人臣太政大臣と人臣摂政
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正規のかたちで太政大臣が任命された初例は、斉衡4年(857年)2月の藤原良房である。ときの文徳天皇は、おりから病気がちであり、しばしば政務を執ることができないほど体調が悪化することがあった。一方で、皇太子惟仁親王はわずか8歳の幼少であった。文徳天皇としては、生母藤原順子の兄であり、正室藤原明子の父であり、皇太子の外祖父であり、すでに右大臣として廟堂に重きをなしていた良房は、病身の自分を補佐するとともに、自分に万一のことがあった場合には前代未聞の幼帝として即位することになる惟仁親王の後見人として、もっとも頼りがいのあるうってつけの人材であったと言える。実質的には、良房の太政大臣任命は、いわゆる「人臣摂政制」の発足としての意味を持つものである。はたして文徳天皇は翌天安2年(858年)2月に崩御、惟仁親王が9歳で践祚した(清和天皇)。『公卿補任』や『職原鈔』などは、良房が清和天皇の践祚と同時に摂政に任じられたものとして記述している。良房は、順子や明子と協調しながら、事実上の摂政としての役割をはたしてゆくことになる。 清和天皇の良房に対する信任は篤く、成長しても良房に対する尊重は変わることがなかった。貞観8年(866年)閏3月に起きた応天門の変による政情不安に際しては、同年8月に、非常事態を収拾するための大権として、あらためて良房に天下の政を摂行すべき由の勅を発している。形式的には、この時点が史上初の人臣摂政の任命とされている。さらに貞観13年(871年)4月には、良房に三宮に准じて年官年爵を与えている(准三宮の初例)。 良房が貞観14年(872年)9月に薨去すると、その立場は良房の猶子の右大臣基経に受け継がれた。清和天皇は、貞観18年(876年)11月に皇太子貞明親王(陽成天皇)に譲位するにあたり、基経に良房と同じ摂政の任を与えている。さらに、元慶4年(880年)12月には、その崩御に臨み遺詔をもって「右大臣の官職は摂政の任にふさわしくない」という理由で基経を太政大臣に昇進させている。これ以降、摂政の職務と太政大臣の官職は一体のものとして観念されるようになってゆく。 元慶8年(884年)2月に陽成天皇が廃位され、光孝天皇が践祚すると、基経は、陽成天皇の退位により摂政の職務は解除されたものと考えた。一方、光孝は従前どおり基経の補佐を受けることを望んだ。しかし、良房・基経の摂政がいずれも老練な重臣が若年の天皇を補佐するものであったのに対して、光孝天皇は基経よりも年長であった。そこで、従前のものとは異なる論理で摂政の職務を合理化する必要が生じた。ここで着目されたのは太政大臣の職務権限である。太政大臣であること自体に事実上の摂政の意味を求めようとしたのである。基経も、令では抽象的な規定にとどまっている太政大臣の職務の具体化・明確化を望んだ。 元慶8年5月、文章博士菅原道真ら8名の有識者に「太政大臣の職掌の有無」が諮問された。8名の答申はさまざまで意見の一致を見なかったが、もっとも明確に結論をくだしたのは道真の答申である。それは、太政大臣は「分掌の職にあらずといえども、なお太政官の職事たり」というものであった。実は『令義解』にも「分掌の職にあらず、その分職なきがため、ゆえに掌を称さず」と明記されている。令に太政大臣の職務権限に関する規定がないのは、地位のみが高くて実権のない官職だからではなく太政官が管轄するすべての職務について権限を有するために、あえて個別に例示する必要がないからだというのである。 これを踏まえ、光孝天皇は同年6月に基経に対して、太政大臣は「内外の政統べざるなし」との詔を発し、太政大臣が実権のある官職であることを保証した。しかし、同じ詔で「まさに奏すべきのこと、まさに下すべきのこと、必ずはじめに諮稟せよ、朕まさに垂拱して成るを仰がむとす」とも述べて、基経には太政大臣とは別の特殊な権限があることも認めている。この後半の部分は、のちに関白を任命する際の詔にも決まり文句として継承されることになる。これは、摂政・関白と太政大臣が分離してゆく最初の契機ともなった。 仁和3年(887年)8月に光孝天皇が崩御し、宇多天皇が践祚した際にも、基経の特殊な権限は再確認された。同年11月、宇多天皇は「万機の巨細、百官己に惣べ、みな太政大臣に関わり白し、しかるのちに奏下すること一に旧事のごとくせよ」と詔している。これが「関白」ということばの初例である。
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