴隷貿易行い中国東南部江南、淅江、福建などを襲撃し住人拉致捕らえられたものは対馬松浦博多薩摩大隅などの九州地方奴隷として売却された。1571年スペイン人調査報告によると、日本人海賊密貿易商人支配する植民地マニラカガヤン・バレー地方、コルディリェラ、リンガエンバターン、カタンドゥアネスにもあった。乱妨取り文禄・慶長の役朝鮮出兵)により奴隷貿易はさらに拡大東南アジア拠点拡張し密貿易も行う後期倭寇によりアジア各地売却され奴隷一部ポルトガル商人によってマカオ等で転売され、そこからインド送られものもいたという。イエズス会倭寇恐れており、1555年書かれ手紙の中で、ルイス・フロイスは、倭寇一団から身を守るために、宣教師たち武器に頼らざるを得なかったことを語っている。 鄭舜功編纂した百科事典日本一鑑』は南九州高洲では200-300人の中国人奴隷家畜のように扱われていたと述べている。奴隷となっていた中国人福州興化泉州漳州出身だったという。 歴史家米谷均は八の事例挙げている。浙江漁師で、1580年倭寇捕らえられた。薩摩京泊に連れて行かれ、そこで仏教僧に銀四両で買い取られた。2年後に彼は対馬中国人商人売られた。6年間、対馬働き、自由を手に入れたは、平戸移り住んだ平戸では、や布を売って生活していた。そして1590年中国船でルソン島渡り翌年中国帰国することができたという。 いわゆる戦国時代には、戦闘伴って人取り」(乱妨取り)と呼ばれる略取盛んに行われており、日本人奴隷倭寇ポルトガル商人通して東南アジアなどにも輸出された。軍資金求めて領主要求した増税は、国民貧困化を招き多く日本人奴隷制生き残るための代替戦略として捉えた1514年ポルトガル人マラッカから中国貿易行って以来ポルトガル人初め日本上陸した翌年には、マラッカ中国日本の間で貿易始まった中国倭寇襲撃により、日本に対して禁輸措置とっていたため、日本では中国製品が不足していた。当初日本との貿易全てのポルトガル商人開かれていたが、1550年ポルトガル国王日本との貿易権利独占した以降年に一度一隻日本との貿易事業権利与えられ日本への航海のキャプテン・マジョールの称号事業を行うための資金不足した場合職権売却権利与えられた。船はゴア出航しマラッカ中国寄港した後、日本向けて出発した南蛮貿易で最も価値のある商品は、中国の絹と日本の銀であり、その銀は中国でさらに絹と交換された。 1537年スブリミス・デウスにおいて教皇パウルス3世アメリカ先住民奴隷化無効だ宣言していたが、1541年ポルトガル来航以降にも奴隷貿易が行われてきた。日本マカオ間定期航路開通にともない行われた奴隷貿易に対して1560年代以降イエズス会の宣教師たちは、ポルトガル商人による奴隷貿易日本におけるキリスト教宣教妨げになり、宣教師への誤解を招くものと考えたポルトガル国王日本での奴隷貿易禁止法令発布を度々求めており、ポルトガル王セバスティアン1世1571年禁止命令したポルトガル王による1571年人身売買禁止までの南蛮貿易実態だが、1570年までに薩摩来航したポルトガル船は合計18隻、倭寇ジャンク船含めればそれ以上の数となる。実際に取引され奴隷数については議論の余地があるが、反ポルトガルプロパガンダ一環として奴隷数を誇張する傾向があるとされている。記録に残る中国人日本人奴隷少数で貴重であったことや、年間一隻程度しか来航しないポルトガル船の積荷硫黄、銀、海産物、刀、漆器等)の積載量奴隷積荷離すための隔離区間移送中の奴隷食料与える等の輸送上の配慮から、ポルトガル人奴隷貿易売られ日本人奴隷数百程度考えられている。 関白豊臣秀吉は、天正15年1587年バテレン追放令でこれを禁じたとされるが、実際に発布され追放令には人身売買禁止する文が前日覚書から削除されており、追放令発布理由についても諸説ある。天正18年1590年4月豊臣秀吉上杉景勝らの人身売買禁止同年8月宇都宮国綱人身売買禁止百姓などを土地縛りつけ、他領出ている者を返すことを命じ労働供給安定図っており、人身売買百姓逃散欠落禁止による人口流出防止豊臣秀吉経済財政政策における基本方針だったとする説がある。バテレン追放令後の天正19年1591年)、教皇グレゴリウス14世カトリック信者に対してフィリピン在住する奴隷解放後賠償金を払うよう命じ違反者破門する宣言、在フィリピン奴隷影響与えた。 デ・サンデ天正遣欧使節記では、同国民を売ろうとする日本の文化宗教道徳的退廃に対して批判が行われている。 