幼帝期の混乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 02:00 UTC 版)
天統4年(1366年)、太祖明玉珍の崩御に伴い即位し開熙と改元した。即位時は僅か10歳であり、母の彭太后による摂政が行われたが、重臣たちをうまく統御する事はできなかった。 まず六卿の司馬だった万勝が同じく司空の張文炳を暗殺し、今度は張文炳と親しかった太祖の養子の明昭が万勝を殺した。このまま混乱が連鎖的に激化するかに思われたが、この時は宰相の戴寿の献策で明昭を処刑して何とか事なきを得た。しかしこの事件で六卿のうち二卿を失い、さらに3年後には国内制度を整備してきた劉楨が死去したことで、順帝は建国時の6人の重臣のうち3人までを失ってしまった。
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