北朝鮮での生活
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「チャールズ・ジェンキンス」の記事における「北朝鮮での生活」の解説
騒動からしばらくは、ジェンキンスの動向はアメリカ軍を始めとして内外に秘匿され、どのような状態に置かれているのか不明という時期が続いた。北朝鮮政府はジェンキンスに主体思想を始めとしたイデオロギーを学ばせる再教育を施すなど、帰国させる意図はないことを示した。身柄も拘束されたままで、1972年まで他の3名のアメリカ国籍の人間と共に小さな家屋内での軟禁状態に置かれた。金日成の言葉を朝鮮語で暗誦させられ、常に監視され、また頻繁に拷問を加えられた。生活総和、すなわち強制的な自己批判も毎週させられた。ジェンキンスは、友人と呼んでもよいような義侠心のある人物も2、3人いるにはいたが、北朝鮮の人間のほとんどは、けちな権威主義と愚かしいほどの臆病さを掛け合わせたような、目もあてられない連中ばかりだったと回顧している 彼自身は「すぐに自らの行いを懺悔した」と告白している。彼は自らをふりかえって、「要するに、私を脱走へ駆り立てたさまざまな理由は、若く、絶望し、見当違いをしている何千人という兵士たちが毎年逃亡するのと同じ理由だった。私は共産主義のシンパだったわけでもなければ、北朝鮮に愛着を持ったり亡命しようと意図したこともなかったのだ。言い訳をするつもりはない。軍隊から脱走したのは卑劣な罪であるし、部下を見捨てたこともリーダーとしては全く最悪の行為だった」と記し、そのうえで説明しておきたいこととして「私はあまりにも無知だった。一時的に身を寄せようとしていた国が、文字どおり常軌を逸した巨大な監獄であることを理解していなかった」と述べている。
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北朝鮮での生活
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「ラリー・アブシャー」の記事における「北朝鮮での生活」の解説
チャールズ・ジェンキンスは、彼の著書『望まないなかでの共産主義者』(The Reluctant Communist)の中で、アブシャーは朝鮮語での会話は難しいが、その言語には魅了されており、新聞から高レベルの語彙を勉強するのには何時間も費やすだろうと書いた。ジェンキンスによれば、逃亡兵4人は、最初寺洞区域で同居し、1965年年6月には万景台区域の1部屋の家に移され、1967年秋には太陽里、1969年には貨泉の家に移された。4人は数年にわたって共同生活を送り、金日成の書いた文章を読まされ、暗記させられた。ジェンキンスによれば、万景台で暮らしていたとき、ドレスノクはたとえば部屋を散らかしてアブシャーにそれを片付けるよう命じるなどの行動で彼をいじめた。アブシャーは、ジェンキンスによって「単純で、優しく、善良な魂の持ち主だが、少し頭が鈍くて簡単に付け込まれる人物」として同情をもって描かれた。 しばらくの間、ドレスノクとパリッシュは、ジョン・スタインベックの小説『二十日鼠と人間』に登場する、頭が弱くておめでたい「レニー」という登場人物にちなんで、アブシャーを「レニー」と呼んで馬鹿にした。アブシャーは、ジェンキンスによってそうしなければならないと確信するまで、いじめに立ち向かおうとはしなかった。ドレスノクがいつものようにアブシャーを小突き回そうとしたとき、アブシャーがついに彼を拒み、ジェンキンスが、ドレスノクがアブシャーに襲いかかろうとしたところでドレスノクを打ち負かしたことで彼を守った。その後ドレスノクは、敵意の対象をジェンキンスに移した。 1972年6月30日、他の3人の脱走者とともに彼に北朝鮮の市民権が与えられた。4人の米国脱走兵はばらばらになり、ジェンキンスとドレスノクは勝湖区域立石里に、アブシャーとパリッシュは数キロメートル離れたところに家が与えられた。