鎌倉・室町時代~宇都宮氏重臣としての活躍~
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「益子氏」の記事における「鎌倉・室町時代~宇都宮氏重臣としての活躍~」の解説
益子氏は紀貞隆の次男益子正隆を初代とし、三代益子正重は源頼朝が奥州藤原氏打倒の兵を挙げた際に宇都宮朝綱を大将に奉じ2万の兵を率い従軍、益子氏の率いる紀党と芳賀高親率いる清党がともに宇都宮氏の属下として抜群の武功を顕わした。この時、益子氏と芳賀氏は頼朝から源氏の白旗一流ずつを贈られたことが後世まで益子氏の栄誉とされ、世にその武勲を知らしめる端緒となった。この益子氏率いる紀党と芳賀氏率いる清党こそ宇都宮氏幕下の二大武士団 紀清両党として知られるようになったのである。とりわけ、益子氏の隆盛の基盤となったのは、後に下野守護職を世襲する宇都宮氏の祖 藤原宗円の母が益子正隆の女であったことによるところが大きい。鎌倉時代を通じて宇都宮氏が下野国内で大名化するにつれ、益子氏は宇都宮氏の重臣かつ下野国芳賀郡益子城主としてその武力を支えたのである。益子氏の家紋は主家・宇都宮氏同様、左三つ巴であり、おそらく主家から拝領したものと考えられる。また、藤原宗円を三井寺出身とする説を唱える野口実は、紀氏=益子氏ゆかりの西明寺が三井寺の僧兵によってその傘下に入れられたとする伝承があるのに着目して、これを宇都宮(宇都宮二荒山神社)と宇都宮氏が西明寺と紀氏(益子氏)を傘下に入れた話を元にしているのではないか、と推測している。 南北朝時代においては主家の宇都宮氏が北朝・室町幕府に従ったため、益子氏も北朝方となり益子貞正は宇都宮軍の有力武将として活躍した。その後、幕府内で足利尊氏と弟 直義による権力闘争に端を発した内紛、観応の擾乱が勃発すると、益子氏一党は宇都宮氏に従い尊氏党に与し、宇都宮一族の氏家周綱、綱元、忠朝、同じく宇都宮一族の薬師寺元可、義夏、義春、助義兄弟や清党の芳賀貞経らとともに南朝方に投降した直義党の桃井直常と対峙した。 一方、京周辺でも南北両朝の激戦が繰り広げられており、下野からも宇都宮家の手勢が京周辺にも出兵され、楠木正成らと対峙した。この際も宇都宮勢に益子氏一門から益子顕助、国行、秀助親子が従軍しており南朝方と戦ったことが『太平記』にも記されている。それによれば敵将 楠木正成は宇都宮氏は坂東一の弓矢とりであるとして、その両翼たる 益子氏、芳賀氏ら紀清両党は戦場において命を捨てることを厭わないと言い、宇都宮軍との激突を避けたとされ、益子氏の武勇を示す逸話を伝えられている。しかし、南朝方の抵抗も凄まじく顕助は東寺で討ち死にし、益子一族の多くも京での戦いで命を落とした。ちなみに四国の讃岐国における史料『由佐氏由緒臨本』によれば、顕助の庶子の秀助は足利氏の一門 細川頼春に従い四国に下り、讃岐国香川郡井原に下り、由佐氏を称したと伝わっている。 一連の戦乱の最中、暦応2年(1339年)、関東において南朝方を指揮していた北畠親房は公卿の春日顕時を常陸国の関城に派遣し、常陸の小田氏を従えた顕時は関城から下野に入り、北朝軍に従い転戦中で空城となっていた益子氏の西明寺城、八木岡城、上三川城が一時陥落される事態も生ずる。このとき、南朝軍に従い益子氏の城を陥落させた小田氏の祖は益子正雄の女を母とする宇都宮氏の一族であり、宇都宮氏初代、藤原宗円の庶子で鎌倉幕府を開いた源頼朝の重臣として評定衆・常陸守護を務めた八田知家を祖とする家系であることから、まさに主家の同族であると同時に縁戚関係でもある一族との骨肉の戦いとなった。しかし、下野における戦況は次第に北朝方の優位となり、南朝勢力の衰退により益子氏はようやく失地を回復するに至る。そして、戦乱に明け暮れた関東も足利義満の世に南北朝合一がなり、世の平穏を取り戻したことによって、益子氏をとりまく環境も次第に安定したものとなっていったのである。
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