幼少期・明治維新との関わり
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「船越衛」の記事における「幼少期・明治維新との関わり」の解説
安芸国西地方町(現・広島市中区)生まれ。幼少のころより広島藩校学問所(現修道中学校・修道高等学校)で学び後に教授となる。折りしも父が政争に巻き込まれて閉門を受けた時期であり、父から理財について学ぶところが大きかった。黒船来航後は尊皇攘夷を支持して、学問所の同僚であった山田十竹、星野文平らとともに脱藩を企てるも未遂に終わった。後に藩執政辻維岳に認められて薩摩藩との交易事業を担当する。文久3年(1863年)の辻の上洛に随従して、尊皇攘夷派志士との関係を強め、長州藩の攘夷監察に向かった正親町公董及び熊本藩河上彦斎の道案内役を引き受けて長州まで同行している。 第1次長州征伐の際には、長州藩と江戸幕府の和平交渉の仲介役に立ち、これが縁で大村益次郎から兵学を学んだ。また、慶応3年(1867年)に土佐藩から辻維岳に対して大政奉還構想が伝えられると、辻の命により本国の意見の取り纏めを行った。 明治政府成立後は父とともに新政府に召されて、明治元年(1868年)には江戸府判事に任じられ、次いで戊辰戦争では軍務官権判事・東北遊撃軍参謀となって庄内藩・盛岡藩の攻略に戦功を挙げて賞典禄200石が授けられた。大村益次郎の死後は山縣有朋(後に船越の長男・光之丞は山縣の娘婿となる)と結んで兵制改革にあたり、明治3年(1870年)に兵部大丞となるが、兵部省改組により陸軍省に移籍する。ところが、陸軍大丞兼会計局長の時に山城屋事件に連座して退官に追い込まれて軍人生命は終わりを告げる。その後、明治7年(1874年)に戸籍権頭を務め、内務省成立後は内務官僚としての道を歩んだ。
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