北朝鮮での生活とは? わかりやすく解説

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北朝鮮での生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 18:46 UTC 版)

チャールズ・ジェンキンス」の記事における「北朝鮮での生活」の解説

騒動からしばらくは、ジェンキンス動向アメリカ軍始めとして内外秘匿され、どのような状態に置かれているのか不明という時期続いた北朝鮮政府ジェンキンス主体思想始めとしたイデオロギー学ばせる再教育を施すなど、帰国させる意図はないことを示した身柄拘束されたままで、1972年まで他の3名のアメリカ国籍人間と共に小さな家屋内での軟禁状態に置かれた。金日成言葉朝鮮語暗誦させられ、常に監視され、また頻繁に拷問加えられた。生活総和、すなわち強制的な自己批判毎週させられた。ジェンキンスは、友人呼んでもよいような義侠心のある人物2、3人いるにはいたが、北朝鮮人間のほとんどは、けちな権威主義愚かしいほどの臆病さ掛け合わせたような、目もあてられない連中ばかりだったと回顧している 彼自身は「すぐに自らの行い懺悔した」と告白している。彼は自らをふりかえって、「要するに、私を脱走駆り立てたさまざまな理由は、若く絶望し見当違いをしている何千人という兵士たち毎年逃亡するのと同じ理由だった。私は共産主義シンパだったわけでもなければ北朝鮮愛着持った亡命しようと意図したこともなかったのだ。言い訳をするつもりはない。軍隊から脱走したのは卑劣な罪であるし、部下見捨てたこともリーダーとしては全く最悪行為だった」と記しそのうえで説明しておきたいこととして「私はあまりにも無知だった一時的に身を寄せようとしていた国が、文字どおり常軌を逸した巨大な監獄であることを理解していなかった」と述べている。

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北朝鮮での生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 18:56 UTC 版)

ラリー・アブシャー」の記事における「北朝鮮での生活」の解説

チャールズ・ジェンキンスは、彼の著書望まないなかでの共産主義者』(The Reluctant Communist)の中で、アブシャーは朝鮮語での会話難しいが、その言語には魅了されており、新聞から高レベル語彙勉強するのには何時間も費やすだろうと書いた。ジェンキンスによれば逃亡兵4人は、最初寺洞区域同居し1965年6月には万景台区域1部屋の家に移され1967年秋に太陽里、1969年には貨泉の家に移された。4人は数年わたって共同生活送り金日成書いた文章を読まされ、暗記させられた。ジェンキンスによれば万景台暮らしていたとき、ドレスノクはたとえば部屋散らかしてアブシャーにそれを片付けるよう命じるなどの行動で彼をいじめた。アブシャーは、ジェンキンスによって「単純で、優しく善良な魂の持ち主だが、少し頭が鈍くて簡単に付け込まれる人物」として同情をもって描かれた。 しばらくの間、ドレスノクとパリッシュは、ジョン・スタインベック小説二十日鼠と人間』に登場する、頭が弱くておめでたいレニー」という登場人物にちなんで、アブシャーを「レニー」と呼んで馬鹿にした。アブシャーは、ジェンキンスによってそうしなければならない確信するまで、いじめに立ち向かおうとはしなかった。ドレスノクがいつものようにアブシャーを小突き回そうとしたとき、アブシャーがついに彼を拒みジェンキンスが、ドレスノクがアブシャーに襲いかかろうとしたところでドレスノクを打ち負かしたことで彼を守ったその後ドレスノクは、敵意対象ジェンキンス移した1972年6月30日、他の3人の脱走者とともに彼に北朝鮮市民権与えられた。4人の米国脱走兵はばらばらになり、ジェンキンスとドレスノクは勝湖区域立石里に、アブシャーとパリッシュは数キロメートル離れたところに家が与えられた。アブシャー、そしてドレスノク、パリッシュジェンキンスもであるが、彼らには、料理人であり「世話係」であり、ときに性的パートナーともなりうる北朝鮮女性が「与えられた」。彼女たち不妊症であると考えられており、結婚した後、何年にもわたって子供がいなかったので離婚させられ女性たちであった。しかし、アブシャーの料理人思いがけず妊娠しそのこと判明してすぐに彼の元から消え去ったその後、アブシャーは別の女性と結婚した。『クロッシング・ザ・ライン』において、ドレスノクは女性朝鮮人であるとしているが、ジェンキンスは『望まないなかでの共産主義者』のなかで、アブシャーの妻となった女性北朝鮮政府彼に与えたアノーチャ・パンジョイというタイ人女性であると述べている。ジェンキンスによれば、彼女はマカオマッサージ師として働いていたところを北朝鮮工作員拉致され北朝鮮連行され、まもなく1978年にアブシャーに「与えられた」女性である。拉致に関するジェンキンス証言は、彼が北朝鮮で彼女の写真撮影していたこともあって信じ難いほどに歓迎された。これは、北朝鮮拉致問題について、北朝鮮日本ばかりではなくそれ以外の国の市民拉致した可能性があることを示したものであった。 アブシャー夫妻には子供がいなかった。アブシャー死後の1984年11月立石里に米国人用のアパート完成し4世帯がそこに入居した。アノーチャは1989年東ドイツ実業家再婚させるためアパートから連れ去られた。