アブシャー、そしてドレスノク、パリッシュ、ジェンキンスもであるが、彼らには、料理人であり「世話係」であり、ときに性的パートナーともなりうる北朝鮮の女性が「与えられた」。彼女たちは不妊症であると考えられており、結婚した後、何年にもわたって子供がいなかったので離婚させられた女性たちであった。しかし、アブシャーの料理人は思いがけず妊娠し、そのことが判明してすぐに彼の元から消え去った。 その後、アブシャーは別の女性と結婚した。『クロッシング・ザ・ライン』において、ドレスノクは女性は朝鮮人であるとしているが、ジェンキンスは『望まないなかでの共産主義者』のなかで、アブシャーの妻となった女性は北朝鮮政府が彼に与えたアノーチャ・パンジョイというタイ人女性であると述べている。ジェンキンスによれば、彼女はマカオでマッサージ師として働いていたところを北朝鮮工作員に拉致されて北朝鮮に連行され、まもなく1978年にアブシャーに「与えられた」女性である。拉致に関するジェンキンス証言は、彼が北朝鮮で彼女の写真を撮影していたこともあって信じ難いほどに歓迎された。これは、北朝鮮拉致問題について、北朝鮮が日本ばかりではなく、それ以外の国の市民も拉致した可能性があることを示したものであった。 アブシャー夫妻には子供がいなかった。アブシャー死後の1984年11月、立石里に米国人用のアパートが完成し、4世帯がそこに入居した。アノーチャは1989年、東ドイツの実業家と再婚させるためアパートから連れ去られた。
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北朝鮮での生活
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韓国の女優だった崔銀姫は北朝鮮に拉致されてから以降のことを手記(邦題:『闇からの谺』)に残しているが、それによれば、1978年秋頃、金剛山宿泊所の入り口で崔は孔令譻ともう一人のアジア人女性が一緒にいるところに遭遇している。ただし、そのことを、孔の方は崔銀姫が有名な女優であったために覚えていたが、崔の方はその女性が誰なのか知るよしもなかった。 1979年6月頃から同年の9月20日にかけて、崔が平壌直轄市龍城区域東北里の招待所に収容されているとき、散歩中にマカオから拉致されてきた「ミス・孔」という中国女性と会い、何度も話をして親密になった。孔は、英名は「キャサリン」だといい、身長165センチくらいに見えた。彼女はマカオにいたとき崔の写真を何度もみて有名な女優であることを知っており、北朝鮮に来てからも一度金剛山宿泊所で崔銀姫を目撃したという(当時の崔は、「ミス・孔」の下の名前まで知らなかったが、その後の調べで、彼女の本名は「孔令譻」であることが判明した)。孔の話す朝鮮語はぎこちなかったが、意思疎通には問題なかった。 「ミス・孔」が崔銀姫に語ったところによれば、孔とナイトクラブ勤めのマカオの女性は拉致された後、平壌で外国人だけが出入りできる商店にときどき案内された。そして、ある時、外貨ショップに案内されたとき、見つけておいた在北朝鮮インドネシア大使館にかけこんだ。当初、インドネシア大使館員は困惑しながらも助けてくれそうな雰囲気であったが、崔銀姫の写真を見せて「この女性を知っているか」と尋ねたので「顔は知っているが本人とは面識がない」と答えると、大使館員同士でしきりに話し合ったあと「残念だが、自分たちと異なる国籍の人を助けることができない」と伝えて北朝鮮側に彼女たちを引き渡してしまったという。孔ともう1人の女性は、食事を少しだけにして、食べることのできないようなひどいおかずを出すという仕打ちを受けた。食事を使った拷問に苦しめられていたとき、ナイトクラブの女性が「こんなことするなら私たちを殺せ」と泣き叫んだので、孔はナイトクラブの女性とも引き離された。その後、彼女は何度か自殺を試みたが、それ以後はナイフばかりではなく金属類すべて身の周りから消えていったという。頭のよい彼女は、朝鮮語を学ぶことを申し出て一生懸命学んだ。そして、以前ヨルダン人女性がいた東北里第4招待所に住むこととなり、そこで崔銀姫と隣同士になったのである。