幼少期~若年期
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「ルイーザ・メイ・オルコット」の記事における「幼少期~若年期」の解説
父は超絶主義者で教育者のエイモス・ブロンソン・オルコット、母はニューイングランドの由緒ある家柄出身のアビゲイル・メイ・オルコット(愛称アッバ)であり、ルイーザ・メイ・オルコットは四人姉妹の次女である。 父ブロンソンはさほどしっかりした教育を受けなかったが、読書が好きで、天の都市を目指すクリスチャンの旅を描くジョン・バニヤンの寓話物語『天路歴程』(原題:この世から来るべき世に向かう巡礼者の旅路―夢の中の物語)に決定的な影響を受け、生涯を通して繰り返し読み直して内面化し、生き方の指針にし、後には徳の需要さ、すばらしさを娘たちに伝えるためにいつも読んで聞かせた。教師になりたかったが叶わず、様々な仕事に就き、クェーカー教徒と接して「内なる光」の教義に影響を受け、それは神と直接対話するという彼の信念の萌芽となった。その後教師となって革新的なやり方が注目を集め、彼に感銘を受けたユニテリアンで奴隷制度廃止論者の牧師サミュエル・J・メイが、ボストンのチャリティーの幼児学校に彼のポストを用意し、牧師の妹だったアッバと出会った。アッバは、敬虔なユニテリアンで、富の追求が精神の幸福に有害だと考える父のジョセフ・メイ大佐に強い改革と慈善の精神を教えられ、勉強、教育、執筆に熱心なアッバと興味を共有し、彼女の改革への情熱を支えた母ドロシーを持ち、自分の周りの社会の改善と道徳的な行動に熱心な信仰深い家庭で育った。こうした家庭に育ち、情熱的で寛大な心を持ち、世の不公平に敏感だったアッバは、ブロンソンに出会った時27歳で、婚約相手の不実で破談になったこともあり、当時としてはかなり適齢期を過ぎていた。革新的な思想を持った背の高いハンサムな青年だったブロンソンに魅了され、助手の職に応募し、彼と婚約し、彼と恋人であるだけでなく、彼の生徒であり仲間であることを喜んだ。メイ家の面々は、家族を養うという考えがほとんどないブロンソンとアッバの結婚を危ぶんだが、アッバが押し切る形で1830年に結婚した。ブロンソンは彼の生来の宗教であるカルヴァン主義から離れ、メイ家のユニテリアンの教えに魅了され、またアッバとメイ家の影響で奴隷制廃止運動に積極的に参加するようになった。ブロンソンの幼児教育に関する冊子に感銘を受けた裕福なクェーカー教徒の招きで、1830年に進歩的な私立学校を設立するためにペンシルベニア州ジャーマンタウン(現在はフィラデルフィアの一部)に引っ越した。1931年に長女アンナ・ブロンソン・オルコットが、1832年11月29日、父の33歳の誕生日にルイーザ・メイ・オルコットが生まれた。ジャーマンタウンの学校がパトロンの死で頓挫し、またアッバが流産したことで、家族は1834年にニューイングランドのボストンに戻った。 ボストンで父ブロンソンは、ラルフ・ワルド・エマーソンとヘンリー・デイヴィッド・ソローととも超絶クラブ(英語版)を創設した。19世紀半ばのニューイングランドの知識人たちは、超絶クラブを端緒に始まった哲学の潮流、“個人”を絶対的に尊重し、自己修養や普遍的な兄弟愛を信じ、自然との融合を目指す超絶主義に魅了されていた。ブロンソンは、超絶主義とスイスの教育改革者ヨハン・ペスタロッチの理論を組み合わせ、無政府主義、菜食主義、不淫、霊性といった系統を含む奇妙な哲学を作り上げた。彼はエマーソンの親しい友人であり、理想を追い求める教育者で、詰め込み教育や学校内における体罰に反対しており、子供たちの学ぶ意欲を引き出す教育を目指していたが、経済的なことには疎く、学校経営はうまくいかなかった。宗教的宇宙観により理想生活を追求する超絶主義の実行者であり、生きるのに必要な金銭に頓着せず、どれほど非現実的でも妥協を許さず、理想に生きる浮世離れした人生観を持っていた。食べるために生き物を殺してはならないとし、社会制度を人間の真の善を堕落させるものと見なし、金銭や商売は卑劣なものと考え、必要以上に金銭を蓄えてはならないとし、産業の仕事は魂を殺すものだと考えた。奴隷制は罪であると考えたが、さらにほかの動物の労働力を搾取することも罪であるとみなした。オルコット一家は南北戦争前のヒッピーであると表現することもでき、1960年代のカウンターカルチャーと同様に、東洋の精神性、ホメオパシー、代替的なライフスタイル、人種、性別によらない社会的な平等に関心があった。ブロンソンはすべての人間は同胞であるため平等に働いて分かち合うべきであると考え、どんな人間の助けも拒まなかった。よって一家は、現実離れしたライフスタイルを実践し、総出で助けを求める人に奉仕することになり、筆舌に尽くしがたい苦労と困窮を味わうこととなった。オルコット家は文字通りパンと水だけで生きることもあったが、ブロンソンはその現実を無視することができ、生活費を稼がないことも、他人に借金をすることも、妻子が苦労することも、あまり気にならなかった。また彼は自分が罪を犯したことは一度もないと話しており、現代の研究者のひとりは、彼は自分の気まぐれの思いつきと天啓を混同していたと指摘している。 オルコットは幼い頃からいわゆる癇の強い子だったようであり、子どもの頃、活発で冒険心にあふれ、男の子のゲームを好むおてんば娘だった。父ブロンソンは、独特の教育家で強烈に家父長制的人物で、第一の道徳信条として自己放棄を掲げており、幼児としては特に異常とは言えないオルコットの性質を恥ずべきものとみなし、長い間、オルコットを娘の中で最も利己的であると考え、「お姉ちゃんはちゃんとできたけれど、お前はもう少し自分を抑制することを学ぼうね」と注意を繰り返した。 ブロンソンとオルコットの確執は相当深かったと思われ、伝記作家のジョン・マットソン(John Matteson)は、ブロンソンは自覚的にキリストを模倣した人生を送ろうとしており、家を司るキリストである父に反抗することは、「事実上自分を悪魔と定義するに等しかった」と述べている。ブロンソンはオルコットの荒々しく独立的な行動に対して理解を示さず、さらに父は家族を十分に養うことができなかったため、父と妻・娘の間には緊張関係が生じた 。 年若いオルコットは、父の教育に関する意見と子育てに関する厳しい見解、そして精神的な不安定さに接することで、また、父に自己を抑制するように注意され続け、父の理解者として自己犠牲的に働く母を見続けることで、超絶主義者の目標である「完璧を達成する」という父の理想、願望を内在化していった。少女時代、「欲望する自己の否定」という父の教えと、それと同趣旨の、当時の女性の自己否定の道徳を内面化することに多くの努力を費やし、苦労しながらも、それは彼女の中に根付いていった。