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北朝鮮での生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 23:04 UTC 版)

孔令譻」の記事における「北朝鮮での生活」の解説

韓国女優だった崔銀姫北朝鮮拉致されてから以降のことを手記邦題:『闇からの谺』)に残しているが、それによれば1978年秋頃金剛山宿泊所の入り口で崔は孔令譻もう一人アジア人女性一緒にいるところに遭遇している。ただし、そのことを、孔の方は崔銀姫有名な女優であったために覚えていたが、崔の方はその女性が誰なのか知るよしもなかった。 1979年6月頃から同年9月20日にかけて、崔が平壌直轄市龍城区域東北里招待所収容されているとき、散歩中にマカオから拉致されてきた「ミス・孔」という中国女性と会い何度も話をして親密になった。孔は、英名は「キャサリン」だといい、身長165センチくらいに見えた。彼女はマカオにいたとき崔の写真何度もみて有名な女優であることを知っており、北朝鮮来てからも一度金剛山宿泊所で崔銀姫目撃したという(当時の崔は、「ミス・孔」の下の名前まで知らなかったが、その後調べで、彼女の本名は「孔令譻」であることが判明した)。孔の話す朝鮮語ぎこちなかったが、意思疎通には問題なかった。 「ミス・孔」が崔銀姫語ったところによれば、孔とナイトクラブ勤めマカオ女性拉致された後、平壌外国人だけが出入りできる商店にときどき案内された。そして、ある時、外貨ショップ案内されたとき、見つけておいた在北朝鮮インドネシア大使館かけこんだ当初インドネシア大使館員は困惑しながらも助けてくれそうな雰囲気であったが、崔銀姫写真見せてこの女性を知っているか」と尋ねたので「顔は知っている本人とは面識がない」と答えると、大使館同士でしきりに話し合ったあと「残念だが、自分たちと異な国籍の人を助けることができない」と伝えて北朝鮮側に彼女たち引き渡してしまったという。孔ともう1人女性は、食事少しだけにして、食べることのできないようなひどいおかずを出すという仕打ち受けた食事使った拷問苦しめられていたとき、ナイトクラブ女性が「こんなことするなら私たち殺せ」と泣き叫んだので、孔はナイトクラブ女性とも引き離された。その後、彼女は何度自殺試みたが、それ以後ナイフばかりではなく金属類すべて身の周りから消えていったという。頭のよい彼女は、朝鮮語を学ぶことを申し出て一生懸命学んだ。そして、以前ヨルダン女性がいた東北里第4招待所に住むこととなり、そこで崔銀姫隣同士になったのである監禁生活ストレスから孔も崔も胃病にかかり、消化助けるためよく散歩していた。2人散歩道時間待ち合わせてよく2人散歩道すがら話をした。崔は自分と同じ境遇の孔に涙し他国の人まで拉致してくる悪辣きわまる所業に強い憤り覚えたという。9月20日崔銀姫白頭山招待所に移らされたので、彼女と離れることになった1982年1月22日、崔は再び東北里に移らされた。崔は「ミス・孔」と会いたくて長く散歩したり、以前彼女と散歩したことのあるところを選んで散歩したりした。3日ほど経って以前2人でよく行った松林の方を散歩したところ「お姉さん」と声をかけられた。「ミス・孔」であった2人抱きしめあって泣き続けた。孔は崔と離れた後、泣いて暮らし夢にみたことさえあると語った2人3月8日別れるまでしばしば会い親しく語り合った。孔の朝鮮語はかなり上達していた。彼女は、人参のような飲料をこっそり持ってきて崔に勧めた何度も話をしているうち、崔は孔がカトリック教会信者であることを知りその影響で彼女も同じ信仰をもつようになった。孔は自身洗礼名「マリア」崔銀姫は孔によって与えられた「マザリン」の名で互いに呼び合うようになった。そして、のなかで落ち葉に胸までつかりながら、孔が崔に洗礼授けた。孔にその資格があるわけではなかったが、「こういう場合はできる」と言っていたという。あるとき、孔は金正日秘密パーティー招かれ金正日良い結婚をさせてやるといわれたという。また、拉致後、彼女は子宮の手術をしたという。彼女は崔銀姫別れるとき、自身と崔2人"M"イニシャル入ったペンダント友情証しとして崔にプレゼントした大韓航空機爆破事件1987年)の実行犯である金賢姫は、崔銀姫2007年著した手記告白』(韓国出版未訳)のなかで「ミス・孔」について記されている箇所を見つけ、彼女と同僚工作員金淑姫2人が、1984年6月から8月にかけて、龍城40招待所中国語北京語の手ほどきを受けたのは、この女性であることに気づいた。金賢姫が「ミス・孔」の指導受けたのは、東北里3号招待所田口八重子朝鮮名李恩恵)と同居して日本人化教育の個人指導受けた後、大韓航空爆破参与した金勝一とともに父子装って海外実習ヨーロッパ旅行)の前のことである。1962年生まれ金賢姫は、彼女は自分よりも5歳くらい年上に見え、「典型的な中国美人だった」と証言した。彼女は朝鮮語がたいへん上手で、金賢姫に対しては、収容されている最中逃げた捕まった話していたという。 崔銀姫は、元興里の招待所移ってからは「ミス・孔」と会うことはなくなったが、後で工作員中国語教えている噂は聞いたという。また、崔銀姫証言孔令譻家族証言とを照合するため、2006年3月18日ソウルで崔と孔の家族面会したが、その際、崔は「ミス・孔」と孔の父親がそっくりだと思った述べている。孔令譻北朝鮮拉致されてのち、ともに拉致され明珍とはずっと会えない状態が続いている。

