幼少期・弘前時代とは? わかりやすく解説

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幼少期・弘前時代 (1870-1888)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/30 21:57 UTC 版)

中田重治」の記事における「幼少期・弘前時代 (1870-1888)」の解説

中田重治は、1870年明治3年10月27日陸奥国弘前現・青森県弘前市)で、津軽藩足軽家柄である中田家の3人兄弟三男として生まれた生まれるとすぐ、版籍奉還があり、津軽藩は藩地を奉還することになり、中田家は禄を失う。そこで、中田家先祖伝来の地である弘前郊外にある大光寺村(現、青森県平川市)に転居し生計をたてることになる。 父兵作は、1874年明治7年9月10日中田4歳になる前に脳溢血死去した。父が死去した時、母(千代)は外出中であり、重治が父の死見届けた。兵作の死後、母は兵作の兄と再婚勧められる断り一家弘前転居する。母千代はは野菜行商となって、重治たち3人の息子育てた少年時代の重治は「鬼ん子」と綽名され、かなりの暴れん坊として知られることになった1875年明治8年)頃、長男久吉弘前メソジスト教会ミッションスクール東奥義塾に入る。これが、中田一家キリスト教触れる、最初きっかけになる。 また、1877年明治10年)の7歳頃、暴れん坊であった重治の素行が変わることを期待して母親が重治たちを兄久吉が学ぶ東奥義塾に関係のあるメソジスト教会弘前公会に連れて行くようになったその頃メソジスト教会指導者であった本多庸一東奥義塾校長弘前公会牧師をしており、重治らは本多教育を受けるうになる本多生涯にわたり重治に大きな影響与え師弟の関係になる。 教会集う中で、最初に次男の貞作が入信するが、貞作はわずか14歳夭折する。貞作の死をきっかけにして母親キリスト教に入信する。 1885年明治18年)頃、兄久吉石川県金沢市にある歩兵第7連隊入隊中に米国長老派トーマス・ウィン宣教師教会通い信仰を持つ。その年、兄久吉金沢市歩兵第7連隊営所から戻り1年ほど自宅で、重治と共に過ごす。 弘前滞在中の久吉14歳15歳の重治に軍隊式のスパルタ式教育をした。これにより、中田は一層きかん気(暴れん坊)になったと言われる1886年明治19年)頃、15歳の重治は久吉影響東奥義塾普通科入学した。重治は東奥義塾卒業すると、来徳女学校でしばらくアルバイトをしたが、船員になることを志し函館市行って船員試験を受けることになった。しかし、津軽海峡を渡るときに船酔し、そのまま試験受けて落第してしまう。これで、船員になる夢を諦めることになる。

※この「幼少期・弘前時代 (1870-1888)」の解説は、「中田重治」の解説の一部です。
「幼少期・弘前時代 (1870-1888)」を含む「中田重治」の記事については、「中田重治」の概要を参照ください。

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