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幼少期・若年期
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「グドルーン・ブルヴィッツ」の記事における「幼少期・若年期」の解説
1929年、バイエルン州ミュンヘンにて生を受ける。両親とも彼女を可愛がり、しばしば「お人形さん」(Püppi)と呼んでいた。彼女は母と共にグムント・アム・テーゲルンゼー(ドイツ語版)の邸宅に暮らしており、仕事の都合でベルリンに留まる事の多かった父とは離れ離れになっていたが、父はしばしばグムントの邸宅を訪問し、電話や手紙も欠かさなかったという。1940年よりドイツ女子同盟に参加すると共に母の元を離れ、ドイツ赤十字社で働いた。彼女には腹違いの兄弟として、弟ヘルゲ(Helge, 1942年2月14日 - )と妹ナネッテ=ドロテア(Nanette-Dorothea, 1944年7月20日)があり、いずれも父が愛人のヘートヴィヒ・ポトハスト(ドイツ語版)との間に儲けた子供だった。 第二次世界大戦末期、彼女は母と共に南チロルに疎開していたが、1945年5月13日にはアメリカ軍に逮捕された。2人はイタリア、フランス、ドイツなど各地の戦犯収容所に抑留された後、ニュルンベルク裁判に出席させられた。1946年11月、17歳になっていたグドルーンは母とともに釈放される。同年末頃からベーテルの施設に身を寄せる。ベーテルはキリスト教の思想に基づく慈善の実施を目的に設置された団体だが、指導者フリードリッヒ・フォン・ボーデルシュヴィンク(ドイツ語版)の死後、この団体は多くのNSDAP党員を職員として採用していた。1947年、グドルーンはビーレフェルトの美術工芸学校(Meisterschule für das gestaltende Handwerk)に進学するも、1948年6月の通貨改革(ドイツ語版)の後には奨学金が停止されている。1951年、洋裁の資格を得て卒業する。
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幼少期・若年期
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「イシュトヴァーン4世」の記事における「幼少期・若年期」の解説
1133年頃にイシュトヴァーンはベーラ2世盲目王とヘレナの三男として生まれる。イシュトヴァーンに関する最初期の記録は、1141年に父の跡を継いだ長兄のゲーザ2世の治世に確認できる。『彩飾年代記(英語版)』には、ゲーザは弟であるラースローとイシュトヴァーンに「公領の収入を与えた」ことが記されている。彩飾年代記にはこの出来事の日付は示されていないが、歴史学者のBálint Hómanは1146年に起きたと記している。しかし、Ferenc MakkとGyula Kristóはゲーザが息子のイシュトヴァーンを正式に後継者に指名した時期と重なる1152年頃の出来事だと主張している。 同時代の歴史家のラーエウィンによれば、イシュトヴァーンは友人や叔父のベロシュとともに「王権を窺う者として王の前で告発された」ことが伝えられている。イシュトヴァーンは逮捕・処刑されることを恐れ、1157年夏に神聖ローマ帝国への亡命を図った。
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幼少期・若年期
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「ウオグ・エ・ヤタウヨガナ」の記事における「幼少期・若年期」の解説
ウオグは若い頃から才能があり、阿里山の達邦蕃童教育所で5年間勉強した後、嘉義市の嘉義尋常高等小学校に転校した。父親は警察に務めブヌン族討伐の功績があったが、ダイナマイト漁による怪我で亡くなった。その後台南州警部の大塚久義、土井美水(中国語版)に養子縁組と世話を受け、ツォウ族で初めて高等教育を受けた学生となったことから、日本名を「矢多一夫」から「矢多一生」へと改名した。1924年には、総督府台南師範学校に推薦入学し、在学中から音楽や文学に天分を発揮しつつ、普通科で4年演習科で2年教育を受けた。 また、1927年6月に日本を経由して台湾に来たロシアの言語学者ニコライ・ネフスキー(Н. A. Нeвский)の臺灣鄒族語典の編集を目的とした1か月以上(1927年7月から8月上旬まで)にわたるツォウ語の調査に協力した。 台南師範学校に在学中、現代音楽教育に触れ始め、ピアノを好んでよく弾くようになり、1930年に卒業した。 卒業後、阿里山達邦教育所で教鞭を執りながら巡査を務め、麻竹や水稲などの経済作物を植えるよう指導し農業を発展させた。同時に、彼は多くの歌を作曲し、ツォウ族を台湾総督府に連れていき、日本語による歌曲「鹿狩りの歌(打獵歌)」を披露した。
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