幼少期~高校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:53 UTC 版)
神戸市灘区生まれ。祖父は自動車販売会社を立ち上げた経営者で、父と叔父たちがその会社を受け継いで、その後はそれぞれが独立。長男は中古販売、次男は新車販売、四男坊だった父は、あまり儲からないバイク店経営者に収まった。常に5~6人の従業員を抱えて忙しい店だった。 妹と弟が一人ずついる3人きょうだいの長男。厳しく育てられた覚えはなく、放任主義な幼少期だった。ファミコンにハマり、少年ジャンプを愛読した。放課後は仲間とサッカーしたり、野球をやったり、屋外でよく遊ぶ子供だった。昭和49年生まれの団塊ジュニア世代は「いい中学、いい高校、いい大学を目指す」が美徳で、受験戦争が一番激しかった頃だった。國光もご多分にもれず、小学3年からは毎日学習塾に通うようになった。兵庫県では有名なスパルタ塾で、鉢巻をして勉強した。当時、神戸にあった公立中学校の校則では坊主頭がルールだった。それが嫌で地元の公立中学校はパス。また親元を離れたいという気持ちが強かったこともあり、兵庫の隣県、岡山県にある中高一貫の私立岡山高校に進学した。 繁華街からかなり離れた場所にある男子高で、周囲を見渡せば畑ばかりの農村地帯。夜の20時になると、夏でも一帯はまっ暗闇。一番近くのコンビニまで歩いて1時間。最初に寮生活を始めた頃は、「しまった」と思った。ただ國光と同じように他府県から進学してきた同級生たちとの寮生活はとても楽しく、1室8人のたこ部屋、土日の外出は1日だけ、12時から17時15分の間のみ。寮のご飯も美味くなく、厳しい環境のなか、夜、先生の監視をかいくぐって密かに寮を抜け出すことにスリルと面白みを感じた。繁華街のクラブに出かけた。部活は硬式テニス部に所属。中学2年から続けていて真面目に練習に励んだ。理由は単純で女子にもてたかったから。試合会場に行くと、他校のテニス部の女子がいて、試合に勝たないとかっこ悪いし、声だってかけずらい。文化祭も楽しかった。男子校の自分たちにとって女子と出合える数少ないチャンスだった。 1991年(平成3年)高校を卒業。大学受験をしたが失敗。当時、傷心した國光は尾崎豊の歌に感化され、「敷かれたレールに乗るのはかっこ悪い」と考えるようになる。それでも大阪の新聞配達の寮に住んで、新聞奨学生をしながら、浪人生活を送っていた。ただ、その寮の近くに関西大学があって、大学生になった昔の知り合いたちと顔を合わせるようになった。そのうちに中高時代に覚えた麻雀をするようになって、夜中の3時まで麻雀、そのあと新聞配達。半分眠りながら新聞を配って、気が付いたら配り終えているという毎日。浪人生活が後半を過ぎた頃から、「大学受験はもういいや」と思うようになり、毎日、どうすればビッグになれるかを思案する日々。当時は『ベンチャービジネス』なんていう言葉も知らなかったので、手っ取り早く水商売で働き始めることにした。「大人の言うことを素直に信じて、大学に行っているやつらはアホだ」と自分に言い聞かせながら。そんな生活が2年ほど続いた。
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幼少期~高校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/22 02:05 UTC 版)
3歳よりピアノを始める。10歳から本格的に声楽を学ぶ。孤独な生育歴ゆえに文学の世界に興味を持っていった。6歳から、誰の影響もなく、クラシック・ピアノの延長から、口ずさめる歌まで作曲を始める(音楽を親に隠れて聴くようになるのは、後のことである)。親からの精神的虐待が酷く、小学校は3回転校させられ、友達も絶対に作らせてもらえなかった。学生生活を通して、一度も修学旅行にも行かせてもらえず、友達付き合いもさせてもらえなかった。生きづらさを感じていたが、生きるためには親に従うしかなく、一人っ子で助けてくれる身内もいなかったので、隠れて興味のあることに没頭していった。 小学生の頃は、普通の図書室の本を読むだけで満足していた。中学になると、ルパンシリーズを全部読み始めるが、何故か推理小説を読んだことで親に激しく叱られた。それをきっかけに、フランス文学に目覚め、外国の文学に興味を持ち、世界観の基盤になるデュマやゲーテ、そして作品の元になるヘッセを訳者を換えて次々と読み出す。並行して、芥川龍之介の世界を音でビジュアルアル化することを考え始める。音楽的には、テレビもラジオもマンガも禁止されていたので、布団の中で、深夜聴いたザ・フーに強い衝撃を受けて、ビートルズの完成されたポップさより、創作意欲をそそるザ・フーについての姿勢や思想を調べるうち、すっかり虜になる。そこから、洋楽一辺倒になり、ラジオで隠れて聴いたり、学校で友達に借りた音源を親に見つからないように聴くようになる。その頃 ナチコは1日に6~7時間はピアノを弾いて歌うという生活を続けており、実力が向上してきたために師事していたピアノの先生が音大のピアノ科受験を親に勧めた。しかし、親は元々見栄でピアノを習わせていたため、本意では無い音大受験という進路が見えてきたことに反対し、ナチコが高校の半ばで強引にピアノを辞めさせた。こうして、ピアノに鍵をかけられて、ピアノのない生活を余儀なくされた。その後、不本意に親に決められた大学を受験させられたが、白紙答案を出して帰ってきた。その間 ピアノのない生活を絶望の詩を書き続ける。
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幼少期~高校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 14:00 UTC 版)
父親の影響で幼少期より演歌を歌い始める。 6歳の時、親戚の家で行われた節句で初めて人前で歌い、その時の拍手と歓声が音楽に興味を持ったきっかけだった。 ちびっ子のど自慢大会で数々の賞を受賞。 中学生時代、「たま」の歌詞に心を打たれ言葉に興味を持つようになる。 同じ頃、英語の教師から借りたQueenやKISS等、洋楽のテープでロックに目覚めたのち、ジャパニーズV系ロックバンド「X(現X JAPAN)」に心酔。 将来の夢は「Xになること」。
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幼少期 - 高校時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 08:09 UTC 版)
小さい頃はおとなしい子どもで、何かものを作ることや、本、漫画、水泳が好きで球技は弱かった。小学4年生から6年生まで金管バンドに所属してトランペットを吹いていた。また同時期に音楽クラブに入り、アコーディオンや小太鼓をしていた。小学生の頃はマラソンに関して苦手意識があったが、次第に周りの友人が一生懸命スポーツに取り組んだり、速いスピードで走る姿に影響を受け、片岡もベストタイムを出そうと努力したり10年くらいかけて意識が変わっていったという。 テレビで放送されたジャッキー・チェンが出演する映画『酔拳』を見て憧れの人となる。映画館で初めて見たのは『五福星』。ジャッキー・チェンをきっかけに映画が好きになり、多くの映画をのめり込むように見た。女優になりたいというのはまだなかったが、「映画に何か関わりたい」という気持ちはあった。 中学生の頃『ミス南ちゃんコンテスト』に応募して、コンテストに出場したことがある。 高校時代に、東京の大学に行くと決めた時は映画に関わる夢を抱える状態だった。両親は女優に反対で、大学の4年間でチャンスをつかめなければ、土木の勉強を活かして愛媛に帰って就職すると約束し、挑戦することにした。
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