監禁生活のストレスから孔も崔も胃病にかかり、消化を助けるためよく散歩していた。2人は散歩道と時間を待ち合わせてよく2人で散歩の道すがら話をした。崔は自分と同じ境遇の孔に涙し、他国の人まで拉致してくる悪辣きわまる所業に強い憤りを覚えたという。9月20日、崔銀姫は白頭山招待所に移らされたので、彼女と離れることになった。 1982年1月22日、崔は再び東北里に移らされた。崔は「ミス・孔」と会いたくて、長く散歩したり、以前彼女と散歩したことのあるところを選んで散歩したりした。3日ほど経って、以前2人でよく行った松林の方を散歩したところ「お姉さん」と声をかけられた。「ミス・孔」であった。2人は抱きしめあって泣き続けた。孔は崔と離れた後、泣いて暮らし、夢にみたことさえあると語った。2人は3月8日に別れるまでしばしば会い、親しく語り合った。孔の朝鮮語はかなり上達していた。彼女は、人参酒のような飲料をこっそり持ってきて崔に勧めた。何度も話をしているうち、崔は孔がカトリック教会の信者であることを知り、その影響で彼女も同じ信仰をもつようになった。孔は自身の洗礼名「マリア」、崔銀姫は孔によって与えられた「マザリン」の名で互いに呼び合うようになった。そして、林のなかで落ち葉に胸までつかりながら、孔が崔に洗礼を授けた。孔にその資格があるわけではなかったが、「こういう場合はできる」と言っていたという。あるとき、孔は金正日の秘密パーティーに招かれ、金正日に良い結婚をさせてやるといわれたという。また、拉致後、彼女は子宮の手術をしたという。彼女は崔銀姫と別れるとき、自身と崔2人の"M"のイニシャルの入ったペンダントを友情の証しとして崔にプレゼントした。 大韓航空機爆破事件(1987年)の実行犯である金賢姫は、崔銀姫が2007年に著した手記『告白』(韓国で出版、未訳)のなかで「ミス・孔」について記されている箇所を見つけ、彼女と同僚工作員の金淑姫の2人が、1984年6月から8月にかけて、龍城40号招待所で中国語(北京語)の手ほどきを受けたのは、この女性であることに気づいた。金賢姫が「ミス・孔」の指導を受けたのは、東北里3号招待所で田口八重子(朝鮮名、李恩恵)と同居して日本人化教育の個人指導を受けた後、大韓航空機爆破に参与した金勝一とともに父子を装っての海外実習(ヨーロッパ旅行)の前のことである。1962年生まれの金賢姫は、彼女は自分よりも5歳くらい年上に見え、「典型的な中国美人だった」と証言した。彼女は朝鮮語がたいへん上手で、金賢姫らに対しては、収容されている最中に逃げたが捕まったと話していたという。 崔銀姫は、元興里の招待所に移ってからは「ミス・孔」と会うことはなくなったが、後で工作員に中国語を教えている噂は聞いたという。また、崔銀姫の証言と孔令譻の家族の証言とを照合するため、2006年3月18日、ソウルで崔と孔の家族が面会したが、その際、崔は「ミス・孔」と孔の父親がそっくりだと思ったと述べている。孔令譻は北朝鮮に拉致されてのち、ともに拉致された蘇明珍とはずっと会えない状態が続いている。
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北朝鮮での生活
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「アノーチャ・パンジョイ」の記事における「北朝鮮での生活」の解説
平壌に到着してすぐに、彼女はアメリカ人脱走兵のラリー・アレン・アブシャーと出会い、結婚した。1978年11月か12月頃のことであり、北朝鮮当局は、アブシャーにパンジョイとの同居を勧めたが、当初、アブシャーはどのような人をあてがわれるかを知らされておらず拒否していた。北朝鮮当局は、相手は外国人であり、きっと自身のためになると説得を続けたという。1980年、パンジョイと夫はジェンキンス・曽我ひとみ夫婦の住むアパートに転居し、家族同士仲良くなった。アブシャーは1983年に心臓発作で死去したが、その後もパンジョイとジェンキンス夫妻は親しく交際した。