幼年、小・中学校の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 03:06 UTC 版)
津田は1907年2月に台湾・基隆庁基隆(キールン)保仙洞(セントウ)庄七十-一で生まれた。 父は宗助、母はフサといい、埼玉の忍藩(行田市)の士族だった父は、寺子屋教育の後、埼玉県庁に勤めていた。日清戦争で新しい領土になった台湾の統治が急務となり、台湾の出入口の基隆の築港工事が始まった時、県庁の上司とともに渡台した。明治三十年代の初めのことである。 物心ついた時、一人の兄は学校の関係で東京に居て、姉二人は台北の高等女学校の寄宿舎に居たから、基隆の家は津田一人だったので両親は可愛がった。母は1925年(大正14年)秋、津田の高校2年の時に53歳で浦和の自宅で死去。父は戦争の為め疎開していた福島で1946年(昭和21年)夏に81歳で死去している。 基隆港は台湾の北端で、内地への出入口になっていたが、築港工事は第一期工事がほぼ終り、市街と岸壁で囲まれた内港で、6000トン級の内台定期船が数隻着岸できた。 防波堤の外側の湾口、西岸一帯が仙洞という漁民の小部落で、そこに百世帯以上が住める立派な官舎があった。官舎の前面の海岸は珊瑚礁と砂濱の海、湾の入口に白い燈台があった。 津田は仙洞の官舎で小学校の四年終了までの十年間を暮した。基隆地方は台湾では有名な多雨地帯だから秋と冬は雨つづきだったが、春から夏は天気が良くて一日中、海で泳ぎと釣りで遊べた。貝拾いもした。後年、高校で水泳部に入り、泳ぎ好きとなったのは幼年時代の習性だ。 基隆の市街には内地人も多かったので基隆小学校というのがあったが、仙洞からは通学できないので、分校が官舎の傍に建っていた。教室が二部屋に小使室、校長室、便所と広い洗面所があり運動場も小さいが備っていた。二十人か三十人の生徒を三学年ずつ二人の先生が受け持ついわゆる辺地教育だった。 基隆築港工事の終了とともに1917年(大正6年)、父の転勤で台北に移転した。台北は内地の都市と比べると煉瓦づくりの町並み、舗装道路、街路樹など、遥かに近代的な作りであった。 津田の新居は内地人の住宅地として造られた台北駅の裏側、大正街といい、その地区の城北小学校の五年級に転入した。 生徒数が一学年200人、総数千人という学校で、煉瓦造りの校舎があり、本部と管理棟の高くて丸いドーム型の屋根と背の高い檳榔樹が特徴で、中々立派な校舎だった。城北小学校は後に樺山小学校と改名したが、後に東宝の役員をしていた菊田一夫が津田と同じ小学校だった。 当時台湾の人口は350万位、内地人は十六万だったが、台湾全島に総督府直轄の中学校は一校あるのみであった。台北中学は一学年200名、五年制だから全校生徒1000人である。大変立派な煉瓦づくり二階建ての校舎のほかに全島から生徒が入学するため立派な寄宿寮も完備していた。 津田は小学校の五年生から中学の四年生終了までの六年間を台北の町で暮らしたが、両親は中学三年の時に台中市に移り、それから一年後に埼玉に引き揚げたから、津田は台北生活最後の二年間は親戚に下宿した。 津田は両親が浦和に引き揚げたので、考えも無く浦和高校(旧制)を受験することに決めた。理科乙類(ドイツ語が第一外語)を選んだ。理甲も理乙も受験生の数はほぼ同様で、定員40名の八倍強であった。中学校の配慮で、四年終了受験生は、三学期の進級テストを免除され、二月、蓬莱丸という定期船で基隆港を出て四日目に、門司港で内地の山々を眺めた。雪の降った朝で、雪景色は津田にとっては生まれて初めてなので大変印象的だった。 津田は1923年(大正12年)3月、目出度く父母のいる浦高理科乙類に合格した。四年終了で高校に入ったのは三人位だったようだ。
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