幼帝として即位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 15:39 UTC 版)
赤烏7年(244年)、孫権と寵妃潘淑との間の子として建業宮内殿で生まれた。最年少の子であったため、孫権に特に可愛がられた。 長姉である全公主は、三兄の孫和の生母である王夫人と不仲であったため、孫和の廃嫡を目論み、孫権に王氏と孫和のことを讒言する一方で、四兄の孫覇を後継者にするよう運動した。こうして呉の群臣たちが孫和派と孫覇派に分かれて闘争する二宮事件が勃発した。赤烏13年(250年)8月、両派を収拾するため、孫権は孫和を廃立し、孫覇も自殺させた。11月、新たな皇太子として孫亮が擁立された。 太元元年(251年)夏、母が孫権の皇后になると、嫡出子の地位を確立した。同年12月、病気が重くなった孫権は、諸葛恪を呼び寄せて太子太傅に任じ、さらに滕胤を太常に任じて孫亮の輔佐に当たらせた。 孫亮は幼いころから聡明で成人並みの判断力があり、皇太子として傅相に対して礼を尽くし、大臣の敬意を得た。 神鳳元年(252年)、2月に潘皇后が暗殺され、4月に孫権が崩御した。孫亮が皇帝に即位、大赦を実行し、建興と改元した。
※この「幼帝として即位」の解説は、「孫亮」の解説の一部です。
「幼帝として即位」を含む「孫亮」の記事については、「孫亮」の概要を参照ください。
- 幼帝として即位のページへのリンク