アブシャーとパンジョイのあいだには子がなかった。 パンジョイは、政府のために働いていた東ドイツ出身の工作員と結婚した1989年まで、ジェンキンス家の近くに住み続けた。曽我とジェンキンスがパンジョイを最後に見たのは、2度目の結婚式の直前のことである。パンジョイの再婚相手は、ヨーロッパに頻繁に出張していた。北朝鮮当局としては彼女の新しい夫となるドイツ人がどんな活動をしているか、ジェンキンスらに知られたくなかったのであり、同時にそのドイツ人の夫には脱走兵や拉致被害者の存在を知られたくなかったとみられる。ジェンキンスらは大学で英語を教えていたが、件のドイツ人は1回の出張が長期にわたり、パンジョイとその夫は語学教師をすることもあったが、その頻度は少なかった。 ジェンキンスは、パンジョイと会うたびに彼女がタイに帰り、家族と再会したがっていたことを証言している。
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北朝鮮での生活
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「シハーム・シュライテフ」の記事における「北朝鮮での生活」の解説
「ジェリー・パリッシュ」も参照 チャールズ・ジェンキンスは自伝の中で、シハームと他の3人の若いレバノン人女性は騙されて北朝鮮に連れてこられた事件の被害者であり、うち1人は、レバノン政府の有力者を両親に持っていたので、4人ともいったんはレバノンに帰されたのだと証言している。正確には、うち2人はベオグラードで脱出に成功し、シハームを含む残る2人も帰されたのであった。ただし、シハームだけはイスラム教徒だったので、家族はその教えにしたがい北朝鮮に送り返したという。母ハイダールにとってシハームは一人娘であったが、北朝鮮という国がどういう国家であるかの認識に乏しく、韓国とほぼ同じようなものだと考えており、また、娘が北朝鮮の人権状況や暮らしぶりを知っていたら送り返すようなことはしなかったと後悔した。シハームはまた、パリッシュが北朝鮮で自分を守ってくれた人だとも母親に伝えていた。 シハームはジェリー・パリッシュとのあいだに3人の息子をもうけた。1980年4月生まれのナヒ、1981年8月生まれのマイケル、1986年春に生まれたリッキーである。1984年11月、立石里に米国人用のアパートが完成し、4世帯がそこに入居した。ジェームズ・ドレスノクとドイナ・ブンベアの夫婦、ジェンキンスと曽我ひとみの夫婦も同じころ子どもができていたので、アパートはさながら幼稚園の様相を呈したという。ラリー・アブシャーの未亡人となったタイ人のアノーチャ・パンジョイの棟の1室が子どもたちの遊び場となり、アノーチャが子どもたちのおばさんのような役目をになった。3家族の子どもたちはみな互いにたいへん仲が良かったという。 ジェンキンスはまた、ヨーロッパで拉致され、夫婦となっていた石岡亨と有本恵子を平壌市内で目撃したことを、手記に記している。それによれば、目撃したのは1986年のある日で、場所は外貨専門の楽園百貨店、ジェンキンス・ひとみ夫妻とパリッシュ・シハーム夫妻の4人で買い物に来ていた。シハーム・シュライテフと有本恵子は病院での出産以来の知り合いのようにみえたという。 ジェンキンスによれば、シハームは数年に一度里帰りが許される特別待遇を受け、数週間の間、レバノンかイタリアに住む母親のもとへ帰ることができ、母からの仕送りや手紙を受け取ることもできた。パリッシュ夫妻はそのため、自分の家族は他の4家族よりも身分が上であるように振舞うことがあったという。 夫のジェリー・パリッシュは1998年に死去した。シハームの母ハイダールは2005年12月、日本を訪れ、東京および大阪で開かれた「家族会」「救う会」、「拉致議連」主催の国民大集会に参加して娘の解放を訴え、第3次小泉改造内閣の麻生太郎外務大臣、安倍晋三内閣官房長官とも面談した。
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