日本人には慾心と金銭執着はなはだしく、そのためたがいに身を売るようなことをして、日本の名にきわめて醜い汚れかぶせているのを、ポルトガル人ヨーロッパ人はみな、不思議に思っているのである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記ポルトガル国王による奴隷売買禁止勅令後も、人目を忍んで奴隷強引な売り込み日本人奴隷商人ら行われたとしている。 また会のパドレ方についてだが、あの方々がこういう売買に対して本心からどれほど反対していられるかをあなた方にも知っていただくためには、この方々が百方苦心してポルトガルから勅状をいただかれる運びになったが、それによれば日本渡来する商人日本人奴隷として買うことを厳罰をもって禁じてあることを知ってもらいたい。しかしこのお布令ばかり厳重だからとて何になろう。日本人いたって強慾であって兄弟縁者朋友、あるいはまたその他の者たちをも暴力詭計用いてかどわかし、こっそりと人目を忍んでポルトガル人の船へ連れ込みポルトガル人哀願なり、値段の安いことで奴隷買入れに誘うのだ。ポルトガル人はこれをもっけの幸い口実として、法律を破る罪を知りながら、自分たちには一種暴力日本人執拗な嘆願によって加えられたのだと主張して自分犯した罪を隠すのである。だがポルトガル人日本人悪く扱っていない。というのは、これらの売られた者たちはキリスト教教義教えられるばかりかポルトガルではさながら自由人のような待遇受けてねんごろしごくに扱われ、そして数年もすれば自由の身となって解放されるからである。 — デ ・サンデ 1590 天正遣欧使節記 新異国叢書 5 (泉井久之助共訳雄松堂書店1969、p232-235 デ・サンデ天正遣欧使節記は、日本に帰国前の千々石ミゲル日本にいた従兄弟対話録として著述されており、物理的に接触不可能な両者対話歴史的な史実と見ることはできず、フィクションとして捉えられてきた。遣欧使節記は虚構だとしても、豊臣政権ポルトガル二国間認識落差伺える。 弥助という名の宣教師護衛をしていたアフリカ系奴隷(または従者)が、戦国大名織田信長宣教師と共に謁見して気に入られ武士の身分与えられ家来として仕えたとの記録残っている。宣教師護衛として武術訓練受けていたと見られるため自由人解放奴隷であったとの見解もあり、弥助奴隷だったかについては諸説ある。弥助捕らえた明智光秀黒奴動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず — 岡田正人『織田信長総合事典』、雄山閣出版1999年 として教会送り届けるよう指示した天正14年1586年)『フロイス日本史』は島津氏豊後侵攻乱妨取り拉致され領民一部肥後売られていた惨状記録している。『上井覚兼日記天正14年7月12日条によると「路次すがら、疵を負った人に会ったそのほか濫妨人などが女・子供数十引き連れ帰ってくるので、道も混雑していた。」と同様の記録残している。天正16年1588年8月秀吉人身売買無効宣言する朱印状豊後百姓そのほか上下身分限らず男女子供近年売買され肥後にいるという。申し付けて早く豊後に連れ戻すこと。とりわけ去年から買いとられた人は、買い損であることを申し伝えなさい。拒否することは、問題であることを申し触れること — 下川文書天正16年1588年8月 と、天正16年1588年)閏5月15日肥後配置されたばかり加藤清正小西行長奴隷買ったものに補償をせず「買い損」とするよう通知している。同天正16年1588年同様の命令があったことが島津家文書記録として残っている。 文禄・慶長の役では、臼杵城主の太田一吉仕え従軍した医僧、慶念が『朝鮮日々記』に 日本よりもよろずの商人も来たりしたなか人商いせる者来たり、奥陣より(日本軍の)後につき歩き男女老若買い取りて、縄にて首をくくり集め、先へ追い立て歩み候わねば後よりにて追い立て打ち走らかす有様は、さながら阿坊羅刹罪人責めけるもかくやと思いはべる…かくの如くに買い集め、例えをくくりて歩くごとくに、牛馬をひかせて荷物持たせなどして、責める躰は、見る目いたわしくてありつる事なり — 朝鮮日々記 と記録残している。渡邊大門によると、最初乱取り禁止していた秀吉方向転換し捉えた朝鮮人進上するように命令発していると主張している。 多聞院日記によると、乱妨取り拉致され朝鮮人女性子供略奪品一緒に対馬壱岐経て名護屋送られた。 薩摩武将大島忠泰の角右衛門という部下朝鮮人奴隷国許に「お土産」として送ったと書状に書いている。

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