幼少期・弘前時代 (1870-1888)
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「中田重治」の記事における「幼少期・弘前時代 (1870-1888)」の解説
中田重治は、1870年(明治3年)10月27日、陸奥国弘前(現・青森県弘前市)で、津軽藩の足軽の家柄である中田家の3人兄弟の三男として生まれた。 生まれるとすぐ、版籍奉還があり、津軽藩は藩地を奉還することになり、中田家は禄を失う。そこで、中田家は先祖伝来の地である弘前の郊外にある大光寺村(現、青森県平川市)に転居し生計をたてることになる。 父兵作は、1874年(明治7年)9月10日に中田が4歳になる前に脳溢血で死去した。父が死去した時、母(千代)は外出中であり、重治が父の死を見届けた。兵作の死後、母は兵作の兄と再婚を勧められるが断り、一家で弘前に転居する。母千代はは野菜の行商となって、重治たち3人の息子を育てた。少年時代の重治は「鬼ん子」と綽名され、かなりの暴れん坊として知られることになった。 1875年(明治8年)頃、長男の久吉が弘前のメソジスト教会のミッションスクールの東奥義塾に入る。これが、中田一家がキリスト教に触れる、最初のきっかけになる。 また、1877年(明治10年)の7歳頃、暴れん坊であった重治の素行が変わることを期待して、母親が重治たちを兄久吉が学ぶ東奥義塾に関係のあるメソジスト教会の弘前公会に連れて行くようになった。 その頃、メソジスト教会の指導者であった本多庸一が東奥義塾校長と弘前公会の牧師をしており、重治らは本多の教育を受けるようになる。本多は生涯にわたり重治に大きな影響を与える師弟の関係になる。 教会に集う中で、最初に次男の貞作が入信するが、貞作はわずか14歳で夭折する。貞作の死をきっかけにして母親がキリスト教に入信する。 1885年(明治18年)頃、兄久吉も石川県金沢市にある歩兵第7連隊に入隊中に、米国に長老派のトーマス・ウィン宣教師に教会に通い信仰を持つ。その年、兄久吉は金沢市の歩兵第7連隊の営所から戻り1年ほど自宅で、重治と共に過ごす。 弘前滞在中の久吉は14歳~15歳の重治に軍隊式のスパルタ式の教育をした。これにより、中田は一層きかん気(暴れん坊)になったと言われる。 1886年(明治19年)頃、15歳の重治は久吉の影響で東奥義塾の普通科に入学した。重治は東奥義塾を卒業すると、来徳女学校でしばらくアルバイトをしたが、船員になることを志し、函館市に行って船員の試験を受けることになった。しかし、津軽海峡を渡るときに船酔し、そのまま試験を受けて落第してしまう。これで、船員になる夢を諦めることになる。
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