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北朝鮮での生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/15 21:31 UTC 版)

アノーチャ・パンジョイ」の記事における「北朝鮮での生活」の解説

平壌到着してすぐに、彼女はアメリカ人脱走兵ラリー・アレン・アブシャー出会い結婚した1978年11月12月頃のことであり、北朝鮮当局は、アブシャーにパンジョイとの同居勧めたが、当初、アブシャーはどのような人をあてがわれるかを知らされておらず拒否していた。北朝鮮当局は、相手外国人であり、きっと自身ためになる説得続けたという。1980年、パンジョイと夫はジェンキンス・曽我ひとみ夫婦の住むアパート転居し家族同士仲良くなった。アブシャーは1983年心臓発作死去したが、その後もパンジョイとジェンキンス夫妻親しく交際した。アブシャーとパンジョイのあいだには子がなかった。 パンジョイは、政府のために働いていた東ドイツ出身工作員結婚した1989年まで、ジェンキンス家の近く住み続けた曽我ジェンキンスがパンジョイを最後に見たのは、2度目の結婚式の直前のことである。パンジョイの再婚相手は、ヨーロッパ頻繁に出張していた。北朝鮮当局としては彼女の新しい夫となるドイツ人がどんな活動をしているか、ジェンキンスらに知られたくなかったのであり、同時にそのドイツ人の夫には脱走兵拉致被害者存在知られたくなかったとみられるジェンキンスらは大学で英語を教えていたが、件のドイツ人1回出張長期にわたり、パンジョイとその夫は語学教師をすることもあったが、その頻度少なかったジェンキンスは、パンジョイと会うたびに彼女がタイ帰り家族再会したがっていたことを証言している。

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北朝鮮での生活

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 02:16 UTC 版)

シハーム・シュライテフ」の記事における「北朝鮮での生活」の解説

ジェリー・パリッシュ」も参照 チャールズ・ジェンキンス自伝の中で、シハームと他の3人の若いレバノン女性騙され北朝鮮に連れてこられた事件被害者であり、うち1人は、レバノン政府有力者両親持っていたので、4人ともいったんはレバノン帰されたのだと証言している。正確には、うち2人ベオグラード脱出成功し、シハームを含む残る2人帰されたのであった。ただし、シハームだけはイスラム教徒だったので、家族はその教えしたがい北朝鮮送り返したという。母ハイダールにとってシハームは一人娘であったが、北朝鮮という国がどういう国家あるかの認識乏しく韓国とほぼ同じようなものだと考えており、また、娘が北朝鮮の人権状況暮らしぶり知っていたら送り返すようなことはしなかったと後悔した。シハームはまた、パリッシュ北朝鮮自分守ってくれた人だとも母親伝えていた。 シハームはジェリー・パリッシュとのあいだに3人の息子もうけた1980年4月生まれのナヒ、1981年8月生まれマイケル1986年春に生まれたリッキーである。1984年11月立石里に米国人用のアパート完成し4世帯がそこに入居したジェームズ・ドレスノクドイナ・ブンベア夫婦ジェンキンス曽我ひとみ夫婦も同じころ子どもができていたので、アパートさながら幼稚園様相呈したという。ラリー・アブシャー未亡人となったタイ人アノーチャ・パンジョイの棟の1室が子どもたち遊び場となり、アノーチャが子どもたちおばさんのような役目になった。3家族の子どもたちはみな互いにたいへん仲が良かったという。 ジェンキンスまた、ヨーロッパで拉致され夫婦となっていた石岡亨有本恵子平壌市内目撃したことを、手記記している。それによれば目撃したのは1986年ある日で、場所は外貨専門楽園百貨店ジェンキンス・ひとみ夫妻とパリッシュ・シハーム夫妻の4人で買い物来ていた。シハーム・シュライテフ有本恵子病院での出産以来知り合いのようにみえたという。 ジェンキンスによれば、シハームは数年一度里帰り許される特別待遇を受け、数週間の間、レバノンイタリアに住む母親のもとへ帰ることができ、母からの仕送り手紙受け取ることもできた。パリッシュ夫妻はそのため、自分の家族は他の4家族よりも身分上であるよう振舞うことがあったという。 夫のジェリー・パリッシュ1998年死去した。シハームの母ハイダールは2005年12月日本訪れ東京および大阪開かれた家族会」「救う会」、「拉致議連主催国民大集会参加して娘の解放訴え第3次小泉改造内閣麻生太郎外務大臣安倍晋三内閣官房長官とも面談した

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