幼少期・青年時代
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間宮家は駿河国沼津宿の下本町で本陣を営んでいた家である。嘉永3年3月25日(1850年5月6日)、間宮喜十郎は間宮家の長男として生まれた。生まれ諱は格、通称は喜十郎、後の呼び名は烟雨。父親は間宮喜右衛門。幼少時より聡明だった間宮は、西間門村の實相院の院主である西尾麟角から書法を学び、水野藩士の五十川中に経書を学んだ。 元治元年(1864年)5月には14歳(数え年15)で江戸に出て、林大学頭の門で漢学を学んだ。明治維新後の1869年(明治2年)に沼津に帰郷したが、これには戊辰戦争の影響で自由に学問ができなくなったこと、沼津兵学校やその附属施設である沼津兵学校付属小学校(現・沼津市立第一小学校)が設立されたことなどの理由がある。20歳だった1869年(明治2年)には沼津兵学校付属小学校に入学し、10歳前後の少年と並んで英学や洋書などを学んだ。その後は再び東京に出て、1873年(明治6年)1月に慶應義塾に入って洋学を学んだ。
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幼少期・青年時代
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1890年(明治23年)10月8日、愛知県海東郡新蟹江村(現・海部郡蟹江町大字蟹江新田)の地主の家に長男として生まれた。本名は小酒井光次(こさかいみつじ)。父親は小酒井半兵衛であり、村長や郡会議員も務めた人物である。 1895年(明治28年)には新蟹江尋常小学校(現・蟹江町立新蟹江小学校)に入学。幼少の頃から新蟹江尋常小学校に遊びに行っており、一般的な就学年齢より2年早い4歳6か月で入学している。1899年(明治32年)には蟹江尋常高等小学校(現・蟹江町立蟹江小学校)に入学し、1902年(明治35年)に高等小学校を修業した。1902年(明治35年)には愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)に入学し、1907年(明治40年)に中学校を卒業した。1907年(明治40年)には第三高等学校(現・京都大学)に入学し、1910年(明治43年)に第三高等学校を卒業した。1911年(明治44年)には東京帝国大学医科大学(現・東京大学医学部)に入学。在学中の1911年(明治44年)には京都日出新聞に処女小説『あら浪』を連載している。
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